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帷翡翠 2

 バクバクと心臓が早くなる。ちょっと待って、どういうこと? などと、パニックになれればどれだけよかったか。しかし翡翠は“わかって”いるのだ。“理解している”。

 ここに書かれたことは、読まれて初めて実行される。歴史も、今おそらくこの通りに“作り替えられた”。歴史が変わり、これを描いた連中の思惑通りの事象へと変化した。

あと3か月。あと3か月で、人は消える。滅亡、ではない。消えるのだ。


「は、はは。なにそれ? べつに、いいじゃん」


 人間などくそったればかりだ。他人のため、と言っている奴ほど自分の自己顕示欲を満たして満足したいがために動いているに過ぎない。それを正当化までして。

 人は動植物、自然、それらがないと生きていけないが地球は人間なんていなくても全く問題ない。いいことずくめだ。何が悪いのか、人が消えて。

 そのはずなのに。ふと、母の顔が浮かんだ。原因はわからないが、三年前急に体が弱りあっという間に亡くなった母。母は、翡翠の能力を知っているようだった。病室でかわした最後の会話。


「翡翠」

「なに?」

「人を、嫌いにならないでね」

「……」

「私を、本当の意味で、死なせないでね」


 一体何を思ってそう言ったのか、いまだにわからない。翡翠が他者を毛嫌いしているのはわかっていたはずなのに、あえてそう言ってきた。そしてその翌日、眠るように亡くなった。喪主は翡翠であの男は葬儀に来るどころか母が亡くなったことにまったく興味を示さなかった。


「死なせ、ないで、か……」


事実書が実行されれば翡翠も消える。消えたら、それで終わりだ。普通に死んでも骨くらいしか残らない。そこには誰もいない。残るのは、残された人の亡くなった人との思い出だけ。


(私が消えたら、お母さんが“死ぬ”のか)


 唯一、心を許していたのは母だけだ。あと、中学の時社会科実習で行った児童養護施設の園長で肝っ玉母ちゃんという感じの女性。彼女は表裏がなく、言いたいことを包み隠さずいう人だった。そして、良く笑う人。彼女に育ててもらっている子供たちもよく笑う子ばかりだった。


(あれ? あの子……)


 昨日声をかけてきたあの子、施設で見た気がする。当時あの子は幼稚園くらいの年だったが、そうか、あんなに大きくなったんだと今更気づいた。何故覚えているかといえば、不愛想な翡翠にひよこのようにちょろちょろついてきていろいろ話をしていたから。

 自分の知っている人たちが消える。死ねば、誰か残った人が悲しむし偲ぶ。しかし全員一斉に消えたら、想いすら残らない。他人なんて大嫌いだし、どこで誰が死のうが消えようがどうでもいいが。

なんだか、これをかいた奴の思い通りになるのが無性に腹が立った。一体何様なのだ、好き勝手書きやがって、と苛ついて来る。


「私を、死なせないでね」


母の言葉。


「あんたもうちょっと笑いな、可愛いんだから。幸せが寄って来ないよ!」


施設の園長の言葉。


「おねえちゃん、これあげる!」


当時施設にいたあの少年、四葉のクローバーを自分にくれた。幸せが寄って来ない、と聞いたからだ。泥だらけになりながら、必死に四葉を探していた。


「……。ああもう、うるさいな! わかったよ、こうすればいいんでしょ!?」


部屋の中央にある、事実書の管理者。生きていないが、死んでもいない。それの前に立つと案の定聞いて来る。


《願いをどうぞ、一つ叶えます》


その言葉を聞いて、翡翠はやけくそ気味で叫んだ。


「この事実書を、全部無効にしろ!」


すると、ザァっと音を立てて文字が虫のように部屋中を駆けずり回る。気持ち悪いその光景に顏を顰めて見つめていると、文字はやがて事実書の管理者の中へとすべて吸い込まれるように収まった。


《確かに、願いを叶えました。言葉遣いが悪いですよ、直しなさい、ヒスイ》

「うるさい!」


何故よくわからないものに説教されなければいけないのか。物があれば投げつけたい気分だ。

そして静寂と共に、ぺたんとその場に座り込む。この事実書の管理者は、叶える願いは一人一つだけだ。もはや何故そんなことがわかるのかはもう考えない。わかっているのは、自分はもう二度とここから出ることができないということだけだ。


わかっていて、あの願いを言った。


 それでもいいと思ったのだ。親しい人もいないし自分がいなくなって悲しむ人もいない、それどころか気づかれないだろう。翡翠はずっと他人を避けて生きてきた。すべてを遠ざけてきたのだから。

 自分はあと数日で死ぬ。水がないのだ、当然だ。もらった飲み物はここに来るまでに飲み終わってしまった。誰にも見つかることなく、静かに骨になってそれで終わりだ。自分はそんな人間なのだと自分に言い聞かせ静かに終わりの時を待つ。

まったく音がしないというのも逆に落ち着かない。集中力が高まり不安になって来る。


(何を今さら。私は死ぬんだから、何も考える必要ない)


そう思っても、思い出してしまう。他にやることがないからだ。


 小中高、ほぼすべてこれといった思い出はない。他人といるのが嫌で友達はおらず、担任からもう少し自分からみんなの輪に入ってごらんと言われて嫌気がさして小学校と中学校は不登校となった。馬鹿にはなりたくないので勉強はした、ただしオンライン授業のみだ。家庭教師のようにすぐ隣で勉強を見られるなど冗談ではない。

 高校はかろうじて合格したがいつも一人で過ごしている。高校くらいにもなれば、仲間外れにしたり一緒に何々しようよ、という馴れ合いもなくなってさっぱりしたものだ。誰も翡翠の事を気にしない。

 次に思い出すのは、母の事。いつも何を考えているのかわからない人だった。幸せでもなさそうなのに微笑み、遠くの空を眺めている。不思議な人だった。でも、だからこそ翡翠はいつもありのままの自分で接した、常に本音を言ってきた。

 あの男は、思い出したくもない。翡翠をゴミ捨て場の生ごみか何かだと思っているようで、およそ人間に対して言うような言葉を言われたことがなかった。

そこまで考えて、急に虚しくなる。


「……これだけ、私の記憶って。こんなのしかないの」


 どれも薄くてどうでもいいような物ばかり。母の事も、自分は全く理解していなかったので楽しい思い出というものはない。あの男の記憶ばかり蘇る。他人を遠ざけ、一人でいることを望んで生きて来たのだから当然だ。

 今、何時間経ったのだろう。あと何時間で私は死ぬのだろう。強がっていたくせに、時間が経つにつれてだんだん。


だんだん、怖くなってくる。一人で死ぬという事が。

死ぬことがではない、一人で死ぬことが、だ。


「……嫌だ」


ポロリと漏れた言葉。


「なにこれ? 私の本音?」


涙があふれる。最後に泣いたのいつだったっけ、と思うとまったく思い出せない。


「だって、しょうがないじゃん。苦しいんだから、他の奴がいると。辛くて気持ち悪くて嫌な気分になって」



「そんなの、ご飯食べれば忘れるわよ!お腹空いているから苛々するんじゃないの? 美味しいもの食べてる時が一番幸せ!」


 実習をしたあの日、一人でいる翡翠に施設の園長がそう言いながら山盛りに肉じゃがを取り分けてくれた。園は常にお金がなくて、食事だって切り詰めているはずなのに。その様子を見た他の児童たちが、じゃあ僕も私もとおかずを一つずつくれたのだ。中には人参だけくれる子がいて、ニンジン嫌いなんだろうなこの子、とちょっと笑った気がする。久しぶりに自然と笑って、自分でも驚いた。


 あそこは幸せを分け合うのが当たり前に行われていた。お金がなくても、親がいなくても、彼らは幸せそうだった。時々寂しそうにしている子はいたが、周囲の子供たちが敏感に察知して絶対に一人にさせなかった。翡翠のように卑屈になっていない。そういう生き方を園長から学び、自分たちで学び、自らその道を選んでいた。


「私が悪い? そういう生き方しかしなかったから? もっと、いろんなことをすればよかったの? あの子たちみたいに」


 涙が止まらない。今、気づいた。能力がある事実は変わらない。だったら、それをもっと上手く使いこなせばよかっただけだ。考える事を放棄して避けて遠ざけるだけなど、あの男と同じではないか。

母の言葉、「私を死なせないで」。私を、忘れないで。貴方は生きているから、覚えていてね。

貴方は、生きてね。


「お母さん」


 嗚咽が止まらなくなった。そして、翡翠は泣き叫ぶ。こんなに大声で泣くのは幼少期以来だろう、母が死んだ時さえ泣かなかった。


嫌だ、死にたくない、私はここにいる、誰か気づいて、お腹空いた、喉かわいた、寂しい、苦しい


生きたい


力の限りそんな事を叫び続けた。声が空間の中に響くだけだ、誰も返事などしない。

それから一体何時間経ったのか。脱水症状だろう、手足がしびれ頭痛がする。泣いて水分が減ったのもあるが、水分補給ができていないせいだ。あとどのくらい、こうしていなければいけないのか。泣きたくてももう涙が出ない。目がひりひりする。


「う、うう……うえ……ひっく」


 すすり泣くくらいしかできない。なんて馬鹿でちっぽけでつまらない奴なんだろう、と涙が出ないまま泣き続ける。

 やり直したい、自分の人生を。今やっと気づけたから。過去を変えられなくてもいい、今この瞬間から変えて行きたい、生きたい。そんなことを泣きながら思い続ける。


がちゃん。


突然音がした。

上手く頭が回らず、理解できないままふらふらと周囲を見渡す。一面石の壁で囲まれたその部屋の一角に、翡翠の真後ろの場所に、扉があった。


「……。え……?」


間の抜けた声しか出ない。扉はゆっくりと外開きで開く。外の方が明るく、光が入り込み眩しくて手で目を守る。


「あれ?」


聞き覚えのある声。

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