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挿話11 シェリル①

シェリル編も読んで気分の悪くなるような部分があります。

 私の生まれた家は貧しいうえに両親の仲が悪くて、子どもになど関心を向けてくれなかった。

 使用人は最低限しか雇う余裕がないので幼い頃から放っておかれ、ある程度の歳になると掃除や洗濯が私の仕事になった。


 1歳違いの兄は両親への不満を私に向けているのか顔を見れば意地悪をしてくるので、私は毎日仕事を終えると彼を避けて屋敷ーーと呼ぶには小さくて粗末すぎるものだがーーの外に出ることが多かった。


 ある日、たまたま近所で見つけた壁の穴から立派なお屋敷のお庭に迷い込んだ。

 そこで出会ったのがブラッドリー様だった。

 兄より大きな男の子に見つかって怯える私にブラッドリー様は笑いかけ、お菓子をくれた。私が初めて受けた親切だった。

 しばらく一緒に過ごして私が帰る時になると、ブラッドリー様は「また来い」と言ってくれた。


 それから、私はしょっちゅう壁の穴を潜ってブラッドリー様に会いにいった。

 ブラッドリー様はいつも嬉しそうに笑って私を迎えてくれた。


 しばらくすると、ブラッドリー様は「大人になったら結婚しよう」と言ってくれるようになった。

 まだ結婚とは何かよくわかっていなかった私は、優しいブラッドリー様と一緒に立派なお屋敷で暮らせるのだと聞いて「はい」と答えた。




 いつからか私はブラッドリー様に恋心を抱くようになっていた。

 ブラッドリー様からも愛を告げられ、私たちは恋人になった。


 その頃にはブラッドリー様が侯爵家の跡継ぎで、貧乏男爵の娘である私ではまったく釣り合わないことも理解しはじめていた。

 ブラッドリー様は学園に通うようになり、さらに宮廷で働きはじめて会える機会は少なくなったけれど、私はブラッドリー様の言葉を信じて縋りついていた。


 しかし、ブラッドリー様と結婚できるという希望は呆気なく崩れ落ちた。


 ある日、私はブラッドリー様にお母様を紹介された。

 ブラッドリー様のお母様は優しい声で、「あなたのような可愛らしいご令嬢がブラッドリーのところに来てくれるなんて嬉しいわ」と言ってくださった。


 だけど、ブラッドリー様が席を外した途端、お母様の雰囲気はガラリと変わった。


「おまえみたいな小汚い娘がブラッドリーの妻になれるわけないでしょう。そんなことも理解できないなんて、まったく身の程知らずね」


 ブラッドリー様が戻ってくるとお母様の表情はもとに戻ったけれど、お母様の言葉が私の頭の中から離れることはなかった。


 その後もお母様とふたりになるたび、同じようなことを言われた。

 ブラッドリー様と一緒にいてお母様が笑顔だったとしても、私を見つめる視線は冷たく感じられた。


 やがて私の足はブラッドリー様のお屋敷に向かなくなった。

 すると今度はブラッドリー様が私のところにやって来た。


「なぜ来ないんだ。母上も寂しがっているぞ」


 あなたのお母様が怖ろしいのだとはとても言えなかった。


「私ではブラッドリー様に釣り合いません」


「急にそんなことを言うなんて、誰かに何か言われたのか?」


「いいえ、ようやく現実に気づいたんです。私が何もできない人間だと、ブラッドリー様も知っているでしょう?」


 貴族の子は、私くらいの歳になれば学園に通って勉強するのが普通らしい。

 その前に、家で礼儀作法をはじめとする様々なことを身につけているものらしい。

 私はそんなことさえも、ブラッドリー様のお母様に言われるまでまるで知らなかったのだ。


「そんなことは関係ない。何もできなくてもシェリルは私の傍にいるだけでいいんだ」


 ブラッドリー様に何と言われても、私はもう頷けなかった。

 もしもブラッドリー様と結婚できたとしても、きっとあのお母様に兄より酷いことをされる。そんな予感しかなかった。


 ブラッドリー様はそれからも私のもとに来ては甘い言葉を囁いた。

 私が離れようとするほど、逆にブラッドリー様は私に執着していくようだった。

 徐々に私はお母様よりブラッドリー様に対して恐怖を覚えるようになった。




 しばらくして、ブラッドリー様が婚約したと聞いた。

 わざわざブラッドリー様がいないお屋敷に私を呼び出したお母様の口から。


「旦那様の選んだパトリシア嬢はおまえとはまったく違ってよく出来たご令嬢なのよ。頭が良くて、礼儀正しくて。パトリシア嬢ほどブラッドリーに相応しい相手はいないでしょうね」


 ブラッドリー様が他の方と結婚する。

 その事実に哀しいや辛いと感じるよりも、これで終わるという安堵のほうが大きかった。


「わかったら、もうブラッドリーには関わらないで」


 必要なことだけ告げると、お母様は私をお屋敷から追い払った。


 だけど、私の考えは甘かった。


「父上が私の妻はシェリルでは駄目だと言うんだ。でも、あの女に子どもを産ませたら愛人にしても構わないって。だから、少しだけ待っててくれ」


 ブラッドリー様の言葉に私は反射的に首を振っていた。

 私がそんなことを望んでいないと、この人はわからないのだろうか。


「ブラッドリー様、どうか私のことは忘れてパトリシア様とお幸せになってください」


「私はシェリル以外の相手と幸せになんてならない。あんな女、本当は顔も見たくないが、仕方ないんだ。わかってくれ、シェリル」


 強く抱きしめられて、体よりも心が軋んだ。




 再びブラッドリー様のお母様に呼ばれてお屋敷に行った。

 門を潜ろうとしたところで屋敷からひとりの令嬢が出てくるのが見えて、私は急いで近くの木の陰に隠れた。

 あの人がパトリシア様なのだろう。きっとお母様は私にパトリシア様を見せるため、この時間を指定したのだ。

 パトリシア様は私より1つ歳下のはずだけど、見るからにきちんとした感じで、確かに私とは大違いだった。

 玄関からはお母様が笑顔で見送っていた。


 パトリシア様が馬車に乗って去ると、私はお母様の前へ歩いていった。

 笑顔を私を馬鹿にするようなものに変えたお母様は、封書を押しつけてきた。

 それを開いて中に入っていたカードを取り出してみても、私には何が書いてあるのか理解できず困惑した。


「読み書きもできないなんて、まったく平民以下ね。ブラッドリーの結婚式の招待状よ。もちろん、出席してくれるわよね?」


 私に断ることができるはずがなく、お母様に言われた日、ブラッドリー様たちの結婚式が行われる教会に向かった。


 幸いだったのは、その教会が私が歩いて行ける距離にあったこと。我が家に私が使える馬車はないのだ。

 持っていた中で1番良いドレスを着て行ったけれど、煌びやかな参列者の中で私は浮いていただろう。


 参列者はあまり多くなかったので、ブラッドリー様はすぐに私に気づいた。

 花嫁に向けるべき熱の籠もった視線を向けられて、やはり来るべきでなかったと思った。

 ブラッドリー様は隣に並んだパトリシア様にはまったく視線を送らなかった。

 パトリシア様が花嫁らしい希望に溢れた表情を見せることも最後までなかった。




 結婚してからもブラッドリー様は何も変わらなかった。


 私が「もう来ないでほしい」と伝えると、ブラッドリー様はパトリシア様が私に何か言ったのだろうと決めつけた。

 ブラッドリー様がお屋敷に帰ってからパトリシア様に何かするのではないかと怖ろしくて、私は必死で否定した。


 やがて、パトリシア様が妊娠したと聞いた。


「これでもうあの女には触れずに済む」


 心底ホッとした様子のブラッドリー様に、「パトリシア様の傍にいてあげて」なんて気安く言うことはできなかった。


「それにしても、たった数回で身籠るとは早すぎる。私の子ではないんだ。屋敷の外には出ていないはずだから、本当の父親はラルフあたりか。平民に抱かれるなど卑しい女だ。どちらにせよ、あの女の子に私の跡を継がせるつもりはないが」


 ブラッドリー様の言葉に、私は暗い気持ちになった。

 生まれてくる子にブラッドリー様が関心を向けることはきっとないのだ。




 ある日、珍しく父に呼ばれてその部屋に行くと、私の前に1枚の紙とペンが置かれた。

 そこに書かれた文字の並びには見覚えがあるような気がした。


「おまえの名前だ。見なくても書けるようにしろ。今すぐだ」


 私は慌ててペンを手にし、その文字を紙に繰り返し書いた。

 どうにか手本を見なくても書けるようになると、父が再び言った。


「いいだろう。絶対に忘れるなよ。では、行くぞ」


 私は指先で空に自分の名前を書きながら、父の後を追った。

 父は馬車に乗り込んだ。私も続いた。先に小さなトランクが積まれていた。

 馬車に乗って父とふたりで出かけるなど記憶にないことだった。


「どこに行くんですか?」


「おまえを結婚させることにした」


「結婚?」


 ブラッドリー様との結婚を諦めてから、結婚はできないだろうと思っていた。こんな私を望んでくれる人なんているはずがない、と。

 子どもに無関心の父が、兄はともかく私の結婚相手を探すとは想像もしていなかったのだ。


「おまえはローガン家の嫡男と良い仲だったようだが、向こうももう結婚したんだろう。あの侯爵様が相手では期待できないから、下手におまえを望まれなくてよかった」


 父が何を言っているのか、理解できなかった。

 私が結婚する人に、父は何を期待しているのだろうか。

 だけど、私の結婚はただ父の都合によってのみ決められたものらしいとわかって納得した。


 やがて、馬車は街中の大きな建物の前で停まった。

 街に出たこともほとんどなかったので物珍しさにキョロキョロしていると、父にトランクを押しつけられて「さっさと歩け」と怒鳴られ、腕を掴んで建物の中へと引っ張っていかれた。


 そこの応接間らしい部屋で私たちを迎えたのは、父より歳上に見える男性だった。

 私の結婚相手のお父様だろうかと思った時、父が言った。


「この男がおまえの夫だ」


「ジェフ・ガードナーです。よろしく、シェリルさん」


「よろしくお願いします」


 私は戸惑っていたけれど、ジェフ様も同じように見えた。

 その場で婚姻届だという書類に覚えたての自分の名前を書いた。


「せいぜい可愛がってもらえ」


 父はそう言うと書類を手にし、大きな袋をジェフ様から受け取って帰っていった。


「すまないが、ここで少し待っていてくれるかな」


「はい」


 ジェフ様が部屋を出て行ってからトランクの中を確かめると、いつの間に用意されていたのか私の最低限の着替えや身の回りの品が入っていた。

 それを見てようやく、私はもう実家には帰れないのだと理解した。

 最後だとわかっていれば母や兄に挨拶したり、部屋を片付けたりしたのにとは思ったけれど、だからといって、そうできなかったことを残念だとは思わなかった。


 不安なのは私が突然いなくなったことでブラッドリー様がどうするのかだ。

 私のことなど忘れて、パトリシア様と生まれてくる子を大切にしてほしいと願った。


 しばらくして部屋の外から男性同士が何やら言い合う声が聞こえた。ひとりはジェフ様のようだった。

 私は気になって立ち上がり、扉を細く開けた。少し先にこちらに背を向けたジェフ様と、その前に立つどことなくジェフ様に似た若い男性の姿が見えた。


「あんな男に言われるまま金まで渡してしまうなんて、何を考えてるんですか」


 あの袋の中身はお金だったのだ。

 父はあちこちから借金をしていたようだから、その返済にでも充てるのだろう。


「あんな男だからこそ、断って家に帰せばあの娘がどんな目に合うかわからないじゃないか」


「だからって、父さんがあの娘の面倒を見る義理はないはずでしょう。きっと母さんも嘆いてますよ」


「いや、リンダならわかってくれるはずだ」


 その時、ジェフ様の息子さんらしい男性と目が合ってしまった。

 声の調子から息子さんが私を良く思っていないことは明らかで、立ち聞きしていたことを何か言われるのではないかと思ったけれど、息子さんは気まずそうな顔して立ち去った。

 こちらを振り返ったジェフ様も私に気づき、申し訳なさそうな顔をした。


「すまなかったね。あれは次男のキースだ。根は悪いやつではないんだが」


「大丈夫です。悪いのは父ですから。ご迷惑をおかけして申し訳ありません」


「いや、これも何かの縁だろう。ただ私は今でも亡くなった妻を大切に思っている。だからシェリルさんは妻として籍に入れても娘として扱うつもりだ。シェリルさんも私を父親か伯父とでも思ってくれればいい」


「父か伯父……」


「ああ。そのうち誰か本当に夫婦になりたい相手ができたらそちらと添えるようにしてあげるから、隠さず言いなさい」


「……はい」


 ジェフ様と建物の裏口を出て馬車に乗った。

 実家のものとは違う立派で乗り心地の良い馬車だった。


 私たちが向かうのは、ジェフ様の自宅だった。

 ジェフ様はそこで長男のビリー様家族と暮らしていて、キース様家族もすぐ近くに住んでいるということだった。

 戸籍上、私には歳上の息子と孫ができたわけだが、まったく実感はなかった。




 ジェフ様の家まではそう遠くなく、徒歩でもよかったのではと思うくらいだった。

 私の実家よりずっと大きくて綺麗なお屋敷だった。


 ジェフ様はまだお仕事があるということで、ビリー様の奥様のカレン様とメイドに私を任せてすぐに戻っていった。

 先ほどの大きな建物はジェフ様が営むガードナー商会の事務所兼倉庫なのだそうで、ふたりの息子さんも一緒に働いていて、カレン様たちが手伝うこともあるらしい。


 ちなみに、ジェフ様は自己紹介で「ジェフ・ガードナー」と名乗ったけれど、「ガードナー」は正確には姓ではなく商会の屋号なのだとか。

 こんな大きなお屋敷に住んでいて使用人も何人もいるようなのに、ジェフ様が貴族ではなく平民だと知って驚いた。


 メイドは私の姿を見て、まず湯浴みをするよう言った。

 実家では体を清めるのに水しか使えなかったので、大きな盥にたっぷりのお湯が用意されてまた驚き、しかも本来なら湯船にもっとたくさんの湯を張るのだが今は緊急なのでと聞いて呆然とした。


 湯浴みを終えると、カレン様が貸してくれたドレスを着た。私には少し大きかったけれど、清潔で良い匂いがした。


 夕方になるとジェフ様やビリー様が帰宅し、キース様家族もやって来て食事になった。

 その品数の多さと美味しさに私はまたも驚くことになった。

 特にパンはこれまで私が食べていたものとあまりに違うので、しばらくパンだと気づかなかったくらいだ。


 キース様はやはり1歩引いたような態度だったけれど、他の人たちは優しかった。


 夜、私のために用意されていた部屋でひとりベッドに入った。

 今まで使っていたものと違ってふかふかで、落ち着かなかった。

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