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31 王都の夏

 数か月前には想像もできなかった幸せな毎日を送っているというのに、あるいは幸せだからこそ、ほんの時たまだが眠れない夜があった。

 この日々はすべて夢の中の出来事で、朝になって目を覚ましたら私はまだあの屋敷にいるのではないか。そんなことを考えてしまうのだ。

 くだらないと自嘲してみても、その幻想は胸のあたりで重石となって消えなかった。


 暗闇の中、何度か寝返りを打ち、隣で健やかな寝息を立てているクレアの頭を手探りで撫で、さらに手を伸ばしてメイに触れた。

 寝巻越しに感じるメイの体温は私を落ち着かせてくれた。


 でもある夜、誤って寝巻だけでなくその下の皮膚まで掴んでしまい、目を覚ましたらしいメイの口から小さな呻き声が漏れた。

 慌てて引こうとした手は、メイにがっちりと掴まれた。


「パティ、眠れないの?」


 メイの声は覚醒しきっていないからか不機嫌に聞こえた。


「起こしてしまってごめんなさい。大丈夫だから、気にしないで……」


「違うよ、パティ。何で起こさないの? 眠れない時は僕を呼んでって言ったのに」


 そんなことを言われただろうかと考えて、初めて満月の下で散歩した時のことだと思い至った。

 その間にメイが私の手を放して起き上がる気配がし、クレアの寝る位置が向こうへずれた。


「パティもこっちに寄って」


 言われたとおりにすると、同時にメイもベッドの上を移動して私の背後で再び横たわったのがわかった。

 メイは私とクレアを纏めて抱きしめるように片腕を回し、もう一方の手で私の頭をやわやわと撫でた。

 私の中にあった重石が軽くなり、目頭がじんわりと熱くなった。


 毎朝、私より早くに起き出してドレスを縫っているメイが、この翌朝は私が目を覚ました時にもベッドの中にいて私を抱きしめてくれていた。




 長期休暇の季節になっても、メイと私は今までと変わらずアンダーソンドレス工房に通い、ドレス作りに励む日々だった。


 お客様のお屋敷に伺うことがないので、アンダーソンさんとイーサンさん、メイもほとんど工房に詰めていた。

 それに店舗を開けないので、奥さんやお嬢さんが作業に加わることも多くなった。




 都では貴族の姿をほとんど見かけなくなり、貴族向けの店はどこも閉じられた。

 しかし、もちろん都が静まりかえったわけではない。


 都に暮らすたいていの平民は長期休暇も夏の暑さも関係なく働いている。

 工房からの帰り道に通りかかる夕方の街は、むしろ普段より賑やかなくらいだった。

 風を通すために扉や窓を開け放った食堂からは、陽気な歌声が流れてきた。




 もちろん、メイと私は領主になるための教育も引き続き受けていた。

 宮廷のお仕事がお休みになって、ノア様の指導はますます熱を帯びた。


 バリー領に派遣した人たちからは現地の調査報告が届き、ノア様、お義父様、お義母様、メイと私で具体的な経営方針も話し合った。


 そんな時間が重なるうちに理解したのは、ノア様に代替わりする前のコーウェン家では領地経営をはじめとする当主の役割を私が考えていた以上にお義母様が担われていたようだということ。

 おそらく、私がローガン家で担っていたことなど比較にならない量のお仕事をこなしながら、あくまでお義父様の補佐をしているだけというお顔をなさっていたのだ。

 これはお義母様がそれだけの才覚をお持ちであるだけでなく、お義父様との間に強い信頼関係があってこそだろう。


 ノア様が当主になった今ではお義母様も基本的にはノア様やセアラ様にすべて任せていらっしゃるけれど、時おり口になさるご意見は鋭く的確。

 お義母様の実際のお仕事振りを間近で見てきたノア様やセアラ様、メイたちがお義母様を敬慕するのは当然で、ただ話に聞いただけで憧れていた自分を恥ずかしく思うとともに、改めて尊敬の念を強くした。


 私たちが疲労を覚える頃を見計らって、美味しいお菓子と紅茶が運ばれて来るのも常だった。

 こちらは家族の様子をよく見ていらっしゃるお義父様の差配だ。


 お菓子はお屋敷の料理人が作るものもあるけれど、お義父様が自ら買ってきてくださることも多かった。

 お菓子店で休暇期間中に閉店しているところは少ないそうだ。


 そうして私たちが甘いお菓子をいただいて一息吐く横で、正確にはお義母様の隣で、お義父様はコツコツと手を動かされた。

 もうすぐ生まれてくる孫のため産着に可愛いらしい動物や花を刺繍なさるのだ。

 他にも私の仕事服にイニシャル、クレアの服にはうさぎや林檎などの刺繍をしてくださった。


 お義母様が決して独断で領地経営をなさらなかったように、お義父様も孫のための刺繍のモチーフを何にするかなどお義母様に相談なさっていた。

 メイに聞いていたとおりお義父様がお義母様を大好きなことは一目瞭然だけれど、1針1針丁寧に針を刺していくお義父様を見つめていらっしゃるお義母様の柔らかい表情からも深い愛情が感じられた。




 忙しい日々を縫って、メイはクレアと私を様々な場所に連れ出してくれた。


 毎週のように都のどこかしらで開かれるというお祭りは、大道芸や子ども向けの人形劇が見られたり、美味しそうな食べ物を売る屋台が並んでいたりして、クレアだけでなく私も童心に戻って楽しんだ。


 いつもなら貴族が多い王宮美術館も平民で賑わっていた。

 王宮美術館は入館料がかかるのだが、長期休暇中は他の時期よりそれが値下げされるそうなのだ。

 クレアは絵画に描かれているものより、その大きさに興味を引かれたらしく、特に大きな作品はポカンと口を開いて見上げた。




 緑の離宮の植物園には、ノア様とセアラ様以外の皆で出かけてピクニックをした。


 休暇期間中に外出する時は、貴族の少ない都を満喫している平民たちを慮って私たちも平民風の装いをしていた。

 メイとクレアと私の3人ならそれで十分に裕福な平民の振りができたのだが、お義父様が加わるとどう見ても貴族のお忍びにしかならなかった。

 コリンが爵位を持たないので、アリス様は普段から質素なドレスを纏っているのだが、彼女を平民だと思う人もいないだろう。


 いつもは執事の仕事を優先するコリンもこの日はノア様から「おまえも行け。主ではなく義兄としての命だ」と言われて一緒に来たので、アリス様やルーカスはとても嬉しそうだった。

 でも、ふたりに負けず劣らずニコニコしていらっしゃるのがお義父様だった。


「メイが一緒なのは久しぶりだね」


「そうね。最後にメイとピクニックをしたのは何年前かしら」


「あの頃はまだ小さくて、クレアの手を放さなかったな」


「帰る時には疲れて寝てしまって、あなたが抱いていたわね」


 園内を散策しながら、私たちのすぐ傍でそんな会話が交わされて、メイはやや眉を顰めた。


「父上、母上、いったいいつの話をしているんですか。僕がふたりと最後にピクニックをしたのは、エルマーが生まれた後でしたよ」


「あれ、そうだった?」


 広場の木陰に拡げた敷物の上で昼食をとってからは皆思い思いに過ごしていたが、子どもたちがはじめた鬼ごっこに大人たちも徐々に巻き込まれていった。

 私もクレアに手を引かれて加わったものの早々に息が上がってしまい、木陰に戻って敷物に腰を下ろした。


 お義母様やアリス様よりも体力がないことを情けなく思うが、4年半も庭を散歩することさえままならない生活をしていたのだから仕方ない。

 同じ環境にいたクレアはここ数か月でずいぶん体力がついたようで、元気に駆け回っていて安堵した。


 視線を鬼ごっこから上へと転じれば、所々に小さな雲が浮かぶほかは真っ青な空が広がっていた。

 空を眺めていると、ふいに視界の中にメイが現れた。ぼんやりしているうちに、すぐ傍まで来ていたらしい。


「疲れた? 大丈夫?」


「大丈夫です」


 メイは私の隣に座ると、やはり空を見上げた。


「良い天気だね。ちょっと暑すぎるけど」


「はい。都の夏がこんなに暑くて眩しくて楽しいなんて知りませんでした」


 あの屋敷の中は、夏でも暗くて薄ら寒いような気がしていた。外には明るい世界があるはずだということも忘れていた。

 昨年までの夏のことを思い出すと、今こうしてメイの隣にいることが現実ではないように感じられて不安になってしまい、それを振り払いたくて彼に寄りかかった。


「パティ?」


「あの、やはり少し疲れたみたいで、しばらくこうしていてもいいですか?」


「いくらでもどうぞ」


 先ほどまで日差しを浴びていた体は互いに汗ばんでいるのに、メイは私の肩に手を回してさらに抱き寄せてくれた。

 私の心を読んで、これは現実だと教えるように強く。




 それから間もなく、セアラ様が無事に出産なさった。

 生まれたのは元気で可愛らしい女の子で、ノア様によりミリアムと名付けられた。


 クレアは新しく増えた家族に興味津々だった。


「あのね、ミリアムはソフィアとエルマーのいもうとで、クレアとルーカスのいとこなんだって」


「そうだね。クレアより小さいから優しくしてあげてね」


「うん。クレアもミリアムみたいにちいさかったの?」


「生まれた時は、クレアのほうが小さかったかしら」


「ミリアムより小さかったのに今はこんなに大きくなったのか。クレアはすごいな」


「クレアもっとおおきくなるよ。そしたらクレアにもいもうとできる?」


 もちろん考えたことがなかったわけではないけれど、クレアに期待いっぱいの表情で訊かれて、思わずメイを見つめてしまった。

 彼も少し気恥ずかしそうに私を見た。


「多分、そのうちできる、かな?」


「あ、でも、弟かもしれないわよ」


「おとうと?」


「妹は女の子、弟は男の子」


「ふうん」


「どちらでもきっと可愛いし、クレアは良いお姉様になるよ」


「クレア、いもうとかおとうとができたらおねえさまになるの?」


 驚きの声をあげたクレアに、私はメイと顔を合わせて笑ってしまった。

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