第7話:元婚約者
翌日は学校も休み、寮でゆっくりと勉強と刺繍に励みます。
マサキア兄様はシダーゲイト伯たちと仲良くなったとのことでお出かけしているはず。昨日あの場にいた各貴族の派閥や血縁関係を分かる限り記したメモを渡しておきました。
ノーザランの産物の販売先が増えると嬉しいんだけど。
その翌日は学校。まずは朝、アヴィーナの頬を引っ張っておきます。
ええ、によによした表情で近寄ってきたのがね。
いらっとしたのでつい。
「はにふんほほー」
「何すんのじゃないわよ。あんな仕掛けして向かいで覗き見なんて」
手を離します。
「でもお陰でルートヴィッヒ様とダンスできたんでしょ?」
「そう……だけど!」
「ふふふ、思い出して顔を赤らめるなんて、やだもーテサシア可愛い」
もう一度頬を引っ張っておきました。
「はへははいほー」
「やめてあげるから揶揄うのはやめて。ほんとにまだ思い出すだけで心臓がばくばくするんだから、あんな……あんな……あーー!」
思い出すだけで正気が失われるわ!
わたしがルートヴィッヒ様と踊ったという話はすでに一昨日のレガッタの後、学校のダンスホールで話題だったらしく、それは燎原の火の如き勢いで学園中の生徒、主に女生徒たちに広まっています。
ええ、授業の休み時間ごとに見知らぬ女生徒たちが教室の入り口付近で、ちらちらとこちらを覗いているからね!
そして昼休み。アヴィーナたちと食堂に向かおうとする際、廊下で声をかけられました。
「あなたがミス・ノーザランね」
……ああ、面倒事だわ。わたしは小さくため息をつきます。
「ええ、はじめまして、ミス・ウシィクヒル」
声をかけてきたのはナルミニナ・ウシィクヒル伯爵令嬢。そしてその背後には彼女の取り巻きのようなことをしている令嬢たちが4名。
わたしたちが通りかかろうとした際に道を塞がれました。
ええ、ルートヴィッヒ様の元婚約者よ。今日もお美しい佇まいだけど、どことなくやつれたというか疲れたというか、そう見えるわ。
「ちょっとお時間いいかしら?」
「ええ、ここでの立ち話くらいなら良いですよ」
「部屋をお取りしているんだけど」
「申し訳ありませんが先約がございますので」
わたしはアヴィーナたちを指し示します。
今のわたしは正直、悪い意味で注目を集めている。避けるべきは孤立して人目の無いところに連れ込まれること。
「ナルミニナ様のお誘いを男爵令嬢如きが断るっていうの!」
取り巻きをしている令嬢の一人……なんだったけ、確かウシィクヒルの分家のデプセーヴン様が激昂しました。
段々と廊下に人が集まってきます。
「なるほど、親が伯爵であればそちらに従えと、この学び舎の中で仰いますか?」
カウフォードにおいても生徒間の身分の差は歴然と存在します。ですがそれを振りかざす行為は禁じられていますからね。
「田舎男爵の娘が粋がってるんじゃないわ!」
「あなたこそミス・ウシィクヒルの権威を笠に着て粋がっているのでは?主家の品を下げますよ」
くすくすと嘲笑が背後から聞こえます。
「おやめなさい」
ナルミニナ様が止められました。そして此方へと話し掛けます。
「ミス・ノーザラン、ここでも構わないわ。尋ねたいことがあるだけだから」
その内容は聞かれなくても分かっているものではあります。でも婚約を既に破棄された貴女が問うてどうなるのでしょう?
……いや、当たり前か。ルートヴィッヒ様への未練を抱かぬはずもないわよね。
「どうぞ、ミス・ウシィクヒル」
「一昨日のレガッタ、あなたがルートヴィッヒ様とワルツを踊られたという噂を耳にしたんだけど。
……本当、かしら?」
最後、ナルミニナ様の声が震えました。
「真実です。畏れ多くもルートヴィッヒ様にお誘いいただきました」
周囲のこちらを見ている生徒達がざわつきました。
ナルミニナ様がかっと顔を赤くし、扇を突き付けてきます。
「男爵令嬢如きが分不相応だと思わないの!」
「思いますっ!」
「えっ」
「ルートヴィッヒ様は天上の神々が現世にもたらされた恵み、奇跡の存在、あのお方が存在するだけで世界は光り輝くのです。そのお姿を見ることができればその幸福に信仰心が湧き、お声を聞くことができれば勇気が無限に湧くのです。ちなみに一昨日、手を取っていただいた時は刺激が強過ぎて寿命が縮まったように思いますからそのような有様ではわたし如きがルートヴィッヒ様に相応であろうはずもございません。わたしには、いや人類にはルートヴィッヒ様との接触は早すぎるのかもしれません」
わたしはナルミニナ様の手を取り力説した。
「……っ!なら彼から手を引きなさい!」
「……それはルートヴィッヒ様にお伝えください。それこそわたし如きしがない田舎の男爵家の娘がこちらからルートヴィッヒ様をお誘いすることなど決してあり得ませんので」
「誘われたなら断ればいいでしょう!」
わたしは力強く肯定します。
「はい!わたしみたいなのがルートヴィッヒ様の横にいたらルートヴィッヒ様が恥をかかれると断りました!」
「でも押し負けたんでしょう!もっと嫌と言いなさい!」
わたしは彼女の手を取ったまま、愕然と膝をつきます。
「そんな……ルートヴィッヒ様のことを嫌というなんて……あまりの罪深さに死んでしまいます」
その時、背後から声がかけられました。
「死んでもらっては困るな」
勇気が無限に湧きました。