挿話12 シェリル②
翌日、朝食を終えて仕事に向かうジェフ様は、私に好きに過ごせばいいと言った。
だけど私は何も思いつかず、実家でしていたように掃除をしようとメイドに道具のある場所を訊くと、それは自分たちの仕事だからと断られた。
仕方なくカレン様に私にできることはないか尋ねると、本でも読んだらとお勧めのものを貸してくれたけれど、もちろん私に読めるはずもなかった。
結局その日をただぼんやり過ごしてしまった私は、帰宅したジェフ様にお仕事の手伝いをさせてもらえないかと頼んでみた。
でも、私が読み書きできないと聞いたジェフ様は別のことを言った。
「それなら、シェリルさんはとりあえず学んだほうがいいね」
「学ぶ?」
「まずは文字を覚えて、本を読めるようになろう」
「私にできるでしょうか?」
「名前の綴りを昨日覚えたと言ったけど、まだ書けるかい?」
ジェフ様が紙とペンを私の前に置いた。
私は昨日何度も書いた文字をどうにか思い出して、紙の上でペンを動かした。
「ほら、あなたはもうこれだけ書けるんだ。きっとできるよ。ああ、でも、今度サインすることがあったら『エメット』ではなく『ガードナー』と書かないといけないね。綴りはこうだ」
ジェフ様は私が書いた「シェリル・エメット」の下に「シェリル・ガードナー」と書いてみせてくれた。
私はまたペンを受け取ると、それを真似て繰り返し書いた。
それから毎晩ジェフ様は私に読み書きを教えてくれた。
そして昼間、私はジェフ様から習ったことをおさらいして過ごした。
ジェフ様がしょっちゅう褒めてくれることもあって、私はどんどん学ぶことに夢中になっていった。
お屋敷にジェフ様がいない時や忙しい時には、別の家族が代わりに教えてくれることもあった。
他に手の空いている人がいなくてキース様に教わることになった時には緊張したけれど、意外にもキース様は丁寧に教えてくれた。
時にはカレン様やキース様の奥様のドリー様が外に連れて行ってくれることもあって、それも楽しい時間だった。
以前と比べて夢のような生活に、私は浮かれていたのかもしれない。
ガードナー商会の建物の近くをやたらと彷徨いている人がいるとは聞いていたけど、それほど気には留めていなかった。
だから、その日もカレンさんが用意したおやつを持って、ひとり徒歩で商会へと向かった。
もう何度かそうしていたので、道に迷うこともなかった。
ところが、商会の大きな建物の前まで来た時、突然腕を掴まれた。
驚いて振り向けば、ブラッドリー様がそこにいた。
「シェリル、迎えに来たよ。無理矢理あんな爺と結婚させられて可哀想に。でも、もう大丈夫だ」
「は、放してください。私、可哀想なんかじゃないです。今、楽しくて……」
「そんな嘘は吐かなくていいんだ。さあ、行こう」
強引に私を引っ張っていこうとするブラッドリー様に、必死に抵抗した。
「いや、放して」
その時、商会の扉が開いてビリーさんが出てきた。
「何してるんだ」
「シェリルは私のだ」
「違う」
私はブラッドリー様の手を振り払おうとしたが、できなかった。
でも、そこにキースさんも来てくれた。
自分より体格の良いふたりにブラッドリー様は怯んだのか、私の腕を放して駆け去っていった。
「シェリル、あの男は知り合いなのか?」
キースさんの問いに、私は頷くしかなかった。
「どういう関係なんだ?」
「話は父さんも一緒に聞いたほうがいいだろう」
ビリーさんの言葉にキースさんも同意して、私たちはジェフさんの部屋に向かった。
ビリーさんから事情を聞いたジェフさんは、いつもと同じ穏やかな声で言った。
「シェリル、その男のことを話してくれるかな?」
私はブラッドリー様のことを、子どもの頃から彼と過ごしてきた日々のことを、3人にすべて話した。
「それなら、シェリルはもう気持ちは残ってないんだね?」
「はい」
「でも、あの男はきっとまた来ますよ」
「そうだろうな。とにかく、シェリルはこれから絶対にひとりでは出掛けないこと。女子どもだけもやめたほうがいいな。それから、必ず馬車を使いなさい」
「私を追い出したりしないんですか?」
こんな面倒をかけてしまうのに。
「追い出すわけないだろう。君はもう私たちの家族なんだから」
「ありがとうございます」
私は初めて嬉しくて泣いた。
それからもブラッドリー様はたびたびガードナー商会の周辺に現れたようだった。
私はお屋敷からなるべく出ずにいようと思ったけど、ガードナー家の人たちはたくさん外に出て楽しくしている姿をブラッドリー様に見せてやればいいと言われた。
外出すればブラッドリー様の姿を見ることもあったけれど、たいていはジェフさんが、ジェフさんが駄目なら他の誰かが必ず一緒にいてくれるので、ブラッドリー様が近づいてくることはなかった。
そんな中でも勉強は続け、私は本を読めるようになった。
最初はジェフさんのお孫さんたちの絵本からだったが、それでも嬉しかったし皆も褒めてくれた。
ジェフさんは読み書きだけでなく、さらに私に色々なことを教えてくれた。
この国のこと、周辺国のこと、さらに外の世界のこと。私たちが生まれるよりずっと昔のこと。様々な動物や植物のこと。それに、簡単な計算も。
知っていることが増えていくのは喜びだった。
ブラッドリー様が学園に通っていた頃、「勉強なんてくだらない。やるだけ無駄だ」と言っていたけど、あれは学園に行けない私に気を使ってくれていたのだろうか。
やがてジェフさんは私を社交の場にも連れて行ってくれるようになった。
そのために、わざわざアンダーソンドレス工房というところでドレスを作ってくれた。
綺麗なドレスを着て華やかなパーティーに参加できるなんて、まるでお姫様にでもなった気分だった。
パーティーには貴族も平民もたくさん来ていた。
この時ばかりはジェフさんは他の人たちに私を「妻」と紹介した。私はそれがとても嬉しかった。
そう、いつの間にか、私はジェフさんのことばかり考えていた。
ジェフさんといると、私は温かい気持ちになれた。このままずっとジェフさんと一緒にいたかった。
だけど、ジェフさんは相変わらず私を娘としか思っていないこともわかっていて、時おりとても哀しくなった。
ジェフさんと結婚して4年ほどがたった。
ようやくブラッドリー様が姿を見せることが減ってきたようで、少し安心していた。
その一方、私の中でジェフさんへの想いは募ったけれど、彼を困らせるだけだと思うとそれを打ち明けることはできずにいた。
そんなある夜、ジェフさんとパーティーに参加した。
ジェフさんに「妻のシェリル」と紹介されることに、今では虚しさを覚えるようになっていた。
ジェフさんの知り合いに一通り挨拶を終えると、私は彼から離れて飲み物をもらいに行った。
グラスを取ろうと手を伸ばした時、いつかのように腕を掴まれて一気に恐怖に捉われた。
「やっと会えたね、シェリル」
まさか、ブラッドリー様がここに来ていたなんて。社交の場で姿を見たことはなかったから、すっかり油断していた。
「放してください。私は今、とても幸せなんです。お願いだから、もう来ないで」
「幸せ? さっきあんな顔をしていたのに?」
そう言われて、咄嗟に返事ができなかった。
「本当は辛い思いをしているんだろ? 聞いてやるから、向こうで少し話そう」
昔のような優しい声に、私の気持ちは揺れてしまった。
私はブラッドリー様とバルコニーから庭に出たところで彼の手に口を塞がれ、暗いほうへと引き摺っていかれた。
私がブラッドリー様に連れて行かれたのが彼のお母様の実家だと知ったのは、そのお母様と久しぶりにお会いした時だった。
「もう安心していいぞ。しばらくはここに隠れることになるが、すぐに母上があの女を追い出してくれる。そうしたら、今度こそ結婚しよう」
ブラッドリー様がまだ本気でそんなことを言っているらしいのに、私は愕然とした。
お母様が私に向ける目は以前よりも冷たいのに。
お母様はブラッドリー様がパトリシア様のことを悪く言うのを笑いながら聞き、時には同じくらい酷いことを口にした。
パトリシア様に対しては優しい顔をしていると思っていたのに、私の前と変わらなかったようだ。
パトリシア様が辛い思いをしていたのだとわかり、その役割を押しつけてしまったようで申し訳ない気持ちになった。
ブラッドリー様とお母様が子どものことをまったく話題にしないのも気になった。
やはりこの人たちも子どもに関心がないのだと、胸が痛んだ。
「ジェフさんから妻として扱ってもらえないことで寂しくなったこともありますが、それでも私はジェフさんと一緒にいたいんです」
「早く帰らないとあいつに何かされると思っているんだな。もうあいつには会わせないから大丈夫だ」
ブラッドリー様には何を言っても通じる気がしなかった。
だけど、いくらブラッドリー様に抱きしめられ愛を囁かれても、私が想うのはジェフさんだった。
本当にもうガードナー家には帰れないのだろうか。ジェフさんには2度と会えないのだろうか。
いや、こんなことになったのだから、例えブラッドリー様から解放されても合わせる顔がない。
どうしてジェフさんにきちんと気持ちを伝えておかなかったのかと、強く後悔した。
できることなら逃げ出したかったが、常にブラッドリー様が傍にいて、たまに彼が離れる時には別の誰かに見張られていた。
そんな暮らしが続いたある日、やって来たお母様がブラッドリー様に告げた。
「あの女が子どもを連れて逃げたわ」
ブラッドリー様は声をあげて笑った。
「これで父上も折れてくれますね。シェリル、やっと屋敷に帰れるぞ」
私はもう逃げられないのだろうか。そんな絶望感でいっぱいになった。
だけど、ふと気づいた。お母様はあまり嬉しそうではなかった。
お母様はやはり私よりパトリシア様がいいからという理由には見えなかった。
私はせめてパトリシア様が遠くまで逃げられるよう願った。
パトリシア様は子どもを連れていったということは、あの人は子どもに無関心ではないのだ。
それが私にとって救いだった。
しかし、それからも私がブラッドリー様のお屋敷に連れて行かれることはないまま時が過ぎ、その日は突然やって来た。
朝、屋敷の中が騒がしくなったと思うと、メイドがブラッドリー様と私のところにやって来て隠れるよう言った。
ブラッドリー様に手を掴まれて廊下に出ると、玄関のほうから声が聞こえた。
私を奥へと引っ張っていこうとするブラッドリー様に抗って、全力で叫んだ。
「ここにいます。助け……」
ブラッドリー様に口を塞がれて諦めかけた時、剣を携えた男の人たちが駆けてくるのが目に入った。
彼らに囲まれると、さらにその後ろからとても不機嫌そうな顔をした男の人も現れた。
その人の顔を見た途端、ブラッドリー様が息を飲んだ。
「ブラッドリー・ローガン、それからシェリル・ガードナーだな?」
私は必死に頷いた。
「ふたりを保護しろ」
そうして、私は助け出されたのだった。
ブラッドリー様とは別の馬車に乗せられたが、あの不機嫌な顔の人が同じ馬車だった。
王宮に行くと言われて、この人も宮廷で働いているのだろうと思った。それも、先ほどのブラッドリー様の様子からして、かなり偉い人なのかもしれない。
王宮に到着するとまず医官の診察を受けた。
それが終わってから案内された部屋に入って、私は目を見開いた。そこにジェフさんがいた。
「シェリル、無事でよかった」
ジェフさんは泣きそうな顔で笑った。初めて見る表情に、私は堪えきれず涙を溢した。
「ごめんなさい、ジェフさん。ごめんなさい」
「謝るのは私のほうだ。君をひとりにしてはいけなかったのに。怖い思いをさせて悪かった」
ジェフさんは私の傍に来ると、そっと背中を撫でてくれた。
「いいえ、私が悪かったんです。あの時、ジェフさんに妻として見てもらえないのが哀しくて、それで」
「シェリル……?」
ジェフさんの声が戸惑っていた。でも、私はこれが最後の機会かもしれないのだから伝えなければと、さらに続けた。
「好きです。私はジェフさんを父とも伯父とも思えません」
ジェフさんは呆然とした様子で私を見下ろしていた。
「ごめんなさい。ジェフさんが今でも奥様を大切に思っていることはわかっています。だから、同じ気持ちを返してほしいとは言いません。でも、できればジェフさんと夫婦になりたいんです」
しばらくの間の後で、ジェフさんはゆっくりと口を開いた。
「ありがとう、シェリル。そんな風に思ってくれていたとは想像もしていなかったよ。あの時、君の父親のことを考えて夫婦として籍を入れたが、私たちの歳の差を考えれば親子になったほうがいいと判断したんだが、ある意味では無責任だったんだな。すぐには無理かもしれないが、これからは君を妻として見ていきたいと思う」
私はまじまじとジェフさんを見つめた。
「私、これからもジェフさんと一緒にいていいんですか? あのお屋敷に帰っても?」
「当たり前だろう。シェリルは家族なんだ。皆、君の帰りを待っているよ」
私は泣きながらジェフさんに抱きついた。ジェフさんもそっと私を抱きしめてくれた。
私が落ち着いてから、ジェフさんと一緒に何人かの人から様々な話を聞かれたり、聞かされたりした。
途中、あの不機嫌な顔の人ーーコーウェン公爵というらしいーーもやって来た。ジェフさんはすでに会ったことがあるようだった。
ジェフさんから最後にブラッドリー様に会うかと尋ねられたけれど、私は迷わず会わないと決めた。
ガードナー家では、本当に皆が私を待っていてくれて、私は嬉しくてまた泣いた。
その後のブラッドリー様については、すべてジェフさんから聞いた。
ブラッドリー様の家は侯爵から伯爵になり、ブラッドリー様の弟が継ぐことになった。
ブラッドリー様に兄弟がいたことは初めて知ったけれど、ブラッドリー様とはお母様が違うらしい。
ブラッドリー様はパトリシア様とは離婚し、お母様と一緒にお母様の実家の領地で暮らすことになった。
ブラッドリー様が様々なものを失うことになったのは私のせいだと思うと申し訳ない気持ちになるけれど、ジェフさんは私のせいではないと言ってくれた。
一方、パトリシア様は早くも再婚が決まったのだという。
パトリシア様はお屋敷を出てからアンダーソンドレス工房で働いていて、そこの職人であるメイさんという人と結婚するそうだ。
パトリシア様も平民と結婚するのかと思ったら、何とメイさんはあのコーウェン公爵の弟なのだとか。
「パトリシア様にはお子さんがいるはずなんですが、その子はどうなるんでしょうか?」
「パトリシアさんと一緒にメイの籍に入るようだよ」
「そうですか」
私は思いきってパトリシア様に手紙を書いた。
お子さんのことを書くか迷ったけれど、何を書いてもパトリシア様には余計なことだろうと思い、やめておいた。
ジェフさんがアンダーソンドレス工房に届けてくれた。
読んでもらえなくても仕方ないと思っていたのに、すぐにパトリシア様から返信が来た。
とても綺麗な字で、私を労わる言葉が書かれていた。それに、お互い幸せになろう、とも。
それからしばらくして、私は久しぶりにジェフさんと外出し、大通りを歩いていた。
ふと前から走ってくる小さな荷馬車が目に入った。
御者台で夫婦と幼い女の子が楽しそうに笑いながら何か話していた。
おそらくこの国のどこにでもあるのに、子どもの頃の私には与えられなかった幸せそのものの親子の光景。
その中にいる女性の顔に、私は見覚えがある気がした。
「おや、あれはメイじゃないか」
ジェフさんがそう言った時にはもう馬車とすれ違っていて、急いで振り返っても3人の姿は見えなかった。
だけど、さっきの男性がメイさんだったなら女性はやはりパトリシア様で、ふたりの間にいたのはきっと娘さんだ。
ああ、あの子は普通の幸せの中で育っていくんだ。きっと両親からたくさんの愛情を受けて。
「よかった」
涙声でそう呟いた私にジェフさんは優しく微笑み、「さあ、私たちも行こう」と促した。




