26 緊張を解す方法
月曜日は私とクレアがコーウェン家で暮らしはじめて2度めの満月のはずだった。
しかし、空は朝から一面の雲に覆われていた。
夜になっても月は姿を現さず、庭は闇の中に沈んでしまった。
メイの部屋の窓からそれを確認して小さく嘆息していると、背後から抱きすくめられた。
「今夜は月出ないみたいだね」
「はい、残念ですが」
メイとまた満月の下を散歩することを楽しみにしていたので、がっかりした気持ちが声に滲んでしまった。
「まあ、僕はパティと手を繋いで歩けるなら真っ暗だろうと昼間だろうと喜んで散歩するよ」
メイの右手が私の右手を指を絡めて握った。
先月の散歩の時も手を繋いだけれど、こんな形ではなかった。
「それは私だってそうですが、満月の夜の風情は独特だとメイが私に教えてくれたのではないですか」
「僕たちはこれから何度でも満月の夜を一緒に過ごせるよ」
メイはさらに体を寄せて私の頭に頬擦りした。私を放すつもりはないと言うように。
「そうですね」
前回の満月の夜にメイが「次も誘う」と言ってくれた時、私は当分ローガン家と離縁できずにコーウェン家でお世話になるのだろうと思った。
でも、あの時のメイは次の満月までには私とこういう関係になるつもりだったのだと今ならわかる。
私がメイの傍にいたいという望みをようやく自覚しはじめた隣で、すでに彼は私と生涯をともにすることを考えてくれていたなんて、嬉しいけどこそばゆい。
「じゃあ、今夜の散歩は諦めるということで」
そう言いながらメイが私の手を引き寄せて、指先をパクリと口に含んだ。
さらにそのままペロペロと舐められて、私は小さく悲鳴をあげた。
「いつもより手が冷たいね。窓辺にいたから湯冷めした? それとも緊張してるの?」
ああ、やはりメイには気づかれていたのだ。
「緊張、だと思います」
「だから散歩して気持ちを解したかった? 大丈夫だよ。ぐっすり眠れるよう、僕がしっかりパティを温めて解すから」
今度は耳朶をパクリとされて、また声が漏れた。
予想どおり、あの日からクレアと私は毎晩、メイと同じベッドを使っている。
就寝前の過ごし方は概ね最初の夜と同じだけど、クレアに絵本を読むのがメイの日もあるし、クレアが寝た後で昔話をするのが私の日もあった。
花びらのドレスは先週末に出来上がって、メイはクレアのドレスのデザインを考えはじめた。
だけど、今夜はクレアがいなかった。またソフィアの部屋に行ったのだ。
だから、こういう流れになるだろうと予想して、密かに胸を高鳴らせていた。いや、きっとメイはそれもお見通しだ。
メイに普段とは少しだけ違う声で名を呼ばれて、私は顔を彼のほうに振り向けた。
色気を纏ったメイの笑みを確認できたのはほんの一瞬だった。
雲の上にいる満月のことも、緊張の原因である翌日の予定のことも、すぐに私の頭から抜け落ちていった。
「おかあさま、おとうさま、おはよ」
部屋の中に響いたクレアの声で目を覚ました私は、飛び起きかけて慌てて布団に包まった。
けれど、メイは私の体を放してゆったりと起き上がった。
「おはよう、クレア。今日はずいぶん早起きだね」
ベッドに駆け寄ってきたクレアを抱き上げた彼は、寝巻を身につけていた。
「おかあさまはまだねてるの?」
「いや、起きてるよ」
私は自分もきちんと寝巻を纏っていることに気づいてホッとし、心の中でメイに感謝しながら身を起こした。
「おはよう、クレア。こちらに来ること、ちゃんと誰かに言ってきたの?」
「うん。ソフィアももうおきてるよ。きょうはいいことがあるから、はやくめがさめたんだって」
途端に私は忘れていた緊張を思い出してしまった。
今日はコーウェン家の皆様にとって待ちに待った日。
その中で、おそらく私だけが複雑な気持ちを抱いていた。
「ソフィアは何があるって言ってた?」
「おじいさまとおばあさまにあえるの」
「そう、ソフィアたちのお祖父様とお祖母様、メイにとってはお父様とお母様が帰ってくるんだよ」
メイも嬉しそうだった。
「メイのおとうさまとおかあさま? セドリックとクレアふじん?」
「そのとおり」
ついにメイのご両親が帰っていらっしゃるのだ。
私はクレア夫人にまたお会いできる喜びを感じながらも、もしメイとの結婚が認められなかったらという不安に襲われていた。
前公爵夫妻がお屋敷に到着するのは夕方近くの予定なので、メイと私はいつもどおりクレアを連れてアンダーソンドレス工房に向かった。
だけど、私はやはりいつものようには作業に集中できなかった。
工房の皆も何となく事情を知っているので、温かい目で見てくれていた。
お昼で仕事をあがらせてもらい、3人で工房を出た。
馬車の御者台で私がますます緊張感を高める横で、メイとクレアは楽しそうに話していた。
「クレアふじんとセドリック、おうちにいるの?」
「まだ帰ってないと思うけど、もうすぐだよ」
「クレア、かわいい?」
「うん、きっとふたりも可愛がってくれるよ。会ったら元気に挨拶してね。『初めまして』って」
「クレアふじんとセドリック、はじめまして?」
「そう」
私はハッとしてふたりの会話に割り込んだ。
「クレア、おふたりをそんな風にお呼びしたら駄目よ。『前公爵』と『前公爵夫人』ね」
「ぜんこしゃ?」
クレアが首を傾げ、メイはやや呆れたような表情を浮かべた。
「そんな硬い呼び方必要ないよ。名前呼びでもきっと大丈夫。だけど、やっぱりソフィアみたいに『お祖父様』と『お祖母様』にしようか」
「クレアふじんとセドリックもクレアのおじいさまとおばあさまなの?」
「そうだよ。セドリックお祖父様とクレアお祖母様」
「最初からそれでは……」
「パティも『お父様』と『お母様』でいいからね」
メイにきっぱりと言われて、私は不安を感じつつ頷いた。
お屋敷に戻ると、やはり宮廷のお仕事を半日お休みされたノア様もすでに帰宅されていた。
昼食をいただいてからしばらくすると、帰国される方々をお迎えするためにマクニール侯爵とふたりのご子息、ウォルフォード前侯爵夫妻、バートン前伯爵夫妻らも続々とコーウェン邸に集まっていらっしゃった。
皆様が応接間でお茶を飲みながら和やかな雰囲気で会話を交わす中、私ひとりが固まって誰かに話しかけられてもまともな返事をできずにいた。
「パティ、少し散歩でもしようか。昨夜はできなかったし」
メイの言葉にぎこちなく頷くと、彼が先に立ち上がって私の手を取り、立たせてくれた。
「クレアは皆とここにいる?」
メイは少し離れた場所にいたクレアに尋ねた。
「うん、いる」
クレアを見ると、何度もお会いするうちにすっかり仲良くなったらしいバートン前伯爵夫妻と戯れあっているようだった。
私はそちらに頭を下げてから、メイとふたりでお庭に出た。
外は昨日とは打って変わって快晴だった。きっと馬車は順調に駆けていることだろう。
メイと並んでのんびり歩きながら、どうにか落ち着こうと深呼吸を繰り返していると、お庭の真ん中でふいに彼が足を止めた。
私も立ち止まってメイを見上げると、唇が重ねられた。
思考が鈍くなっていたせいで反応が遅れたものの、口づけが深くなる前にどうにか離れた。
「外ではしないと……」
「大丈夫。誰もいないよ」
「どこに目があるか、わからないではないですか」
そのあたりの茂みの中で庭師が休憩しているかもしれないし、どこかの部屋でメイドが窓拭きをしているかもしれないのに。
「でも、少しは緊張が解れたでしょ?」
「……少しは」
私が渋々認めるとメイは目を細めて笑い、私を柔らかく抱き寄せた。
誰かに見られていないかは気になるが、メイの腕の中がこの上なく安心できるのも確かだった。
「僕もパティのご両親に会う時は緊張したな」
「緊張していたんですか?」
「それはするよ。少しでも良く思われたいもん」
「私の家族は皆、すっかりメイを好きになったと思いますよ」
「本当にそうなら嬉しい」
メイは少しだけ体を離すと神妙な表情で私を見下ろした。
「僕、パティに敢えて言わなかったことがあるんだけど」
「どんなことですか?」
「『万が一、両親に反対されても、僕はパティと結婚する。何を捨てることになっても』」
メイの言葉で、私の心臓がドクリと嫌な音を立てた。
私とクレアに幸せな日常をくれたメイが私のせいで家族を捨てることになったら、誰よりも私が耐えられない。
「私のためにご両親と仲違いするなんて絶対に駄目です。その時は私が……」
その先を言うことはできなかった。メイの大きな手が私の口を塞いでいた。
「違うよ、さっきのは本気で言ったわけじゃない。というか、そういうことは言ってあげられないって言いたかったんだ。だって、どんなに想像してみても僕には父上と母上にパティとの結婚を反対される場面が見えないから」
私が冷静になったのがわかったのか、メイの手が頬に移った。
「父上はきっと僕の選んだ人を受け入れてくれる。母上は、僕はともかくノアとセアラのことを信頼してるから、ふたりが許したものを覆したりしない。だからパティは、そうだな……、ずっと尊敬してきた人のことを信じていて」
子どもの頃から憧れていて、メイをこんな風に育ててくれた方を信じる。
それは私にとって容易いことに思えて、自然と頷いていた。
メイに求婚された時のように、目を閉じてこれから訪れる幸福な日常を想像してみた。
そこにはきっと、前公爵夫妻もいらっしゃる。
ふいに唇にまた柔らかいものが触れるのを感じて、慌てて目を開けた。
「メイ」
咎めるように名前を呼んでも、彼はどこ吹く風だった。
「今のはパティが悪いよ。僕の腕の中で目を閉じるなんて油断しすぎでしょ」




