竜の献血医
私の体に流れる力は、いずれ私自身を滅ぼすだろう。
竜という種族は、この世界では貴重で希少だ。
体を覆う硬い外殻は火も刃も通さない。一対の羽で大空を飛び回り、頑丈な尾は全てを薙ぎ倒し、長く鋭い爪と牙は全てを砕く。
私達は生殖を行わない唯一無二。それを補うように、私達の体には優れた生命力が宿り、永遠とも呼べる寿命が備わっていた。その神秘性は畏れの対象であり、私達を傷つける者はいなかった。
平穏で変化のない日々。
しかし本当の敵は外ではなく内にいた。
竜に備わった生命力は体の中でどんどん強まり、やがて肉体を蝕む毒となるのだ。
何とか力を発散すべく、私は他の竜と同じように大地の上を暴れ回った。生き物の棲み家を踏み潰すこともあった。
全身から血の雨を降らし、それでも体に溜まった力を使い果たせず、私は痛みに苦しみ途方に暮れた。
***
ある日“街の上を転げ回り居着いてしまった竜”の噂を聞きつけた旅人の男が一人、私の元を訪ねた。
「初めまして。俺はカスカダといいます。貴方が噂の黒竜ですか。」
旅人の体を覆い隠す黒い衣服は、後ろ暗い生い立ちを世間から隠すためのものだと言う。
私も同じ黒色の体であるから、妙に親近感を覚えたものだ。
奴の荷物は見たところ、黒象牙らしき素材を削り出した一本の杖のみ。山歩きの杖にしては物々しい雰囲気だ。
「…なるほど。では貴方の体に宿る力を何とかできれば、これ以上街を破壊せずに済むのですね?」
奴は意外にも親身に、私の話を聞いた。まさか人間と言葉が通じるとは。
【ああ。自分ではどうすることもできんのだ。体中が痛痒くて仕方がない。】
小さな人間に何かできるはずもない。さして期待しなかったが、奴には心当たりがあるらしい。
「俺の家は代々医師でして。体の中の悪い物を取り除く方法なら知ってます。」
【何?竜でもか?】
奴は携えていた杖を見せる。繊細な竜が彫刻されたそれは、一見するとただの杖だが、実際は石突に仕掛けがあった。
奴が杖で石畳を打つと、杖の石突から鋭い針のような物が現れた。
【武器か!騙したな!】
思わず身構える。
だが奴は、私の反応が予想通りと言うように、クスクスと笑っている。
「医師だと言ったでしょう?これは貴方のような、体の大きな者に使うための特注のサイケツシンです。」
聞き慣れない言葉だ。
私は顔を顰め、人間を睨む。牙を剥き出しにするのは、“お前などいつでも一飲みにできる”という脅しだ。
【それは何だ?私に何をするのだ?】
「採血針です。血を抜くのです。貴方のような強い竜の血は、体内に留まり続けると体を蝕んでしまうというではないですか。定期的に古い血を抜いたほうが、体の代謝も良くなりますよ。」
この体の荒ぶりを、体内で湧き立つ血を直接抜いて鎮めようとは、考えたことがなかった。
そもそも私には技術が無い。こういう時のために、小さくて手先の器用な人間がいるのだろう。
【…しかし、信用ならん。人の良さそうな顔をして、私に毒でも盛るかもしれん。】
「そんなことしませんよ。俺は今まで多くの人の怪我や病気を治してきました。信用してもらわないと、貴方はいつまでも苦しいまま。占拠された街の住民も悲しむままです。」
【しかし…。】
奴の手にした杖から伸びる、鋭い針。明らかに人間用ではない極太の針が、自分の体に突き刺さる…どのような感覚なのだろう。
「大丈夫です。初めはチクッとしますが、すぐに終わりますから。恐いと思うけど、頑張りましょう。」
奴の聞き捨てならない言葉に、私は怒り狂う。
【恐いものか!!私は竜だぞ!街どころか、国ひとつ簡単に壊せるのだ!そんな針一本、脅威でも何でもない!】
力を見せつけるように尾を振り回して暴れるが、奴はちょろちょろと逃げ回る。手先だけでなく逃げ足まで器用とは腹立たしい。
「そんなに強いなら、多少血を抜かれても大した怪我ではないでしょう?」
黒衣の隙間から、奴はニンマリとした。
私を少しも恐れない。こんな人間は初めてだ。
奴の口車に乗るわけではないが、これまで何をしても体の痛みは晴れなかった。物は試し。もし何の解決にもならなかったら、その時は改めてこの男に仕返しすればいい。
【良いだろう。早く済ませよ。ただし妙な真似はするな。】
「ありがとうございます。大丈夫。俺はプロですよ。」
奴は手にした巨大な採血針を、私の前足の爪の隙間に突き刺した。確かに一瞬チクッとした痛み。だが体を蝕む力の痛みに比べれば、大したことはない。
やがて、妙な感覚に襲われた。全身を流れていた痛みの波が、針を刺された一点に集まっていく。
同時に、私の体の一部が奪われていくような、言いようのない不安感。体に直接何かが繋がっている感覚は未曾有の体験だ。
私の不安に気づいたのか、奴は幼子に向けるような笑顔を作る。
「だんだん痛みが和らいできたでしょう?」
奴の言う通り、長年私の体を苦しめていた痛みや、熱や、不快感などが、綺麗さっぱり無くなっていることに気づいた。
【本当だ!お前、何をした?】
「言ったでしょう。悪い血を抜いて、この杖の中に封印したんです。」
奴は力を込めて、私の体から針を引き抜く。傷口から、名残である赤黒い血がどろりと溢れたが、私が舐めれば傷も立ち所に塞がった。
杖が熱を持ったように淡く光っている。なるほど、ただの象牙の置き物ではなく、まじないが込められた代物のようだ。
「さあ、終わりました。頑張りましたね。」
【驚くほど体が軽くなった。…お前本当にただの医師か?】
羽を限界まで伸ばしても、爪で地面を掻いても全く痛くない。むしろ初めての清々しさだ。それが人間の手による結果だというのが、私の高揚感をさらに煽った。
「良かった。…でもまだ体内に少し、悪い血が残っていますから。また明日残りを抜きましょう。」
【そうか、分かった。しかしその杖は何なのだ?竜の血を蓄えて形を保っていられるとは。】
物理的に不可解だ。明らかに吸い上げた血の量は収まりそうに見えないのに。
「代々伝わる特別な道具ですから。俺も仕組みまでは分かっていません。ただ好きなだけ血を蓄えられ、好きなだけ取り出すことができます。」
人間の作る道具でそんな芸当ができるとは信じ難い。
しかし結果的に私はいたく満足した。体が軽い。まるで若返った思いだ。
【私の血をどうする気だ?】
これは純粋に気になった疑問だ。
私にとっては体を蝕む不要物。人間に扱いきれる物ではない。何せ、竜を苦しめるほどの生命力が宿っているのだ。
「そうですね。協力してくれた貴方には説明しないと。
これは、怪我や病気の人々の献血に当てられます。」
【献血?】
意味は知っている。しかし自分には最も縁遠い行為だ。
【私の血を、人間の治療に使うのか?どうなるのだ?】
これも純粋な疑問だった。
私は、人間を見下しているわけではない。ただ自分とは交わることのない存在だと割り切っていた。それに、あんなに小さな生き物に竜族の血を与えたらどんな変化が起こるのか想像がつかなかった。
「貴方達の血は生命力の塊です。ごく少量なら、死にかけた人間の治癒に絶大な効果を発揮するのです。失血した者には、竜血一滴で人間一人分の献血に相当します。不治の病を患った者には、体の免疫系を活性化し病の元を消滅させます。」
私は驚いた。破壊の権化である竜に、そのような側面があったとは。
「貴方達は循環器のようなものかも。荒ぶり人々の命を奪っても、その血で多くの命が救われる。そんな、命の循環器の役割があるのかもしれません。」
そんな役割が本当にあるとするなら、私達を作ったもっと大いなる存在の思惑か。
「貴方の不要な血を、今後も俺にくれませんか?貴方の代わりに、俺が貴方の血の良い使い道を探します。」
私は、自分が何のために生まれたのかは知らないが、自分がどのように生きていくかは、意思のままに決められる。
私達を作った存在が、もし私達を破壊のために遣わしたのだとしたら、私は唯一それに逆行できる。
それには、どうやらこの男が必要らしい。
男と、この不可思議な杖が。
【私は人間の生き死にに興味が無い。だが、体が痛痒いのはもうたくさんだ。】
「はい。」
【だから、血はお前にやる。私が持っていても仕方がない。】
私の答えに気を良くしたのか。奴の顔が、幼子に向けるようなものから、心から安堵したような笑みに変わった。
「ありがとうございます。これからどうかよろしく。」
【馴れ合うのは嫌いだ。勝手に抜いて勝手に使え。】
こうして私は、旅の医師カスカダと「血の提供者」と「献血医」という奇妙な協力関係を結んだ。
***
カスカダ曰く、数百年溜め込んだ体内の悪い血は、抜いてもなかなか無くならぬそうだ。
あの針を刺される瞬間は不快だが、定期的に血を抜かれる感覚に慣れると、老廃物を搾り出す快感を覚えるようになった。それに、抜き終えた後はすこぶる快調だ。
「次は東の街に行きましょう。疫病が流行していると風の噂で聞きました。」
私とカスカダが連れ立って旅をするようになったのは自然な流れだった。
カスカダは旅の医師。一箇所にずっと留まってはいない。病人の噂を聞けば奴は導かれるままに次の街へと移っていく。
私も、奴に血を抜いてもらわぬと力が有り余って体が苦しくなる。となれば私がカスカダと行動するのは必然だ。
「貴方は変わりましたね。この30年とても大人しい。初めて会った時、街を壊滅させていたのが嘘のようです。」
一日の終わりに奴の採血針で血を抜く。その際、取り止めもない話をする。
【私達は好きで暴れるわけではない。逆にお前は変わらないな。毎日毎日、病人怪我人を探して放浪する酔狂な奴だ。】
「俺は医師ですよ。医師が人の命を救うのは当然です。」
【ではその血をくれてやる私は何だ?私も医師か?】
カスカダは首を横に振る。
「いいえ、貴方は血を提供してくれるドナーです。」
私は奴の答えに、正直少し落胆した。
【なんだ。お前は所詮、私を都合の良い血の汲み場くらいにしか考えていないのか。】
「あれ?困ったな、なぜ拗ねるんです?助かっているんですよ俺は。」
私がどんな答えを求めていたのか。
後になって思えば、私は奴と「同じ」だと言われたかったのだ。
奴の信念に共感したわけではない。未だに人間の生き死にはどうでもいい。
ではなぜ、人間のカスカダの返答一つ一つに、これほど腹がむかつくのだろう。
【おい、お前。やはりまだ悪い血が残っているようだ。今日は多めに抜け。】
「これ以上は逆に具合が悪くなりますよ?」
いつも嬉々として血を抜くカスカダが、初めて戸惑いを見せる。
そうか、あまり体から抜き過ぎても良くないのか。血は生命力そのものだから。
【いいのだ。早くせよ。】
それでも私は、今夜ばかりは構わないと思った。
「………分かりました。では、少しだけ。」
早くいつものように楽な体になりたかった。
***
東の街が見えると、カスカダは私を街外れの洞窟の中へ押しやった。
毎度のことだ。私が人前に姿を現すと、皆必要以上に怯えて逃げ惑う。すると新たな怪我人が出たり、不要な争いが生まれるのだと。
洞窟の中でじっと丸くなり、奴の帰りを待つ時間はひどく退屈だった。
奴を置いてどこか遠くに消えたりはしなかった。理由は無論、奴でなければ悪い血は抜けないからだ。
【しかし。】
あれから体の痛みはすっかり消えた。奴が毎夜少量ずつ悪い血を抜いてくれるおかげで、ここ30年は快調だ。
例え今、奴を置き去りにしたとて、向こう数十年はこの心地良さが続くかも。人間に毎日毎日律儀に付いて回る必要もない。どこか遠くに飛び去って、もしまた調子が悪くなったら、再びカスカダを捜して血を抜かせればいい。
【…でも。】
私が突然いなくなったら、奴はどう思うだろう。
少しは悲しむだろうか。勝手に居なくなるとは…と怒るだろうか。案外、何とも思わないだろうか。仕方がないことと割り切って、次の竜を探すのだろうか。
…それは、なんだか無性に腹が痛くなってくる。
やはり私の体には悪い血が溜まっているらしい。ここ数年は特におかしいのだ。
【…やはり、奴に抜いてもらわねば。】
だから、置き去りにするのはまだ当分先。
私が今日もそんなことを洞窟の中で考えていると、やがてカスカダは戻ってきた。街の病人や怪我人達を救った後は、とても満ち足りた顔をして戻って来る。奴は顔に出やすい。
「お待たせしました。次の街へ行きましょう。」
【ああ。】
小さなカスカダは、無骨な杖をついて歩き出す。
大きな黒竜は、そんな人間の後を律儀に付いて回る。
私は30年、奴と旅を共にする中で、奴の小さな変化によく気づくようになった。奴は基本的に変わらない男だが、心の動きは頻繁に変化する。
今も。顔は穏やかだが、内なる焦りや怒りが、素早い足取りや杖を打ちつける音として表に出ている。
【お前、なぜそんなに気が立っているのだ?】
私の問いに、カスカダは意表をつかれた顔をする。
「分かってしまいますか。…次に行く街。そこでは、竜による大規模な被害がありまして。怪我人や、死者も夥しい数だそうです。」
私ではない、他の竜による暴走。体に悪い血が溜まったことによる、自分では抑えられない衝動。
その事実をカスカダはよく分かっているはずだ。その上で奴は、胸中で静かに怒りを燃やしている。
「分かっています。すべては強すぎる生命力ゆえ。悪い血がそうさせる。貴方達もしたくて暴れるわけではない。人を傷つけたいわけじゃない。分かっています。」
カスカダはただ、その被災地へ行きたい一心だ。医師である奴にできるのは、まだ命のある者を救うこと。竜の血を使って。
【お前にはその杖がある。それを使って、荒ぶる竜を鎮めればいい。私の時と同じように。】
おかげで私はもう30年も大人しい。効果はあるのだ。
【お前の家は代々医師だと言ったな。ならば親兄弟や他の親族にも、同じ道具を持たせ、同じことをさせればいいのだ。】
カスカダ一人では限界があろう。
それなら、同じ志を持つ者達で結束すれば話は早い。
人間は竜族より遥かに数が多い。我らと違い繁殖もできる。私には、彼らならそれが叶うという確信があった。
「そうですね。もし俺と同じ仲間がいれば、これほど心強いことはありませんね。」
カスカダは笑っていたが、その言葉が本心から来るものかは分からない。
***
被災地を訪れた時、私は洞窟には隠されなかった。その必要がないからだ。
なぜなら、私の姿を見る“生きた人間”が、街にはもう居なかったから。街に住んでいた人間は皆、竜の暴走によって命を落としていたのだ。
竜のはばたきは民家を巻き上げ、長い尾は家畜や店を押し流し、そこに生きる小さな人間の落命に気づかない。ただ、自身の悪い血に操られるがまま。その感覚が、同じ竜である私には分かった。痛いほどよく分かってしまった。
カスカダは、道に横たわる亡骸一人一人を見て回っていた。僅かにでも息のある者はないかと確認していたのだ。そんな奴の後ろ姿に、私は黙って付き添った。
カスカダ、お前は今どんな気持ちなのだろう。あれほど荒々しかった足取りが、今ではおぼつかず、ふらついてすらいる。
お前は30年前と少しも変わらない若々しい姿だというのに、その憔悴ぶりは100歳を超えた老人のようではないか。
「あ、息がある!」
カスカダが走り出した。瓦礫の隙間から顔が見える老年の女。その女が微かに息をしたのを見逃さなかった。
「分かりますか。よく頑張りましたね。今治してあげますから。」
カスカダは老婆のそばに跪き、手にした杖を軽く地面に打ちつける。すると、竜の彫刻の口から、ポタポタと赤黒い血が滲み出てきた。
あれは私から抜いた、生命力の源である血。それを、カスカダは老婆に飲ませようとする。これまでもそうして人間達を救ってきた奴だから、その行動に抵抗は無かった。
老婆の口を開けさせた時、血が送り込まれるよりも僅かに早く、老婆が言葉を発した。
「………あぁ、“カタラタ”先生…。…また来て、くださったのですね………。」
その知らぬ名を聞いた時、カスカダの体が石のように固まった。血を飲ませることも忘れ、ひどく戸惑っている。
私が声を掛けずに見守っていると、やがてカスカダは穏やかな顔と声で、老婆にこう語り掛ける。
「…カタラタは、亡くなりました。俺は孫です。」
老婆は悲しげに顔を歪めた。
待ち望んでやっと再開できた男は、既に死んでいた。その絶望は老婆から生きる気力を奪い、カスカダが血を飲ませるよりも先に、老婆の命を静かに奪っていった。
「………。」
カスカダは何も言わなかった。その手に杖を握り、項垂れたまま。
***
その夜、いつものようにカスカダに血を抜かれながら、私は奴に言った。
【カスカダ。お前は変わらぬな。何年も何十年も、人間を救うのをやめない。それがお前の生き甲斐なのは承知している。】
「…はい。」
【お前なら、いくらでもこの血を使うがいい。何に使ってもいい。これまでのように、怪我人や病人を延命させてもいい。………“密かに飲み、自分の寿命を延ばしても”いい。】
カスカダが、黒衣の中で目を見開く。
「…気づいていたんですか。」
その姿はまるで、悪戯が見つかった子どものよう。
だが今更、何を怒ることがあるだろう。
【30年老いることなく姿形が変わらなければ、私でも気づく。竜から採った血を、お前も飲んでいたのだな。30年…いいや、私と出会うずっと昔から。人間の老いの変化が分からぬとでも思ったのか。】
今までの竜は騙せたかもしれん。
だが私には分かる。
【私はお前をずっと見ていた。だから分かるのだよ。】
杖を持つ手が震えている。
奴はどんな感情を抱いているのだろう。外見の変化は見てとれても、心の中までは分からない。それが歯痒い。
「俺を見逃しますか?俺がこれまで何頭の竜から血を抜いたと思います?その竜達と同じように、貴方のことも…。」
一瞬言い淀んだのは、カスカダ自身に、多少なりとも私への情があるからか。
「……俺が“カタラタ”を名乗っていた頃、この地で起こった災害の被害者を救うために、当時連れ立った竜の血を使い果たしました。カラカラに枯れた竜の体を海に沈め、長く生えた牙だけは抜き取って、杖を新調しました。俺は最初から、貴方を次の“血の汲み場”にするために近づいたんです。」
ほら。今まさに、私は奴の採血針に命を抜き取られている。奴の救命の道具にされている。
【…私は以前、お前に言ったな。親兄弟に同じ杖を持たせて、同じことをさせればいいと。私は、お前の行動が悪いことだとは思わない。良いことだとも思わない。どうでもいいのだ。だから、お前の好きにしろ。】
「…そう簡単ではありません。生きた竜から牙は採れない。仮に杖を作れたとして、貴方のように、素直に血を採らせてくれる竜ばかりではない。竜は本当に、人間の思い通りになりません。」
【では仲間を増やせ。一族を増やせ。お前と同じ志の人間が増えれば、お前一人が抱え込まなくて済む。】
「…それもできません…。」
カスカダはおもむろに、長年纏っていた黒衣を脱いだ。秘められていた謎が明らかとなり、私はすべてを察する。
奴の体は、真っ黒に染まっていた。私の外皮と同じ、生命力に染められすぎた色へと変異していた。
顔や体形は若いまま。恐らくカスカダが初めて竜の血を飲んだ時と変わっていない。
しかしその体に確実に血は蓄積されていき、奴の体はじわじわと蝕まれていた。まるで毒に侵されるように。
「ごく少量なら、毒も薬になります。…しかし俺は飲みすぎた。…元々流れていた人間の血が、すっかり竜の血と入れ換わってしまった。俺は人間の見た目ですが、とっくに人間ではないのです。歳を取ることも、怪我や病気を負うことも、子孫を残すことすらできないのです。」
血が抜かれ続けていく。いつもならカスカダが止めてくれるのに、採血針は未だに私の前足に刺さったまま。
【私の血をここで吸い尽くすつもりなのだな。憎き災害の種を一つでも多く潰しておきたいか?】
なぜカスカダはそんな体を引きずってまで、人々を助けようとしたのだろう。
ひょっとすると、人々への献身と同時に、奴には竜への憎悪があったのかもしれない。こんな地道な方法で世界中の竜を滅ぼすには、相当時間がかかる。永遠に近い命が必要になる。
【…仲間を増やす気なんて、初めから無かったのだな。過酷な苦しみを受けるのは、自分一人でいいというのかい?】
「……。」
カスカダは何も答えない。
まあ、それでもいい。どうでもいいのだ。
竜は自然の移ろいそのものだ。大切なお前にどれほど恨まれていようと、利用し尽くされようと、私はお前を恨んだりはしないよ。
だが、
【私はお前と一緒にいる時間が、何より楽しかった。初めて私と同じ、長い時間を連れ添える存在に巡り会えた気がして。……それだけは残念だ。】
やがて私の体は、カスカダの杖に血の一滴までを奪われ息絶えた。
血の抜け切った抜け殻の体は、まるで雪のように白く変わり果てていた。
***
気の遠くなる時間が流れた。なぜ死した私が、今も語り部を務めているかというとーーー
「へぇ、これがその黒竜の血の杖ですか。」
ガラスケースに収められた私…もとい、私の血が収められた杖は、この小さな博物館を訪れる多くの客の目に止まった。
千年を経てもその形は変わらない。竜の牙を芯とし、竜の血を蓄えた杖は、言わば生命力の象徴だ。
ガラスケースの中身を興味深げに眺める女は、この博物館の新人学芸員らしい。
彼女に杖を紹介するのは、老年の館長だ。体が動く内は人と接する仕事をしたいというのが、彼の希望だった。
「まぁ、お伽話ですがね。現に、自然災害を食い止めるなんて現代の科学技術をもってしても不可能です。」
「その旅人は、なぜ杖を使わなくなったのかしら?彼にとっては大事な道具だったんじゃ?」
女は杖をしげしげと眺める。
老人もまた、杖を眩しそうに見つめている。
「“必要ない”と気づいたのでしょう。竜は滅ぼすべきものではなく、自然の流れそのものだと。命を回す循環器の役割があるのだと。天災で家を失った者がいれば、家を新しく建てることで生計を立てられる者がいるように。」
だから彼は採血針を使うのをやめ、竜の命を奪うことをやめた。同時に、自身も竜の血を飲むことをやめたのだ。
超常の力に頼らず、血縁もない人間の仲間を増やし、その時代の人間が持つ技術の範囲で、怪我人や病人を癒す方法に切り替えたのだ。
彼の体内の悪い血は、彼自身が本来持つ免疫力で、長い時間をかけて少しずつ洗い流した。それには何百年という途方もない時間が掛かったが、耐えた甲斐あり、やがて人らしい成長が戻っていった。
人間の老いを経験したカスカダは、体力と視力の衰えのために医師を辞め、今は小さな博物館で静かな余生を送っている。
ガラスケースの中の私と、同じ時間を過ごしている。
老いるお前は私より先に逝ってしまうが、それは悲運ではない。充分すぎる時間を共に過ごし、そして互いが想い合っていることが分かったからだ。
千年も、私の血が宿った杖を手放さなかったのがその証拠。
カスカダ…どうか、死の間際に私の血を口にしようとは考えるな。お前を独りぼっちにするのは、私には何より辛いことだから。
大切なカスカダとの、穏やかで残り僅かな時間を、私はこのガラスケースの中で過ごす。
これが、黒竜の血の杖の物語だ。
〈了〉