百
目元に滲んだ涙を拭っていたら、二若が帰ってきた。
「何かあったのか?」
私が泣いているとでも勘違いしたのか、二若は問いかけてきた。
「転寝していただけだ」
私の答えに、そうかと短く答えただけであった。
「お前はどこへ行っていたのだ?」
「三姫に会ってきた。人払いをしておくから、『三姫の部屋』に行けだとよ」
この場合、『三姫の部屋』とは、三姫が寝起きしている部屋ではない。病弱な三姫が療養しているという事になっている、城の別棟の事だ。城内でも禁足地から程近く、外れに位置している。
現在、城には私と三姫が残っている事となっているが、実際には三姫しか住んで居ない。
私の不在を誤魔化すために、表向き三姫は病弱で伏せがちという事にしてあるのだ。使用人など、世話をする役割の者の配置も最低限で、その部屋の近辺には殆ど人がいない。
今いる場所からだと城を回り込まねばならないが、人知れず城の中に入り込むのなら最適な場所だった。
「城の北東にある小さな東屋はわかるか?」
「ああ。……あそこが『三姫の部屋』なのか?」
「そうだ。禁足地にある整備小屋から抜け道が掘ってある」
禁足地の中には、身を浸せば神通力が宿ると伝説のある泉がある。
単なる小さな池だが、その泉を守るために周りの森は足を踏み入れてはならない、禁足地とされているのだ。
池の畔に整備用の小さな小屋が建てられており、そこから『三姫の部屋』に抜ける、隠し通路が掘られている。昔からあったのではなく、私や三姫が、『三姫』の役をするためにコッソリと忍び込む際に使用するため、わざわざ職人に掘らせたものだ。
遠くの場所から人足を密やかに連れて来て、己がどこへ何を造っているか知らせないまま掘らせた。
この通路の存在を知っているのは、私と三姫、そして国の重臣である邵敬虞老将軍だけだ。
敬虞老将軍は、臣下の中で最も私と三姫が信頼する家臣である。彼が私達を盛り立ててくれたからこそ、私は王として立つ事ができたのだ。三姫も私の代理として、腕を振るうことが出来るのだ。彼なくして私達は成り立たないという位に重要な家臣で、耀・條・伶達従者の祖父であり、『三姫』にとっては舅ともなる人物だ。
「それなら夜まで待つ必要は無いな」
「ああ」
当初からそこが潜伏場所になるだろうと考えていたが、三姫に断りを入れず忍び込むのは何かと都合が悪い。もし部屋の中に使用人がいて、部屋の掃除などをしていたら台無しとなるし、部屋に隠れているだけでは三姫と連絡も取れない。だから夜まで待とうと言ったのだが、二若は城の警備をあっさりと抜けて、三姫の元へ行ってしまったようだ。
場所によっては城の警備も緩かろう。だが、三姫が居る辺りの警備は、簡単に忍び込めるような警備を敷いていない。それなのにこうも簡単に入られては……。
私は苦笑を禁じえなかった。
本当にどういう生活をしていたのか、酷く気になるものだ。
二若と共に禁足地へ向かった。
禁足地は殆ど人の手が入っていない場所だが、城から池までの道だけは下生えが刈られ、歩きやすいように整備されている。人に見られないようそこは迂回して、池を目指した。
禁足地は密かに何度も行き来したから、人の手の入っていない部分でも、ある程度場所がわかるのだ。
二若は小さい頃に国を出たためか、禁足地には疎いようで私の指示へ素直に従っている。父が存命中は、入ってはならないと硬く禁じられていたし、無理のないことである。
今まで私は二若の前でよいところが無かったが、これで姉として少しは威厳を挽回できたといいのだが。
池のそばに小屋はあり、そこへ到着すると二若は興味深そうに辺りを見渡した。
この小屋は、池での沐浴の際に着替えをしたり、池の周りを清掃するための道具や各種神事のための道具が仕舞われている。中は入り口側の半分は土間で、残り半分が一段高くなった板間だ。
土間で二若の背から下ろしてもらい、上がり框の前にしゃがみ込んだ。
床下へ入れないように板で塞いであるのだが、部分的に外れるようになっている。判りにくいよう隠されているが、小さな取っ手を横にずらして框の板を外した。見た目は完全に閉じられているが、こうして一部分だけ開けられるようになっているのだ。
床下へと入り込み、中に用意してある燭台へ火を灯した。
灯りを付けたところで二若を招き入れて、入り口を塞ぎなおした。中からでも外からでも、開け閉めできるようにしてあるのだ。
板間の床面は膝ぐらいの高さだが、床下の地面は掘り下げてあるので、中腰で進める程度の空間がある。
そして地面の真ん中には観音開きの木戸があり、一見すると床下収納のように擬態してある。
中には大きな木箱があり、秘密の宝物庫と思ってもらえればと、木箱の中には青磁で出来た高価な壷が仕舞われている。
木箱の床板は持ち上がるようになっていて、そこから地下通路に入れるのだ。床下の高さや木戸の大きさから、木箱ごとは持ち出せない。盗人としても重要なのは中身だけだろうし、更に木箱の下を探る事はしないだろうと思っての事だ。
先に二若を穴の中へ降ろし、次いで私も降りていく。
これが結構面倒なのだ。半分だけ持ち上がった床板の隙間に身体をねじ込みつつ、木戸を閉めるついでに木箱も閉めて、最後に床板を戻しながらも青磁も箱の中で割れてしまわないように、そっと床板をおろしながら穴の中へ降りていくのだ。
子供だましの仕掛けだが、何もないより安心が出来る。面倒だがこの手順をなくすつもりは無い。
穴の中では、燭台を手にした二若が待っていた。
幅はほぼ一人分だが、高さは私がまっすぐ立って歩けるほどだ。
基本的に私と三姫しか使わないから問題はなかったのだが、私よりも気持ち背の高い二若には、少しばかり天井が低いようだ。こればかりは我慢してもらうしかなかった。
地下通路の先は『三姫の部屋』に繋がっている。
ここは『一姫の部屋』や『二若の部屋』のような、王族が住まう建物とは別の棟にある。人が大勢いて休まらないだろうからと、療養のためにという名目だ。
三姫には別棟を与えて、国家の中枢に関わらせようとしていないようにも映る扱いだ。当然の事だが、中には足手纏いだからと冷遇しているのではと、『一姫』や『二若』に対して陰口を叩く者もいる。
冷遇していると陰口を叩かれる程度には、『三姫の部屋』には人がいない。それでも警戒しながら、床板を持ち上げそろりと部屋に上がり込んだ。
三姫が人払いをしているだろうが、『気を利かせて』善意だけで部屋にやってくる者もいる。弱みを暴こうだとか、弱った心に付け入ろうだとうか、悪意ばかりの者はあからさますぎてそんなうっかりはしないから心配は要らないのだが、善意で行動していたりすると思わぬ事をしてくれたりするのだ。
例えば人払いをした直後に、暫く側にこられないからと水差しの水を新鮮なものに替えておこうと、慌てて部屋へ飛び込んできたり。
何度これでヒヤリとした事か。
悪意や思惑があるのなら、相手の立場や性格などからある程度は予測も出来るが、丸っきりの善意だと全く予想も出来ないことが多い。私自身の精神が腐っているせいかもしれないが、善人だけは要注意なのだ。