百四
イチが双葉を抱えて村へやってきた時、彼女がイチの大切な人なんだと、そう香麗は直感した。
今までにも幾人もの人を村に連れてきたし、その中には女の姿もあったが、今回ほど彼女は焦りを覚えたことはなかった。
誰に対しても一歩引いた冷淡な態度はなりを潜め、深い思いやりや細やかな気配りを見せていた。
村の者達はそんなイチの姿に驚き、集会所を二人に解放したり身の回りの品を融通したりと、親身になって世話をしたものだ。
一段落がつくと、イチは女の側に村人達を寄せ付けようとはせず、まるで我が子を守るために警戒して気が立っている野生の母獣のようだと、誰かが軽口を叩いた。
香麗はその姿に胸を痛めていた。
彼女は何度か、イチに求愛していた。その都度断られてきた。なぜと聞いても答えはくれず、粘ってようやく護りたい人がいるとだけ教えてくれた。双葉を連れてくるまで、香麗は護りたい人というのは、ただの方便だと考えていた。
自由を愛し、徒党を組むことなく孤高を貫き、根無し草のごとく流れ生き、気ままに振舞う彼にとっては、妻や家族という存在は彼を縛る重荷でしかないから、だから香麗のことを拒絶するのだとそう考えていた。
双葉の元に突撃して、会って何をしたかったのか、何を言うつもりであったのか、香麗は後になってもよく判らない。ただ衝動に突き動かされていた。文句を言うか、八つ当たりをするか、苛立ちをぶつけたかっただけだとは思うのだが。
ただ相手の女に会って、そして何かをいいたかったのだと思う。自分の思いを見せ付けたかったのかもしれない。
双葉の顔を目にして、胸の内にあったすべての言葉が力を失った。
ついで胸に浮かんだ言葉をあまり考えずに口にしていた。
「イチを下さい!」
と――
双葉とイチは瓜二つといってよいほどに通った顔立ちをしていた。その血の繋がりは明らかで、香麗はすぐさま己の思い違いを悟ったのだ。
そしてイチが血縁者を連れてきたと知り驚いた。
驚くと同時に安堵もしていた。双葉とイチの関係が兄弟ならば、二人の中に入る隙はある。それにずっと謎だったイチの出自をほんの少しだが垣間見れた。
村にいる人間は、皆が訳ありだ。この村にかかわりを持つイチもその例外ではない。
自分から明かすのではない限り、決して詮索をしない事が村における暗黙の了解だ。
香麗はイチの事がほんの些細な事でも知りたかったが、その暗黙の了解から自ら訊ねる事ができず悩ましく感じていたので、イチの事を少しでも知る事が出来て、それ自体は嬉しい事だった。
しかしそんな思いを吹き飛ばしてしまうほど、イチの連れてきた双葉という女は普通ではなかった。
労働を知らない美しい指先、品のある美しい所作、尊大な言動、無謀なまでの行動力、女らしからぬ武力。どれを取っても庶民とは一線を隔すものであった。
良い家で生まれ育った傲慢さが随所に滲み出る双葉や、国家に貴族への憎悪といっても良いほどの激しい感情を見せるイチの態度から、彼の複雑な生い立ちを忍ばせた。
村に着いてから、イチは双葉を村人達から遠ざけようとしていた。
よそ者に対して排他的な村だが、イチの関係者ならば殆ど無条件で受け入れられるはずで、それを知っていて、あえて村人達から隔離していたのは、双葉をあまり見せたくなかったからではないか。
香麗は双葉をそれだけ大切にしているからだと最初は考えていたが、双葉本人に会って、暫く接する事で少し考えを変えた。
双葉の正体を知られたくないから、あえて隠していたのではないか、と。
少々風変わりだが、双葉は明らかに上流階級の人間だ。双葉の兄弟か血縁者であるイチもまた、そういう出自の人間となる。
イチの出自や、どうやって育ったのか、何のために行動しているのか、そんなものを知らなくても、イチが村の為に多くの協力をしてくれた事や、政府への強い反発や弱者へ様々な物を施す姿を見れば、どうでもよいことだった。香麗がイチを慕うのは、彼女がイチに命を助けられたからだ。
助けられた後も、行く当ても帰る当てもなく途方にくれていたら、この村へ連れてきてくれて、生きる足がかりを与えてくれた。
香麗にとっては大恩あるイチだが、それ程親切な人間ではない。どちらかといえば冷淡で、あまり人と関わりあおうとする性質ではないのだ。
香麗を助けた事だって、ただの気まぐれで、成り行きのまま世話を焼いたに過ぎない。
イチの眼中にないことは判っていた。
だけど香麗はそれでよかった。
時折訪ねてきてくれれば、偶に思い出してくれれば、それで十分だった。
けれど――
双葉を背負い去ってゆくイチに、大きな焦燥を抱いた。
このままでは、二度と会えないような、そんな気がしたのだ。
今までに何度も見送ってきたが、今回のように最後かもしれないとは、全く思わなかった。
単なる気のせいかもしれない。
だけど、どうしても黙って見送る事はできなかった。
自宅へ急ぎ戻り、身支度を整えた。
荷物は殆どないが、旅に耐えうる身なりとなり、日持ちする保存食をいくらか包んで背負う。
イチたちが向かった山へ足早に進むと、村を出たところで背後から声をかけられ、香麗はギクリと足を止めた。
「どこへ行く気だ」
振り返ると堅如が腕を組んで立っていた。