第八章 もう一人の師範
こうしてホテル・エスペランサを円満退職した俺は、慣れない着物に袖を通し、ある茶道教室の門をたたいた。
「ごめんください。」
奥庭のほうから鹿威しの音が響いている。3度カコーンと音がして、目の前の茶色い引き戸が開かれた。
「新聞の勧誘はお断りしてる・・・ん?」
「初めまして、先生。」
「その呼ばれ方も久方ぶりだな。何の用だ、若造。」
モノクルに仙人のような白髪、少し草臥れた着流し。その男こそ、俺が師範にと思う男だった。彼も彼女と同じくホテル・エスペランサで茶会を開いたことがある。だが彼女との接点はない。そして、なにより茶道の腕前は文句のつけようがないほど美しいのだ。
「俺に稽古をつけてください、先生。」
「断る。儂は一線を引いたんだ。帰れ。」
聞く耳も持たず、扉を閉めようとする彼にしがみついて、俺は叫んだ。
「俺は恋人(になる予定)の女の子を待たせてるんです!師範になって迎えに行くって(勝手に)決めたんです!彼女も俺のこと(きっと)待ってくれているんです!俺は5年で師範にならなきゃいけないんです!先生の元でしか絶対不可能です!!」
「ふむ。」
モノクルを付けなおすと、彼は俺の腕を掴んで・・・。
「その話もっと頂戴!」
先生は根っからのゴシップ好きだった。
「で、お前は隣の商業ビルの中に入っている茶道教室の女に惚れたと。」
「はい、そうです。」
「で、師範になるためにこの庵の扉を開いたと。」
「はい、そうです。」
「儂はしばらく弟子を取っていないんじゃがの。」
「存じ上げております。」
「しかも7.8年かかるところを5年でか。」
「無理も承知の上です。」
「・・・。」
先生は黙る。それもそうだ。無茶なことを言っているのは分かっている。
すっと先生が左腕を上げた。それに合わせて奥の襖が開く。
この和室には似合わない執事服の老人。かなりのやり手だと察する。
「お呼びでしょうか、師範。」
「うむ、こいつを鍛えたい。茶室を準備しろ。」
「かしこまりました。」
「先生!」
「儂は見込みのある男にしか興味がない。盆略を披露してみろ。それから決める。」
「はいっ!」
先生が先に置くの襖の先にある茶室に入っていった。その奥には水屋があるのだろう。執事も同じように歩いて行った。俺は勢いよく返事するとそのあとに急いでついて行った。