30 ふたりの夜会
その日の夜会が催されたのは、コーウェン家と並び立つ名家である某公爵家のお屋敷だった。
シーズン最終盤に開かれるものとしては最大の社交の場なので、参加者もかなりの数になる。
私が結婚前最後に参加したのもこの公爵家の夜会だった。
この夜会を選んだのはノア様で、メイには欠席なさるコーウェン公爵の代理という役目もあった。
メイは「代理をするのは面倒だけど、ノアはセアラがいないとすぐ不機嫌になるからいないほうがいい」なんて失礼なことを言っていた。
メイにエスコートされて会場の大広間に入った。
こうしてきちんとエスコートを受けて社交に出向くのも5年振りだ。
もちろん5年前にエスコートしてくれたのはお父様や従兄だったのだが。
コーウェン公爵弟はやはり注目される存在のようであちらこちらから視線が送られてくるのを感じた。
私たちの婚約はすでにたくさんの方々に知られているらしいので、私がメイの婚約者に相応しいかと値踏みしている方もいるだろう。
私は鏡に映った自分の姿を思い出して、しっかりと背筋を伸ばした。
それに気づいてか、メイがこちらを見て微笑んだ。彼の顔が普段より近い。
私が踵の高い靴を履いているからなのだが、私たちの心の距離が縮まったからだと思えてしまう。
ふと、ウォルフォード家の夜会では名も知らぬ貴公子を自分からは遠い場所にいる方だと感じたことを懐かしく思い出した。
「初めて会った時には、メイナード様とふたりで夜会に出る日が来るなんて夢にも思いませんでした」
「僕もだよ。再会してからは、絶対にそのドレスを着たパトリシアと行くんだって思ってたけど」
夜会にはマクニール侯爵ご一家、それに私の実家の家族とイザベルも参加する予定だと聞いていたので、会場で落ち合った。
やがて開会が告げられ、音楽の演奏がはじまった。
メイが1度私から離れて、改めて恭しく手を差し出してきた。
「パトリシア嬢、僕と踊っていただけますか?」
「はい、メイナード様、喜んで」
練習の甲斐あって、完璧とは言えないまでも見苦しくない程度にはステップを踏むことができた。
それに、メイが上手にリードしてくれたので、多少の失敗もそれほど目立たなかっただろう。
曲が変わっても、メイと私はそのまま踊り続けた。
これで、私たちは特別な関係なのだと会場に知らしめることになった。
でもそんなことは別にして、私はメイとのダンスを楽しんでいた。メイもずっと笑顔だった。
3曲踊ると私はさすがに疲労を覚え、メイとダンスの輪を抜けた。
「私は休んでいますから、メイナード様はどなたか別の方を誘ってください」
メイの次の動向を窺うようにこちらを見ている令嬢があちこちにいるのだ。
「パトリシア以外の人とは踊りたくない」
メイの顔には少しだけ拗ねるような色が浮かんだ。
「少しくらい離れても、私は他の方に目移りなんてしませんよ」
「今夜の僕の目にはパトリシアしか映らないんだ」
メイは握っていた私の手を引き寄せて口づけた。
頬が赤らむのを感じた。令嬢方の視線が鋭くなったのも。
ふたりで主催者の公爵にご挨拶してから飲み物のグラスを受け取った。
すぐにメイのもとに何人もの方がやっていらっしゃった。
コーウェン公爵代理のメイに挨拶にいらっしゃる方もいたが、多いのはメイ自身と親しいらしい方々だ。
学園に入学しなかったメイは、こういう社交の場で同年代の貴族の友人を得てきたそうだ。
メイ自身は「僕じゃなくてコーウェン公爵弟と仲良くしたい人がほとんどだよ」と言っていたけれど、私は彼には男女問わず人を惹きつける魅力があるのだと思う。
メイの友人の中には私と学園の同級生だった方々もいらっしゃって、こんな形での再会を面白がっている様子だった。
メイは誰もに私を婚約者として紹介してくれた。
皆様、仰りたいことがありそうな様子だったけれど、それを口にしないのはメイに遠慮してだろう。
ただ、不躾なことを仰る方も皆無ではなかった。
「あなたの元夫は酷い男でしたね。そういえば、ローガン家の新しい当主になったのはあの庶民なのでしょう? あなたは彼が義弟だと知っていたのですか? 兄があれなのだから、弟に問題があっても不思議はないですね」
そう仰ったのは、元同級生のひとりだった。
確かこの方はローガン伯爵が卒業試験で首席を取るまでは割と親しくしていたはずなのにと、私は内心で眉を顰めた。
意外にも、反論したのはメイだった。
「僕がお会いした時の印象だと、ローガン伯爵は好感の持てる方でしたよ。それに、いくら元同級生で平民出身でも、あちらはすでに陛下に認められて正式に爵位を継いでいらっしゃるのだから、ただの伯爵子息であるあなたが安易に貶していい方ではないと思います」
メイの声はあくまで穏やかだったが、相手もそんな風に返されるのは予想外だったようで、しどろもどろに二言三言口にしてから離れていった。
その後で、メイは気まずそうに言った。
「別にローガン伯爵を庇ったわけじゃないよ。パトリシアをローガン家と結びつけて話されるのが面白くなかったから」
私とローガン元侯爵子息の離婚は書類上では4か月ほど前になるが、詳しい事情を知らないほとんどの方にとってはつい最近のことなのだから、それは仕方のないこと。
そう頭で理解していても不快感を覚えてしまうのも事実で、メイが私の代わりにそれを露わにしてくれたことは素直に嬉しかった。
でも、ローガン伯爵に好印象を持ったというのも嘘ではない気がした。
しばらくはそうしてメイの隣にいたけれど、彼のもとにやって来る方は絶えず、気づけば私たちは何人もの方々に囲まれていた。
私は邪魔にならぬよう少し退いていることにした。
メイは申し訳なさそうな顔で私を振り返ったけれど、私の傍にダイアナとイザベルが来てくれたことを確認すると周囲との会話に意識を戻した。
その途端、メイを囲む輪のもっとも外側にいた数人の令嬢が私たちのほうへと近づいてきて、聞こえよがしに話しはじめた。
「離縁したばかりでコーウェン公爵弟と婚約なさるなんて、厚かましい方ね」
「夫を嵌めて他の相手と駆け落ちさせるような方ですもの、きっと恥知らずという言葉をご存知ないのよ」
「コーウェン公爵弟もローガン家の方々もお気の毒だわ」
「きっと今だけよ。コーウェン公爵弟もそのうち目を覚まされるわ」
彼女たちが私だけでなく、私と婚約したメイ、あの騒動を調査して結論を出し私たちの婚約を認めてくださったノア様、さらにローガン家に処分を下し私たちの婚約を許可してくださった国王陛下のことまで貶めていると気づいているのだろうか。
私は、先ほどのメイのようにわざわざそれを指摘してさしあげる親切な人間ではなかった。
彼女たちはすぐにメイを囲む輪に戻っていった。
顔を強張らせていたダイアナとイザベルが、私を見て怪訝そうな表情を浮かべた。
「お姉様、どうして酷いことを言われたのに笑っているの?」
「そうですわ。私が何か言い返して……」
「いいのよ。だって、私の婚約者はあんなに素敵な人なのだもの。妬まれないほうがおかしいわ」
メイのほうを見ながらそう言うと、ダイアナとイザベルは目を合わせて嘆息した。
「まさかここでお姉様から惚気られるなんて」
「お姉様こそ素敵ですわ」
「もし婚約が決まれば、私も皆に妬まれるんでしょうね」
ダイアナが不安そうに呟いた。
メイと私のことが縁となって、ダイアナとマクニール侯爵のご嫡男ヴィンセント様の婚約の話が出ているのだ。
「それなら、妬まれることを恐れて諦めるの? きっとすぐに他の方がヴィンセント様の婚約者になってしまうわよ」
「それは嫌」
ダイアナは以前、「コーウェン公爵弟と結婚したい人は私の周りにもいる」と言っていたが、彼女の周囲でもっとも人気があるのは同級生のヴィンセント様らしい。
ヴィンセント様は次期侯爵であることに加え、お義父様やメリーお義姉様に似て綺麗でありながらルパートお義兄様譲りの精悍さもある顔立ち、さらに高身長と、まさに物語に出てくる騎士様のような容姿なのだからそれも納得だ。
ダイアナもそんなヴィンセント様に密かに憧れていたひとりなのだという。
ヴィンセント様の気持ちはわからないが、メイ曰く、ヴィンセント様にまったくその気がなければ縁談が出ることはなかったはずだとか。
今夜、ヴィンセント様はダイアナをファーストダンスに誘ってくださっていた。
ダイアナは私と違って可愛らしい顔で、体も女性らしい丸みを帯びつつある。
ヴィンセント様と並ぶと少々身長差はあったが、互いに初々しく恥じらう様子が微笑ましかった。
「でも、本当にマクニール次期侯爵と婚約できたら、私もお義兄様にウェディングドレスを作ってほしいな」
「お姉様の今日のドレス、素晴らしいものね。私もいつかアンダーソンドレス工房に注文したいわ」
私をメイの婚約者として認めたくなさそうな方々も、メイが私のために作ってくれたドレスの素晴らしさは認めざるを得なかったようで、それを着ている私まで褒めていただいた。
今夜の私の見た目だけで「こんな方が相手ではコーウェン公爵弟が心奪われても仕方ない」なんて言われるのだから、あまり嬉しくはないけれど。
会場では、いくつか見覚えのあるドレスも揺れていた。アンダーソンドレス工房で作られたドレスだ。
ほんの一部分とはいえ私も縫製作業に関わったドレスが着られているのを目の当たりにするのは、感無量だった。
令嬢方の間では、「幸せのドレス」の噂もまだまだ好まれているようだ。
ダイアナやイザベルとお喋りをしながら大広間を眺めていると、ふいに少し離れた場所にいた方と目が合った。
慌てて視線を外したところを見ると、こちらを伺っていたのかもしれない。
彼女は迷っている様子だったが、やがて意を決したように私のほうへと歩いてきた。他にふたりがその後をついて来た。
3人は私の前まで来ると、揃って頭を下げた。
「パトリシア様、先日の夜会では失礼なことをして申し訳ありませんでした」
彼女たちは、いつかの夜会で私に「近寄らないで」と言って背を向けた元同級生たちだった。
「私たち噂を鵜呑みにしてしまって、あなたが本当はどんな方かなんて知っていたはずなのに」
「あれからすぐに後悔して、謝りたいと思っていたの」
「それに、できればまたパトリシア様と仲良くしたいって」
殊勝な表情で言葉を並べる3人に、私は微笑んでみせた。
「もうよろしいですわ。あの噂を信じた方はたくさんいらっしゃったのですし、皆様がそう思ってくださるなら、私もまた仲良くしたいです」
「本当ですか?」
「ありがとうございます、パトリシア様」
3人は繰り返し礼の言葉を口にし、さらに婚約を祝福したりドレスを褒めたりもしてから離れていった。
「あれほど簡単に許してしまってよろしいのですか?」
ダイアナもイザベルも、詳しい経緯を説明しなくても何となく察したようだった。
「心の中では何を考えているか、わからないわよ」
「そうね」
3人は本心から謝ってくれたのだと思いたいけれど、私がコーウェン公爵弟と結婚することを知って仕方なく頭を下げたのではないかとどうしても疑ってしまう。
「でも、仲良くしたいと言ってくれる方を拒むことはできないわ」
この5年近く交友関係をも奪われていた私は、改めて社交界デビューしたような状態で、友人もいないに等しいのだ。
だから今は、自ら敵を作ることはしたくなかった。
「パティ、お待たせ、ごめんね」
ふいにそんな声が聞こえたと同時に、腰を抱き寄せられた。もちろんメイだ。
「ダイアナとイザベルが一緒でしたから大丈夫です」
「本当に? 寂しかったって甘えていいんだよ?」
そんなことを口にするメイのほうが甘えたそうな顔に見えた。
夜会の会場では愛称呼びはしないとふたりで決めていたのを、あっさり破ってしまったし。
これは先ほどのことを横目で見ていてわざと演技をしているのだろうか。いや、きっとやりたくてやっているのだ。
もちろん悪い気はしないけれど、たくさんの人目のある場所でどんな風に返すのが正解なのかわからなかった。
「どこか静かなところで少し休みませんか?」
「休憩用の部屋に行く?」
私は少し考えてから、別の提案をした。
「バルコニーにしましょう」
メイは眉を顰め、耳元で囁いた。
「もしかして、密室でふたりきりになったら僕が不埒なことをするんじゃないかって思ってる?」
「いえ、そんなことは……」
ちょっと思ってます。
「仕方ない。屋敷に帰るまで我慢するか」
やはりするつもりだったのではないですか。
メイとふたりでバルコニーに出た。
会場入りした時よりも気温が下がっていて、いつの間にか火照っていた肌を撫でる涼風が心地良かった。
「そういえば、うちの工房で作ったドレスをいくつか見かけました。とても嬉しいものですね」
私がそう言うと、メイがハッとした顔になった。
「今まではたくさんのドレスを見るために夜会に来ているようなところがあったのに、今日はほとんど見てなかった」
「ええ?」
「だって、パティにしか目が行かないんだもん。もう隣にセアラがいないと不機嫌になるノアのこと笑えないな」
言葉は自嘲するようでありながら、私を見つめるメイの顔には幸せそうな笑みが浮かんでいた。




