幸せボタン
――ん、なんだこれ。
朝、通勤中、駅構内を歩いていたとある男。彼はふと壁に小さな出っ張りを見つけた。立ち止まってよく見てみると、壁と同じ色で目立たなかったが、それはどうやらボタンのようだった。
「幸せ……ボタン?」
ボタンの横には、虫眼鏡で覗きたくなるような小さな文字でそう書かれていた。
彼は周囲を見回し、誰も自分に注目していないことを確認すると、そっと指を伸ばして押してみた。
「……何も起きないな」
彼はボタンを押した指をまじまじと見つめ、次に匂いを嗅いだ。汚れているわけでも、臭うわけでもない。どうやら、そういった悪戯ではなさそうだ。かといって、本物というわけでもないだろう。少なくとも今のところ変化は見られない。それとも、これから起きるのだろうか……。いや、真面目に考えるのも馬鹿馬鹿しい。そう思った彼は再び歩き始めた。
しかしその日、彼は一日中どこかそわそわしていた。期待していないふりをしながらも、心のどこかでもうすぐ何かが起こるのではないかと思わずにはいられなかった。
しかし、何事もなく一日を終え、彼は眠りについた。ただ、心に抱えた不満は夢にまで現れた。
そして翌朝、彼は通勤中に再びあのボタンの前で立ち止まった。今度は二回押してみて、さっと立ち去った。しかし、またしても何も起きず、その翌日は五回、その次の日には十回以上連続でボタンを押してみた。
だが、それでも何も起きなかった。
怒りすら覚えた彼は、ボタンのことなどさっさと忘れようと思った。しかし、期待は捨てきれず、彼は結局、通勤時にボタンを押すことをやめられなかった。
――いや、おれは何をやっているんだ……。
ある日そう思った彼は、ため息をついてボタンの前から離れた。何が幸運のボタンだ。馬鹿馬鹿しい。そんなものあるわけがない。もう二度とあのボタンは押さない。
そう決意した。が、すぐに揺らぎ始める。
でも、もしかすると、何か条件があるのではないか。頭の中で願い事をするとか……あっ!
未練がましく彼が足を止め、ボタンのほうへ振り返った瞬間だった。 ボタンの前に彼より少し年上のように見える男が立っていた。
――あの男……あっ、押した! 押したぞ!
その男はボタンを押すと、ニコニコと幸せそうな笑みを浮かべて歩き出した。
彼は思わずその男を呼び止めた。
「あ、あの、ちょっと!」
「はい、なんでしょう?」
「今、あのボタンを押しましたよね?」
「ああ、見られていたんですか。ははは、これはどうも」
男は気恥ずかしそうに笑った。彼は訊ねた。
「あの、何かルールがあるんでしょうか……?」
「ルール? さあ、私は今日初めてあれを見つけたので……」
「え、でもすごく幸せそうにしてたじゃないですか」
「ああ、そう見えましたか。ははは、お恥ずかしい。いやあ、今日何かいいことが起こるのかなって思ったんですよ」
「ああ、なんだ。そういうことでしたか」
彼はふんと鼻で笑い、言った。
「無駄ですよ。なーんにも起きませんから。僕、何回も押しましたけど全然でしたからね。無意味ですよ」
「ああ、そうなんですか。まあ、そうですよねえ」
「ええ、そうですよ。まったく馬鹿馬鹿しい、しょうもない悪戯です。はははは!」
と、彼は笑ったが、その男は微笑を崩さなかった。この男、馬鹿なのだろうか。どうも意味が伝わっていないようだ。と、彼は思い、言った。
「いや、だからあのボタンには何の効果もないんですよ?」
「ええ、そうなんですねえ」
「はい、それなのにどうして幸せそうな顔をしているんですか?」
「ああ、いいんです。何か幸せなことが起きる気がするというだけで、今日一日を楽しく過ごせそうです」
男はそう言うと彼に会釈し、去っていった。
能天気なやつだ、と彼は顔を顰め、ため息をついた。
――これ……ボタンか?
下を向いたとき、彼はふと壁の下のほうにもボタンがあることに気づいた。足で蹴るようにして押すと、やはりそうだ。カチッという感触があった。
近くを調べると、壁の低い位置にいくつか同じようなボタンを見つけ、彼はそのすべてを押していった。
彼はこの先もボタンを押し続けるだろう。ニタニタ笑いながら。