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4 辿り着いた場所

 塀の外に出ると腕の中のクレアが目を開け、まだ眠そうな声で「おかあさま」と呟いた。


「大丈夫よ。お母様はクレアと一緒にいるわ」


 私の顔を見て安心した様子でまた目を閉じたクレアをしっかりと抱き直し、ラルフに言われたほうへと歩き出した。


 あたりには貴族のお屋敷が立ち並んでいる。それぞれの屋敷の中ではもう使用人たちが働き出しているのだろうが、通りにはまだ人影はほとんどなかった。

 こんな早朝にローガン家を訪れたどこのどなたかもわからない相手に感謝しつつ、侯爵夫人に気づかれる前に少しでも遠くへ行かなければと気が急いた。


 でも、すぐに音を上げたくなった。ただでさえ屋敷に閉じ込められて足が鈍っていたうえ、慌てて出てきたせいで足元は室内履だった。

 結婚した時に実家から持ち込み、補修しながら履き続けてきたものだ。

 クレアにいたっては裸足のままだった。もっともクレアはまともな靴など持っていなかったけれど。


 大して進まぬうちに、空はすっかり明るくなってしまった。


「おかあさま、ここどこ?」


 今度ははっきりと目を覚ましたらしいクレアが周囲を見回しながら尋ねた。

 私は足を止め、クレアを見つめた。


「あのね、クレア。お母様はあのお屋敷にいるのが嫌になったから出てきたの。クレアもお母様と一緒に来てくれる?」


 クレアはすぐにコクリと頷いた。


「うん。クレアはおかあさまといっしょだよ」 


「もうあのお屋敷には帰れなくてもいい?」


「いい」


「ありがとう、クレア」


 私はクレアを抱きしめ、この娘のためにしっかりしなければと改めて決意して、再び歩き出した。

 目を覚ましても靴を履いていないクレアを歩かせるわけにはいかない。


 だがふと思いついて道端の木陰でクレアを降ろし、黒いストールとリボンを使って自分の背に括りつけた。


「ちょっと苦しいかもしれないけど、我慢してね」


 私がそう言うと、クレアは「うん」と私の肩に手を置いた。

 また歩き出す。


 足の痛み、喉の渇き、空腹、徐々に上がる気温。体は様々な不満を訴えてくるが、それに構っている暇はなかった。

 背中のクレアも重いが、あんな屋敷でよくこれだけ成長してくれたと考えるようにした。


 しばらくすると、ようやく周りの景色が変わった。塀や門がなくなり、建物が直接通りに面している。平民向けの共同住宅だ。

 人の姿が多くなったのは、それだけ時間が経過したということだろう。

 徒歩で仕事に向かう平民たちの中なら私の綿ドレスもそれほど目立たないと思うが、子どもを背負っているせいか時に胡乱な視線を向けられた。あるいは、私が周囲の歩く速さについて行けないので邪魔になっているのかもしれない。


 さらに進むと、芳ばしい匂いが漂ってきて空腹を刺激された。少し先にパンを売る屋台があるようだ。


「おなかすいた」


 背中でクレアがポツリと呟いた。

 私は通りの端で立ち止まり、先ほどラルフに渡された巾着袋の中を確かめた。硬貨が数枚見えた。

 果たしてここでパンを買って残ったお金で乗合馬車の乗車賃には足りるのだろうか。ラルフにもっと詳しく聞いておけばよかったと、今さら後悔した。


 しばらく悩んだものの、パン屋で1番安い白パンを1つ買い求め、ついでに店員に乗合馬車について尋ねてみた。

 どうやら残ったお金でふたり分の乗車賃を払えそうだった。

 乗合馬車はこの時間には動きはじめていて、もう少し先でぶつかる大通りに停留所があることも教えてもらえた。


 店員にお礼を言い、受け取った白パンを背中のクレアに渡した。

 クレアはそれを半分にちぎって「はい」と一方を私に差し出し、「いただきます」と言ってから残りの片方にパクリと噛みついた。


「ふわふわ、おいしい」


 クレアが感激した様子で声をあげた。

 これまでクレアが知っているパンといえば固くなってしまったものばかりで、いつもそれをスープやミルクに浸して食べていたのだ。

 口惜しさや情けなさ、その他色々な感情が込み上げて、視界が滲んだ。


「おかあさま、たべないの?」


 あっという間に食べ終えてしまったクレアに、私は自分の手にあったパンをまた渡した。


「お母様はいらないから、これもクレアが食べなさい」


「うん」


 クレアは素直にパンを口にした。おそらくこれでも足りないだろう。

 無事に乗合馬車に乗れたとしても、いつになったらクレアにきちんとした食事をとらせてあげられるのか。

 いや、弱気になっては駄目だ。


「クレア、お母様はこれからたくさん働いて、クレアに毎日ふわふわのパンを食べさせてあげるからね」


「ほんと?」


「ええ、本当よ」


 何としても仕事を見つけて、この約束を守らないと。

 ローガン家でしていたような事務仕事があればいいけれど、稼げるなら何でもやろう。


 すでに棒のようになった足をどうにか動かしていると、パン屋で聞いた大通りとの交差点らしき場所が見えてきた。

 少しだけ安堵したのも束の間、目の前を何人もの人を乗せた馬車が横切って行った。

 もちろんそれを追いかけて呼び止めるだけの力はなかった。


 まだ次の馬車があるはずだ。

 そう自分を叱咤して、交差点を停留所のあるほうへと折れた。


 大通りの両側には様々なものを扱う店舗が並んでいた。

 カフェや軽食を売る店などはすでに営業していたが、ほとんどはまだ開店の準備中のようだった。その多くは商品を作る工房が併設されている、貴族向けのオーダーメイドが中心の高級店だ。

 扉や窓のガラス越しに中が覗けて、クレアが声を上げた。


「おかあさま、みて。ぼうしがいっぱいならんでる」


 生まれてから屋敷の中と庭が世界のすべてだったクレアには衝撃の光景だろう。


「あれ、かわいい」


 次にクレアが指差したほうにはうさぎの縫いぐるみがあった。


「こんどはくつがいっぱい」


 ああ、クレアの靴も必要だった。あんな高級なものは無理だとしても、早く買ってあげないと。


「あ、ドレス、クレアのとおなじ」


 一際はしゃいだクレアの声に思わず足を止めると、ガラス越しに鮮やかな空色のドレスが目に入った。

 確かに同じ青のドレスだけど、私が作った綿ドレスとは比べ物にできないほど華やかで輝かんばかりのドレスだ。

 こんな素敵なドレスは私にはもう縁がないかもしれないけれど、いつかクレアには着せてあげられるだろうか。


 嘆息しつつ、何となく店を眺めた。

 看板には「アンダーソンドレス工房」とあり、やはりここも工房に店舗が併設された造りになっていた。

 あら、「アンダーソンドレス工房」って、あの幸せになれるドレスを仕立てると噂になっていた店かしら?


 その時、近くで扉が開く音がした。


「ああ、すみません。今開けますね」


 工房らしきほうから出てきた男性の言葉に、私は慌てた。

 自分が高級ドレス店に入るにまったく相応しくない格好をしていることは自覚している。

 寝起きのまま自分で作った綿ドレスを着て屋敷を飛び出してきた。ここまで歩くうちに汗をかいたし、足元の室内履はもうボロボロ。そして、娘を背負っている。

 これでは店の前に立っていることさえ迷惑かもしれない。


 私は「結構です」と言うつもりで男性のほうを向き、目を瞠った。男性も私の顔を見て「あ」と声をあげた。

 いかにも平民の職人風の服に身を包んだその男性は、ウォルフォード家の夜会で私を助けてくださったあの方だった。


 男性の姿を見つめて呆然としていると、ふいに男性が安堵したように表情を緩めて「よかった」と呟いた。


「お嬢さんがいらっしゃったんですね。それ、この前のですよね」


 その言葉で、クレアを背負うのに使っていたのがこの男性が私のドレスを直すためにどこからか持ってきてくださった黒いストールとリボンだったことを思い出した。


「申し訳ありません。こんな使い方をしてしまって」


「それはあなたに差し上げたものなので気にしないでください。2度もあなたの役に立ったなら何よりです」


「ですが、奥様のお持ち物だったのでは?」


「違いますよ。僕は独り身ですから。そのストールとリボンはちょうどあの頃、姉が黒いものに刺繍したいと言うので色々と集めて馬車に載せていた中にあったんです」


「もしかして、あの裁縫箱もご自分のものだったのですか?」


「ええ、そうです」


「あなたはこちらの工房の方なのですか? 雰囲気で高位の貴族の方だろうと思っていたのですが」


 平民の服を着てドレス工房にいらっしゃっても、やはりこの方が纏う空気やちょっとした動作には品があった。

 それに、ウォルフォード家の夜会に参加していたのは貴族ばかりのはずだ。


「おかあさま、どうしたの?」


 クレアの声で、我に返った。

 そうだ、立ち止まっている場合ではない。次の乗合馬車には必ず乗らないと。停留所はまだ先だ。


「申し訳ありません。あの時のお礼はいつか必ずいたします。今は行かないとならないので」


「どちらに行くんですか?」


 男性にそう問われて答えに詰まった。

 どこへなんて私にもわからない。とにかくできるかぎり遠くへ。それだけだ。


「次の乗合馬車に乗りたくて」


「それなら、後で僕が目的地まで馬車で送りますから、とりあえず中に入りませんか?」


「いえ、こんな格好ではご迷惑になりますので」


 私が首を振ると、男性は顔を顰めた。


「失礼を承知で言いますが、そんな格好だからです。今のあなたはあの時よりも酷い顔をしています。背中にお嬢さんもいるのに、今度こそ倒れたらどうするつもりですか?」


 男性は言葉こそ強い調子だったがその声は温かく、瞳は優しかった。

 ここまでどうにか私の足を動かしてきたものが、ゆるゆると溶けていってしまう感覚がして、それが目から溢れ落ちてしまわないようグッと堪えた。

 まるで私の心の内を見透かしたように男性が近づき、私の体に腕を回して背中にいるクレアごと支えてくれた。


「さあ」


 男性に促されるまま、私は工房の入口へと足を向けた。

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