第6話:ワルツ
シダーゲイト伯がマドラーの指揮棒を振ると、アップライトピアノの黒白の上をニーサ様の指が踊り、軽快な音を奏でる。追随するようにフィドルがどこか物悲しい音を響かせた。
軽く試しのように二、三小節奏でては止めて、みなさまが拍手をする。
歩けば軽く軋むような年季の入った木の床、煙草と洋燈の煤で汚れた梁や壁、そして巧みではあるが安っぽい音色。
だけど、そんなものはこのお方の高貴さをまるで損なわない。そう、一角獣の角は血に穢れぬという諺のごとく。
ルートヴィッヒ様の右手はわたしの左手を優しく、しかししっかりと握り、わたしは彼に導かれるように、即席のボールルームの中央へ。
手が離れ、ルートヴィッヒ様が一歩前へ。
あ……。
ルートヴィッヒ様の背中が見える。
今この瞬間なら「お戯れを」とでも言えば逃げられる隙。
だけどわたしの口は硬直したように動かず、振り返ったルートヴィッヒ様は何も言わなかったわたしを褒めるかのように優しく微笑まれた。
はうっ……尊い。
向かい合って、互いに礼を。
小夜曲が奏でられ、それに合わせて一歩前に出ておずおずと伸ばした右手がルートヴィッヒ様の左手に優しく捕らえられる。
ルートヴィッヒ様の右手がわたしの背に回され、わたしの左手を彼の二の腕の上に。
緊張でひっと息が乱れましたが、吸い込んだウッディ・ノートの香りがそれを和らげるように、鼻に広がります。
うう……いい匂い!思ったより筋肉質!モーニングコートの墨黒の羅紗織の手触りが良い!
一度身体を揺らせてから三拍子に合わせて互いに右脚を前に。
ターンしながら反時計回りに円を描くようにステップを踏んでいきます。
いちにいさん、いちにいさん……。
三拍子のリズムでナチュラルターン。ナチュラルターンからリバースターン、そして再びナチュラルターンに戻る時でした。
「テサシア嬢」
ルートヴィッヒ様が耳元でわたしの名を呼びます。
彼の左手がわたしの右手から離れたかと思うと、それがわたしの顔の下へ。曲げられた人差し指がわたしのあご先を下から持ち上げます。
あ、あ、あごくいっとかっ!
ルートヴィッヒ様のご尊顔が瞳の中心に映りました。し、刺激が!
「ダンスは足捌きを意識するものではない。相手を意識するものだよ」
「そ、そんなことをしたらおみ足を踏んで……」
「踏まれるのは私のリードが下手という意味になるが?」
ひうっ。そんなことにさせるわけには!
ルートヴィッヒ様のお顔を見つめます。
窓の外の光、洋燈の光がルートヴィッヒ様の銀のお髪や眼鏡に反射して煌めき、神秘的な陰影を作っている。
「そう、いい子だ。テサシア嬢。次は後ろに転びたまえ」
えっ。
「君は自分の足で立とうとしすぎだ。だから動きが硬い。体重を足にかけるのではなく、私の手に」
ルートヴィッヒ様の左中指がわたしの額を押しました。
のけぞるように重心が後ろへ。でもルートヴィッヒ様の右手がわたしが倒れないように支えています。
「うん、そのまま」
再びルートヴィッヒ様の左手がわたしの右手を捉え、再びステップを始めました。
ああ、ルートヴィッヒ様に支えられている手には、わたしの胸が激しく打ち鳴らされていることが伝わってしまっているでしょう。
……でも踊りやすい!
ダンスの上手い令嬢たちがふわふわ、くるくると回っていて、わたしのダンスが下手だった理由が今分かったわ。足元や正面ばかり見ていたからだったのね。
目眩のように天井が回って、その中で動かないルートヴィッヒ様のお顔が優しくこちらを見守ってくださる。
これがリードに身を委ねるということ……!
夢のように時は過ぎ、音楽がフィナーレを迎える。最後にふわりと離された手の先でくるりと身をスピンさせ、そのまま相手に礼を取った。
拍手と歓声が上がった。
「素晴らしいわ、テサシアさん。素敵なワルツだったわ!」
ミセス・シダーゲイトが称賛してくださる。
えへへ、ダンスの後にほめられたの、人生で初めてかも。
「ルートヴィッヒ様のおかげです」
「ええ、ええ。彼が声をかけてからぐっと動きが良くなったわよ」
その後もう一曲ルートヴィッヒ様と踊らせていただいたわ。
彼は懐中時計を取り出すと、文字盤を見てため息をつかれた。
「楽しい時間はすぐに過ぎてしまうものですね。申し訳ないが、私はこの後、当家で行うダンスパーティーに行かねば」
そうよね、ルートヴィッヒ様はお客さまをお招きする立場よね。
「貴重なお時間をいただきありがとうございました」
「こちらこそ楽しい時間をありがとう。また学校でお会いしましょう」
ふふ、お世辞としても嬉しいわ。
ルートヴィッヒ様が屈んでわたしの手を取り、手の甲に触れるか触れないかのキスをされました。手の甲をルートヴィッヒ様の吐息が撫でます。
「ええ、また学校で」
ルートヴィッヒ様は颯爽と立ち上がると、壁際にどけられたシルクハットとステッキを取ります。
「では皆様、お先に失礼」
そして階段を降りてゆかれる。革靴が階段を叩く音が遠ざかり、わたしは窓際に寄って下の道を行くルートヴィッヒ様を見送りました。
彼は路上にて一度振り返ると、シルクハットを持ち上げてこちらに頷いてくださいました。
わたしは椅子に座ります。
部屋の中は妙な沈黙。なぜか誰も彼もがこちらを見ています。
「どうしたテサシア」
役立たずのマサキア兄がわたしに声をかけました。
わたしはため息をついて言います。
「腰が抜けたわ」
ブルー・タートルの2階は笑いに包まれました。