第5話:レガッタ・2
わたしがどきどきと胸を高鳴らせながらカップを手に取ると、紅の液体が波紋を作ります。
手がぷるぷる震えている。緊張しすぎだわ、わたし。
諦めてカップを戻し、ミセス・シダーゲイトとお話されているルートヴィッヒ様をちらりと見ます。
うわ、睫毛ながっ……。
わたしの視線に気づかれたルートヴィッヒ様と視線が合いました。
「なにかな、ミス・ノーザラン」
「い、いえっ!」
その時、広く開放された窓の外、遠くから歓声が聞こえました。
ミードリー川の下流側から歓声。それがだんだんと近づいてきます。
「あっ、艇が来たみたいですよ!」
わたしの声にみなさん、窓際へと近づいてきます。わたしもルートヴィッヒ様も他の方々が見えやすいよう席を詰めて……あああ、肩が触れてる!
わたしの肩がルートヴィッヒ様のモーニング・コートの二の腕のあたりに触れています。
肩が熱をもっていくかのよう。
艇が見えました。青の艇と緑の艇が並んで競り合い、こちらへと向かってきます。
パドルが一糸乱れぬ動きでミードリーの水面を掻き、ぐんぐんとこちらへと近づいてきます。
「いけ!カウフォード!」
隣の紳士も窓の下の群衆も応援の声を張り上げます。
歓声が耳をつんざきます。
わたしは歓声に紛れ込ませるよう、そっと呟きました。
ーーああ、ルートヴィッヒ様、尊い。
わたしの呟きは騒音の中、誰の鼓膜も震わせることなく虚空に消えます。
ルートヴィッヒ様はちらりとこちらに視線をやりました。
「カウフォード!がんばって!」
声を上げて手を振ります。
ちょうどスパートをかけたのか、カウフォードの緑の艇が半艇身前へと出ました。さらに歓声が大きくなります。
ーー愛していますわ、ルートヴィッヒ様。
艇は水面を滑るように、驚くべき速さでわたしたちの前を走り抜けていきます。
二艇のレガッタの航跡は、引き波となって興奮の余韻のように川面に残され広がっていきました。
「やあ、今年は勝てそうだな」
「そうですな」
みなさま、席に戻られます。
少しの後、上流からカウフォードの名を連呼する歓声が響き、わたしたちの学校の勝利が知れた。
眼下の川沿いでは肩を組んで校歌を歌う者達も。
ブルー・タートルの2階でも杯が交わされ、みなさまご機嫌です。
ルートヴィッヒ様と目が合い、にこりと微笑みました。
ルートヴィッヒ様も機嫌良さそうに声をかけて下さいます。
「テサシア嬢、この後踊りに行きませんか?」
踊りに……えっ。
むむむ無理無理無理無理!
わたしは困ってマサキア兄様を見る。
兄はご機嫌なシダーゲイト伯に酒を勧められて既に顔が赤く、こちらに気づいてもいない。この役立たず兄め!
「あ、あの。わたしみたいなのがルートヴィッヒ様の横にいたらですね。ルートヴィッヒ様が恥を……!」
ルートヴィッヒ様は手を前に出してわたしの言葉をとどめました。
「テサシア嬢。私は、私が好ましく思っている女性が自らを卑下するような物言いを好まない」
んぐっ……!
いや好ましい、好ましいって!
「あ、わ、わたしのドレスではドレスコードぎりぎりでですね」
ルートヴィッヒ様はにやりと笑みを浮かべられた。
「上手く断るね。つまり君を誘い出すにはちゃんとドレスと宝石を贈れということだな」
「めめめ滅相もない!」
ルートヴィッヒ様は手をおろされる。
え、ええと……。
「いいだろう、今日のところは君をボートレースボールに連れて行くのは諦めよう」
ほっと小さくため息をつきます。
「つまりここで踊る分には問題ないね」
えっ。
ピュウと口笛の音がしました。
周囲の紳士達がまるで平民や学生のように品の無い笑みをニヤニヤと浮かべてこちらを見ています。
シダーゲイト伯が右手を挙げると、指をぱちん!と鳴らしました。
「ウェイター!楽器を!」
壁際の覆いが取られるとそこにはアップライトピアノが。共に観戦していたドレス姿の奥様がその前に座られます。
そして貴族のみなさまがウェイターに混じって机を壁際へと寄せられます。
フィドルが何丁も投げるように手早く回され、モーニングコート姿の紳士達やドレス姿の奥様方が楽器を構えては調律していきます。
マドラーを指揮棒代わりに構えたシダーゲイト伯がウインクを寄越して尋ねられました。
「曲は?」
「えっ」
ルートヴィッヒ様が答えます。
「ワルツが良いかな」
「えっえっ」
「曲のオーダーは?」
「あ、あの!わたし下手くそなので、せめてゆっくりなものを!」
ルートヴィッヒ様がわたしの前で跪き、わたしの手をそっと持ち上げます。その動きに合わせ、ふと白檀のような香りがしました。ウッディなノートの香水。
わたしはおずおずと立ち上がりました。
シダーゲイト伯が一礼して言います。
「諸君、レディはゆっくり、つまりムーディーな曲をご所望だ」
ち、ちがっ!
「小夜曲で良いかしら?」
ニーサ様がそう仰り、みなさま頷かれました。