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3 屋敷からの逃走

 翌日、私は夜会ドレスを自分自身の手で直した。

 黒いリボンとストールを丁寧に外し、代わりにスカートのドレープを少し切り取って背中から腰の部分に縫い付け、鈕の位置をずらした。


 一晩纏ったくらいでは愛着の湧くはずもないドレスだが、私のためにこれに手を加えてくださったあの男性のことを思い出すと、心がほんのり温かくなる気がした。

 そう言えば、裁縫箱は休憩室の前にいたメイドに借りたとしても、このストールやリボンはどこから持ってきたものなのだろう。

 どちらもまだ新しく、こんな使い方をしたのがもったいないほど良質そうなものだ。やはり奥様の物だろうか。

 あの方はずいぶん落ち着いた印象だった。おそらく私より歳上だろう。高位貴族あるいはその子弟なら結婚しているか、少なくとも婚約者はいるに違いない。


 そう考えて気持ちが沈みかけたところに、私に寄りかかるように隣に座っていたクレアが無邪気な声をあげた。


「おかあさま、おひめさまとおうじさまいた?」


「ううん、いなかった。でも、素敵な紳士はいたわよ」


「しんしってなあに?」


「ええと、『セドリック』様みたいな方のことよ」


 昨夜、クレアが義母から特に何かされた様子はなく、私が帰宅した時にはベッドの中でぐっすり眠っていた。

 だが、朝になって目を覚ましたクレアはいつものように私が隣にいたことに安心したらしく、それから私にベッタリだった。


 クレアを膝の上に抱き上げながら自嘲した。

 例えローガン次期侯爵に妻として扱われず、さらに恋人と駆け落ちされたとはいえ、私は既婚者で可愛い娘だっているのに何を気にしているのかしら。

 でも、誰かに優しくされるなんて数年ぶりでしかもそれが素敵な紳士だったのだから、少しくらいときめいてしまうのは仕方ないと思う。別にあの男性とどうにかなるはずはないのだ。


 スカーフとリボンは綺麗に畳んでベッドサイドの引き出しに仕舞った。




 それからも私は週に1度くらい悪の女王ドレスを着て侯爵に指定された夜会やパーティーにひとりで向かった。


 ラルフによると侯爵もひとりで社交の場に出ているはずだが会場で姿を見かけることはないので、おそらく私とは別のところに参加しているのだろう。

 最近は裕福な平民の方々にも門戸を開いたパーティーが増えてきたらしい。次期侯爵が商人の妻になっていた幼馴染と偶然再会したのもそんなパーティーだったようだ。

 侯爵の愛人も平民だというから、その方を連れてそういうところに参加しているのかもしれない。


 一方、エスコートしてくれる人も知人に紹介してくれる人もいないまま、久しぶりの社交界にみっともない姿で放り込まれた私は完全に浮いた存在で、壁の花になって会場を眺めているしかなかった。


 だから2回目の夜会で、私のすぐ傍で数人の若い令嬢方がお喋りをはじめた時には、はしたないと思いつつも暇つぶしに聞き耳を立てた。

 令嬢方は着ると幸せになれるドレスなどというものについて熱心な様子で語り合っていた。

 何でもアンダーソンドレス工房で仕立てられたドレスを纏っていた方が何人も幸せになったらしい。

 曰く、意中のお相手からダンスに誘われた、良いお相手と婚約できた、あるいは好かないお相手との婚約を円満に解消できた、などなど。

 そんなドレスあるわけないと思ってしまうのは、私には一生縁のないものだからだろうか。


 私が場所を移動しようかと考えはじめた時、令嬢方の話題が変わった。先日起こった次期侯爵と幼馴染の駆け落ち騒動に。


 シェリル様の夫ガードナー氏が、エメット男爵家の借金を肩代わりするのと引き換えに息子より歳若いシェリル様を後妻にしたという情報はすでに私も聞いていたとおりだ。

 令嬢方はそれに加え、ガードナー氏はかなりのお金持ちなのにシェリル様には粗末な食事とドレス以外何も与えず、誰にも会わせず、屋敷に閉じ込めていたとも話していた。

 だから、幼馴染をそんな結婚から救い出すため彼女の手を取って逃げた次期侯爵は物語の中の白馬の王子様か正義の騎士様のような方に違いない、とも。


 いえいえ、皆様、ローガン次期侯爵は白馬の王子様からはかけ離れた平凡な顔立ちで、正義の騎士様にはほど遠い優男です。馬に乗ることも剣を握ることも多分できません。

 ついでにあの歳になっても親の言葉に逆らえず、そのくせ私にだけは居丈高な態度でガードナー氏より余程酷いことをする人間です。

 なかなか可愛らしい顔をしていたシェリル様は次期侯爵のどこが良かったのか、私には今もって理解できません。

 まあ、シェリル様が次期侯爵の手で非道な夫から逃げられたのと同時に私もそんな人からは解放されましたが、こちらにはまだ嫁を道具としてしか扱わない父親と鬱憤の捌け口としか思わない母親が残っているんです。




 初めのうちはそんな風に心の中で反論しながら溜息を吐いていればよかった。

 しかし、ローガン次期侯爵とシェリル様に関する話は社交の場に行くたびに様々なところから私の耳にも届き、徐々に真偽の定かでない尾鰭がついていった。


 例えば、あるパーティーで聞こえてきた話のうちの1つは、シェリル様はローガン次期侯爵と再会したパーティーであのアンダーソンドレス工房が仕立てたドレスを着ていたらしいということ。

 シェリル様はどうやってそのドレスを手に入れたのかしら。


 とある夜会では、ローガン次期侯爵夫人に関する噂も耳に届いてきた。

 何でも、次期侯爵とシェリル様は子どもの頃から結婚の約束をするような仲だったのに、突然現れたパトリシア・オーティスとかいう悪女が次期侯爵に横恋慕して無理矢理その婚約者になり、その後もシェリル様を虐め抜いてついには商人の妻に追い落としたのだそう。


 もちろん、私にはまったく身に覚えのないことだ。

 そもそも私はシェリル様のことを結婚するまで知らなかった。シェリル様は私より1つ歳上らしいが学園には通っていなかったので、私がその姿を見たのは結婚式の1度だけ。

 シェリル様を私たちの結婚式に呼んだのは次期侯爵か侯爵夫人だろうが、その非常識な行いがなければ私はシェリル様の顔を知らずにいられたのに。




 次のパーティーでは、親しかった学園の同級生が数人いるのを見つけた。

 私は久しぶりに懐かしい顔を見られた嬉しさから、足早にそちらへ向かった。


「皆様、お久しぶりです」


 しかし、振り向いて私を見た彼女たちの目には侮蔑が浮かんでいた。


「あら、ローガン次期侯爵夫人ではありませんか。結婚なさってからずっと私たちの手紙や誘いを無視していらっしゃったのに、今さら何の用ですの?」


「無視なんて、私は……」


 同級生から手紙やお誘いが来ていたことさえ知らなかった。


「侯爵家に嫁ぐと決まってからお高くとまって私たちを見下して、結婚式も呼んでくださらなかったのでしょう」


「違います」


 結婚式の参列者はすべてローガン家で決められて、こちらの希望など気にもされなかったのだ。


「次期侯爵に捨てられて、慌てて旧交に縋ろうとしても遅いですわ」


「あなたと一緒にいて私たちまで悪女だと勘違いされたら困ります。近寄らないでいただけますか」


 同級生たちは私に背を向けて離れていってしまった。


 呆然とそれを見送っていた私の耳に、どこからともなくパトリシア・ローガン次期侯爵夫人の鬼嫁ぶりが届いた。

 次期侯爵や侯爵夫人に暴言を吐き、侯爵家を好き勝手に取り仕切り、我儘放題の贅沢三昧と。


 体の中から怒りがふつふつと湧き出すのを感じた。

 どうして私がそんな風に言われなければならないのだ。

 いつまであの屋敷に閉じ込められて、私を嫁どころか人としても扱わない人たちのために働かなければならないのだ。


 このままいけばローガン侯爵位はいずれクレアの夫が継ぐのかもしれないが、そんな気の遠くなるほど先のことを待ってなどいられるはずもない。

 それ以前に、あんなところにいつまでもクレアを置いていたくない。

 次期侯爵はシェリル様と逃げたのだ。だったら、私だってクレアと逃げて何が悪い。




 ローガン家から逃げようと決意したものの、特に何かを準備したわけではなかった。

 どうしてもローガン家に置いていけないものなど私にはクレアの他になかったし、下手に荷造りをして見つかることが怖かった。


 逃げる先として思い浮かぶのは実家オーティス家だけだったが、それは侯爵夫妻も同じだろう。

 結婚後、実家とは定期的に手紙のやりとりをしてきたが、次期侯爵が駆け落ちしてからはそれが途絶えていた。おそらくは侯爵夫人が実家からの手紙も握り潰し、私が書いた手紙も実家には送られていないに違いない。

 実家では嫡男の弟が宮廷で働きはじめたばかりで、弟妹とも婚約はこれからだ。私の事情で迷惑はかけたくない。それに、私なら乗り越えられると言ってくれたお父様をがっかりさせると思うと辛かった。


 実家を頼るという選択肢を捨てた私が立てた計画は、クレアを抱いてここから逃げ出し、できるだけ遠い場所で住み込みの仕事を探して平民として生きるということだけだった。

 平民が利用する乗合馬車を使ってせめて都のはずれまででも行けたらよかったが、私にはそれに乗るためのお金もなかった。


 それにしても、次期侯爵はいったいどうやって姿を眩ましたのだろう。どこで何をして生活できているのだろう。

 今まではほとんど興味なかったが、今は切実に教えてほしい。

 次期侯爵にだってたくさんの選択肢などなかったはずだし、あの人に大した根性があるとも思えない。


 ともかく、私はクレアをできるだけ手元から離さぬようにだけ気をつけ、いつもどおりの生活を送りながら機を待った。

 侯爵夫人はあまり屋敷を空けないし、私の傍にはいつもその意を汲むメイドがいた。でも必ず隙はあるはずで、それを逃さないことが肝心だ。




 その時は、意外に早くやって来た。


 その日、屋敷の中が騒がしくて目を覚ますと、外はまだ薄暗い時間だった。

 私はベッドから出て扉を開け、廊下を覗いた。すぐ近くにメイドがいたので何事かと尋ねたが、答えは得られなかった。

 そもそもこの屋敷のほとんどの使用人には、私の質問には答えなくていいと思っている節があったので、期待はしていなかったが。


 騒ぎは階下の玄関ホールのほうから聞こえているようだった。こんな時間に来客だろうか。

 何やら侯爵夫人の声も聞こえてくるが、いつも以上に甲高くて明らかに様子がおかしい。

 侯爵はどうせ不在で、私はお客様の前に出せない嫁なので、侯爵夫人と使用人たちとで何とかしてもらうほかはない。

 そう言えば、ラルフはいないのだろうか。どちらにせよ侯爵夫人はラルフも頼らないか。


 そのうちに、焦れたらしいメイドの足が階段のほうへ向かい、それに気づいた私は頭で考えるより先に体が動いていた。

 寝巻を脱ぎ捨て、この日着るために用意していた服を大急ぎで身につけた。自分で作った鮮やかな青色の綿ドレスだ。まだ夢の中にいるクレアにはお揃いの服を寝巻の上から被せた。

 ふとベッドサイドの引き出しが目に入り、そこから取り出した黒いストールを肩に掛け、リボンを懐に入れて、クレアを抱き上げた。

 扉をわずかに開けて廊下に人がいないことを確認し、階段とは逆方向へと走った。

 正確な場所は教えられていないが、使用人用の階段があるはずだ。


 だが、最初の角を曲がったところで私は足を止めた。そこに、ラルフが立っていたのだ。


「ここから逃げ出すおつもりですか?」


 ラルフの声はいつもより冷たく聞こえたが、私は前に進むしかない。


「お願い、見逃して」


「ご案内します」


 ラルフの言葉に私は目を瞠ったが、ラルフはさっさと踵を返した。私はその背を追った。


 ラルフに導かれ、クレアを抱いた私は狭い階段を駆け下り、裏口から屋敷の外に出て、そのまま裏庭を足早に進んだ。


 ラルフは裏門ではなく、屋敷の横手のほうへと私を案内した。

 そこに生えている茂みを掻き分けると、敷地を囲む塀に穴が空いているのが見えた。向こう側も同じように茂みで隠れているようだ。


「この屋敷でも数人しか知らない抜け道です。出てから左のほうへ進めば都の中心に辿り着きます。乗合馬車の停留所もその付近にあるはずです」


「乗合馬車は……」


 お金がないから使えないと言いかけた私に、ラルフが小さな巾着袋を差し出した。


「急だったのでわずかですが、おふたり分の乗車賃くらいはあると思います」


 受け取ることを躊躇っていると、ラルフは強引に押しつけてきた。


「ありがとう、ラルフ。今までも、色々と」


 震える声でお礼を伝えてから、ふと気になって尋ねた。


「ラルフはずっとここにいるの?」


「他に行く宛もありませんから」


 ラルフならどこに行ってもやっていけそうだが、それを口にするのはやめておいた。


「本当はいつかあなたに甥を紹介できたらと思っていましたが、これでよかったのでしょうね」


 5年近く一緒に仕事をしてきたが、妻子のいないラルフの口から家族親戚の話題が出たのは初めてで、少し驚いた。


「甥がいたのね。ラルフに似ている?」


 ラルフは首を傾げた。


「まあ、数字には強いですね」


「それなら、次期侯爵よりは話が合ったかもしれないわね」


「ええ、おそらく」


 どちらからともなく微笑み合ってから、私は告げた。


「さよなら、ラルフ」


「お気をつけて」


 こうして私はローガン侯爵家を後にした。

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