一 始まり
帝都の皇帝の御座す宮殿は、大陸中で最も壮麗な建造物といわれていた。
広大な敷地に皇帝の居住である宮を中心に、いくつもの建物が立ち並んでいる。
建物と建物の間には十分な距離が開き、庭師達によって整えられた庭園がその間に配され、建物の中を互いに直接見ることは出来ないようになっていた。
建物と建物を繋ぐ通路には石畳が敷かれ、それ以外には白玉砂利が敷き詰められている。朱塗りの柱に豪奢な彫刻の施された雲肘木、軒の下に飾られている地垂木が、建物のもつ壮麗さを際立たせていた。
その建物郡は妃達の住む後宮、政の行われる前宮、皇子等皇族の住む中宮で構成されている。
その中宮の最も端にあり皇帝の子息である第五皇子が賜っている紅扇宮に、二若は忍び込んでいた。
その奥まった部屋の一室で二若は目当ての物を発見した。
二若は、やはり、という苦い想いを抱いた。
それは家臣の重大な裏切りの証拠だった。
二若はその証拠を逆に利用し、裏切った家臣を粛清する心積もりではあったが、だからと言って裏切りの証拠をまざまざと見せ付けられるのは気分がいいものではない。
苦々しい想いとは裏腹に、二若の頭は妙に冷めていた。
もう何年もの間頭の片隅にあって、結局実行されなかったある考えが脳裏をよぎる。
冷たく凝った何かに胸を苛まれながら、静かに決意を固めていた。
私は国許を離れて帝都の中宮内で、七番目の皇子が賜っている宮で暮している。
幼い頃に人質として帝国に送られて以来、第七皇子佑茜の側近として仕え、今でも皇子の宮に部屋を与えられ暮していた。
祖国は帝国に数多存在する属国のうち一国で、父王が治め支配していたのだが、今より十年程前に身罷った。
父王の長子として誕生した私は、祖国が帝国への恭順の意を示すために、人質として帝都へ送られたのだ。
帝国が望んだのは、次代を担う王となる弟の方だった。
しかし弟に万が一の事があっては、王家を存続させる事ができなくなる。
祖国では王位を継げるのは男子のみと決まっていたからだ。例え長子であろうと、女の私には相続権はない。
だから家臣達は私を弟と偽り、帝都へ送り出したのだ。
以来ずっと弟の二若として私は男の振りをして暮してきた。
事の発端は国元からそんな私の元へ、祖国の政を補佐している家臣が尋ねてきたところから始まった。
本当はもっと前から動いていたのだろうが、私がそれを知覚したのがその時だったというだけだ。
家臣の名は朱晋と言ったが、私は彼が上京してくる事など聞かされていないし、それを指示した事もない。つまり無断での行動だ。
数年前、弟の二若として父王亡き後空位となっていた王位につき、祖国を遠く離れたこの帝都で政務を執っている。
帝国にあったまま国をつつがなく動かすには現状をつぶさに把握し、指示を伝えなければならない。
普段は国元で実際の指揮を取っている末子である一姫という私の名を名乗った妹から、手紙という形での報告を受け、それをまた同じように手紙という形で指示を出している。
だが、込み入った事情がある時など、難しい肌理細やかな指示を出すには手紙という形式では不足で、だから国から家臣が尋ねてくるのは珍しいことではなく、一姫へ手紙を出して人を来させることもあったし、逆に一姫から人が使わされてくることもあった。
朱晋が訪ねてきたときも、最初は不信には思わなかったのだ。
有力家臣の一人である朱晋は、祖父の代から仕えている実力の伴った野心家で、国元の官吏たちの信も厚く、王であってもあだや疎かに出来ない相手だった。
その彼を使い走りのような伝令役に使うことなど、まず考えられない。
それほどの大事が起きたのかと、内心では酷く緊張しながら迎え入れた。
宮に通された彼に対面し、そこにある”色”を目の当たりにし、脱力するほどの失望を味わった。
朱晋は強烈な野心の色を纏っていた。つまり私を蹴落としにかかっているという事だ。
何時かは来るだろうと半ば覚悟をしていたことだったが、信じていたかったのだと、それを愕然と思い知った。
何度経験しても慣れるという事のない虚無感に、泣きたい気持ちになった。
悲しいことに慣れた事ゆえに、それを表に出さないだけの芸当は朝飯前だった。
朱晋は己の抱いている不穏な思惑に気が付かれている事を知らない。
私が、自分に向けられる感情を視覚として認識できるということは、身内しか知らない私の最大の秘密だ。
この伏魔殿のような場所でここまで生き残ってこられたのは、運や偶然の産物などではなく、それが出来るからこそ。
裏切りや陰謀など私にとっては日常茶飯事で身近な物だ。
幼くそして力のない私が、敵だらけのこの宮殿で生きてこられたのは、曲がりなりにも国を動かしてこられたのは、その力があったからこそだった。
最大の切り札であり、知りたくもない他人の心を覗き見る厭わしい能力だ。
朱晋は吐き気をもよおす程いつも通りのにこやかな笑顔で、朗らかに挨拶を寄越してきた相手に、こちらもまたいつもの様に鷹揚に応えた。
「此度は何があった?」
ひとしきり時候の挨拶だのを繰り広げた後、本題に入った。
「いえ、王が心配めさる事はありませんぞ。ご安心くだされ」
「ほう。では何ゆえ忙しいそなたが此処へ?」
「知人の結婚式がありましてな、ついででは申し訳ないと思いましたが、お顔を見に寄らせて貰いました。一の姫様から言伝もありますし」
ホッホッホと好々爺然と笑って言う。
あの色さえ見えなければ、私は疑うことなど考えられなかっただろう。それほどまでに自然体であった。
そこまで心を決めているということか。
悲しいと感じる自分と、酷く冷たく観察している自分がいる。
だが、一姫からの手紙と贈り物を受け取るとき、かすかに見えた別の色。
わずかな憐憫のその色に、少しだけ救われる思いだった。
「わざわざすまないな。ついでで悪いのだが、国元へ帰りしなに寄ってはもらえないか? 私も一の姫と三の姫に手紙を書きたいのだ」
朱晋はそれを快諾し、宮を辞去した。