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5 差し出された手

 男性は工房の一角に置かれたソファに私を座らせてくださった。


「何か飲み物を持ってきますね。お腹も空いていますか?」


 私より先にクレアが「すいた」と答えると、男性はフッと微笑んだ。


「それじゃあ、食べ物もだね」


「すみません」


「いえいえ」


 男性は隣の部屋に入っていった。

 私はお腹の上のあたりでしっかり結んでいたリボンを解いてクレアを背中から下ろし、ホッと息を吐き出した。

 私に寄りかかって座ったクレアを見れば、やはり汗ばみ、どこか疲れた表情だった。


「ごめんね。クレアも大変だったわよね」


 クレアは私の顔を見てフルフルと首を振り、それから物珍しそうに工房の中を見回した。私も一緒に周囲を眺める。

 高級ドレスを作っているだけあって清潔感があり、きちんと整えられた印象だった。大小いくつかの作業台と椅子。壁に備え付けられた棚にある箱の中には裁縫道具やドレスの材料が入っているのだろうか。


 仮縫いの段階らしいドレスを着たトルソーもあった。

 色とりどりの刺繍が施された黄色のドレス。細身でシンプルな形の黒いドレス。


 私がドレスに目を奪われていると、男性が3人分の果実水とたくさんのクッキーを載せたトレーを手に戻ってきた。


「それ、さっき話した姉の刺繍です」


「素敵ですね」


「ええ、身内ながら良い腕だと思います。こんなものしかないけど、どうぞ」


 トレーをテーブルの上に置いて向かいに座りながら男性がそう言ってくださった。

 クレアは果実水はすぐに飲んだが、クッキーは不思議そうに見つめていた。


「おかあさま、これなあに?」


 その言葉で、クレアはお菓子の類も初めて見るのだと気づいた。


「お嬢さんにお菓子はまずかったですか? 甥や姪たちはこのくらいの歳には食べていたのでいいかと思ったんですけど、パンにしましょうか?」


「いえ、今まで食べさせる機会がなかっただけで……」


「そうですか。なら、是非召し上がれ」


 クレアが男性の顔を見てから私のほうも見たので、私は笑って「クッキーよ。いただきましょう」と言った。

 クレアは手を伸ばしてクッキーを取ると、「いただきます」と恐る恐るの様子でかじった。


「おいしい」


 クレアは目を丸くして急いで残りも口に入れ、さらにもう一枚手に取った。


「もっとゆっくり食べなさい」


「まだまだあるから慌てなくて大丈夫だよ。あなたもどうぞ」


「はい。いただきます」


 私もまず果実水を飲み、それからクッキーをいただいた。途端にクレアの反応が大袈裟ではなかったと実感した。


「本当に美味しい」


「よかった。このクッキー、母が好きなものなんですけど、僕も時々、無性に食べたくなって」


 男性もクッキーを口に運びながら嬉しそうに仰り、だがすぐにその表情を締めた。


「それで、あなたはどこに行くところだったんですか?」


 いっそこの方に正直にすべて打ち明けて、これからのことを相談してみようか。

 そう考えていると、クッキーに夢中になっていると思っていたクレアが口を開いた。


「あのね、おかあさまはおうちにかえらないの。それで、はたらいてクレアにふわふわのパンをくれるの」


 それを聞いた男性が目を瞬かせた。


「クレア? 君はクレアっていうの?」


「うん。クレアふじんだよ」


 クレアの言葉だけでは意味がわからないだろうと思い、私が説明することにした。


「コーウェン前公爵夫人はご存知ですよね?」


 この方が貴族だろうと平民だろうと、ウォルフォード家の夜会にいらっしゃったのだから知っているはずだ。


「え? あ、はい、もちろん」


「私は幼い頃、母にコーウェン前公爵夫人のお話を聞いて、ずっと尊敬してきました。だから娘が生まれた時、畏れ多くもそのお名前をいただいたんです」


「……でも、コーウェン前公爵夫人は社交界で色々言われていますよね。『コーウェン家を牛耳る女狐』とか、『コーウェン前公爵を手玉に取った悪女』とか」


「社交界で面白おかしく噂されていることなんて信じられません」


 私は咄嗟に反論してしまった。

 社交界にはクレア夫人を悪く言う方々もいることは知っているが、この男性までそんな風に思っているなら哀しかった。

 私は社交界の噂があてにならないと、身をもって知ったばかりなのに。


「私はデビューの時に1度ご挨拶させていただいただけですが、とても優しい方でした。絶対に噂のような方ではありません」


 私がきっぱり断言すると、一瞬の間の後で男性が声をあげて笑い出した。

 私を馬鹿にしている感じではなく、好意的な笑いのような気がした。


 しばらくして男性は「すみません」と言ったが、まだ笑い足りない顔に見えた。


「自己紹介がまだでしたね。僕はこのアンダーソンドレス工房の職人でメイといいます。あなたのお名前も伺ってよろしいですか?」


 屋敷を飛び出してきた身でどう名乗るべきか少し迷うが、まだ離縁できたわけではないのだから嫌でも次期侯爵の名を口にするしかない。

 立ち上がろうとしてメイ様に「そのままで」と止められ、お言葉に甘えることにした。


「私はブラッドリー・ローガンの妻パトリシアと申します」


 次期侯爵は私にこんな風に名乗られたくなかったのだろうが、私だって吐き気がする。


 メイ様の顔に驚きが浮かんだ。


「ブラッドリー・ローガン? あなたはあのローガン次期侯爵のご夫人なんですか?」


 メイ様も次期侯爵の駆け落ちや私の鬼嫁ぶりを耳になさっていたのだ。

 私は暗い気持ちで「はい」と頷いた。


「つまり、あなたはご自分の意志でローガン侯爵家を出てきたんですね?」


「はい」


 メイ様は悩ましげな顔でクレアを見た。クレアもいるこの場で何を、どんな言葉を使って訊くべきか、考えてくださっているのだろう。


「理由は、社交界で噂されている次期侯爵の失踪でしょうか?」


「それは、むしろホッとしました」


「でも、他にも見たくない顔があった?」


 私は頷いた。


「だけど離縁してもらえなくて」


 震える声でそう言うと、メイ様が頭を抱えるようにして大きな溜息を吐いてから呟いた。


「本当にそうだったんだ」


「え?」


「実は、あなたのことを兄に話したらサイズもデザインも合わないドレスを着せられていたなんておかしいと言われて、心配していたんです。だけど名前も聞かなかったからどこに行けば会えるのかわからなくて。まさかあなたのほうからここに来てくれるとは思ってもみませんでした」


 私を見つめたメイ様は泣くのを堪えているように笑った。

 1度会っただけの私のことをそこまで気にしてくれていたのかと、胸が熱くなった。


 だけど、よくよく考えてみると、今朝からの様々な偶然が積み重なって私はこうしてメイ様に再会できたのだ。

 せっかくここまで辿り着いても、この店の前で立ち止まらずに通り過ぎていたら、2度とお会いする機会はなかったかもしれない。


「クレアがドレスに気づいてくれたおかげね」


 クレアの頭を撫でると、クレアは嬉しそうに目を細めた。


「クレアとおなじなの」


 小さく首を傾げたメイ様に、私は苦笑しつつ説明する。


「表の窓のところに飾ってあるドレスが、私たちの着ているものと似た色だったので。色以外はまったく違って、比べるのもおこがましいのですけれど」


「ああ、あれですか」


「あれ、きれいね」


 クレアの言葉にメイ様が笑顔を浮かべた。


「ありがとう。あれは僕が考えて、この店の皆と作ったんだよ」


「そうなの? クレアのはおかあさまがつくったの」


「本当に? よく見せてもらっても構いませんか?」


「それは、構いませんが」


 私がそう応えると、メイ様はクレアの傍の床に膝をついて、その綿ドレスのスカートの裾や袖口などを検分しはじめた。

 素人が必要に駆られて作ったものを本職の方に見られるのだからかなり居た堪れない。しかも、クレアはドレスの下に寝巻を着たままだ。


「あの、あまりじっくり見られるのは恥ずかしいので」


「いや、縫い目が細かく揃っているし、始末もきちんとしてある。なかなかのものです」


「ありがとうございます」


 褒められてむしろ困惑していると、突然メイ様が私のほうを振り向いた。


「仕事を探しているんですよね?」


「はい」


「それなら、うちで働きませんか?」


「え?」


「ちょうど縫製の人を増やしたいって師匠が話していたんです。ああ、師匠を呼んで来ますね」


 メイ様は立ち上がると、足早に奥へと消えてしまった。


 私はますます困惑していた。自分自身が着るドレスならともかく、高級店のドレスの縫製なんて私にできるのだろうか。

 いや、せっかくメイ様が誘ってくださったのだし、クレアのために何でもやろうと決めたではないか。


 やがてメイ様が戻ってきた。その後ろには、私の父母より一回りくらい歳上に見える男性がいらっしゃった。


「こちらがこの工房の店主モーリス・アンダーソンです。師匠、パトリシアさんとクレアです」


 メイ様が慌ただしくそれぞれを紹介した。


「ん、クレア?」


 なぜかアンダーソン様もクレアの名に反応してメイ様の顔を見つめると、メイ様は頷いた。


「はい、クレアです」


「あの?」


 私が首を傾げると、アンダーソン様はにっこり笑った。


「いや、良い名前ですね」


「師匠、ほらこれ、見てください」


 メイ様がクレアの横で手招きし、アンダーソン様も「どれどれ」とクレアのドレスを確かめた。


「なるほど、確かに悪くない」


「でしょう?」


 アンダーソン様がドレスから私へと視線を移した。


「あなたは貴族のご夫人だそうですが、本当にうちで働くおつもりですか?」


「もしご迷惑でなければ」


「うちは貴族だからと断ることはしません。あなたのやる気次第です」


「一生懸命働きます。どうかお願いいたします」


 私は頭を下げた。


「では、明日から来ていただきましょうか」


「はい。ありがとうございます」


 そこで私は大事なことに思い至った。


「あの、住み込みでというのは可能ですか?」


 アンダーソン様は眉を寄せた。


「そのための部屋はこの上にありますが、貴族のご夫人とお嬢さんが暮らすようなところではないですよ」


「いえ、娘と一緒に置いていただけるなら、それだけで」


「だったら、僕のところに来ればいいですよ」


 アンダーソン様と私は同時にメイ様を見た。


「部屋はいくらでも空いているし、ここから少し離れているけど馬車を使えば問題ない。それに、あなたの仕事中はクレアを預かってもらえます」


「うん、そうだな。そのほうが安心だ。頼むよ、メイ」


「じゃあ、今からふたりを送って来ていいですか?」


「ああ。よろしくお伝えしてくれ」


「はい」


 アンダーソン様とメイ様の間でトントンと話がまとまってしまった。


「行きましょう」


 メイ様が差し出してくださった手をお借りして立ち上がるが、足がガクガクしてよろけてしまい、またメイ様に支えられた。この方の前ではこんなことばかりだ。

 メイ様はさらに裸足のクレアを抱き上げてくださった。どこか慣れているように見える。


「悪いけど、僕でもいいかな?」


 メイ様の問いに、クレアは「いいよ」と答えた。

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