24 ふたりの夜
寝支度を整えたクレアは迎えに来てくれたソフィアと笑顔で客間を出ていった。
それを見送ってからソファに腰を下ろした私は溜息を吐いた。
「大丈夫だよ。隣の部屋に乳母たちもいるんだし」
隣に座ったメイが私の肩に手を回しながら言った。
「はい。それはわかっているのですが……」
このお屋敷の中でクレアが傷つけられることはない。だから、目を離さぬよう常に手元に置いておく必要もなくなった。
それでも、クレアと初めて別の場所で寝ることはどうにも気持ちが重かった。
「もしかして、パティ自身がひとりで寝ることに不安があるの?」
メイに言われて、ハッとした。
「そうなのかもしれません」
ひとりで夜を過ごすことが怖い。情けないけれど、この重苦しさの正体は多分そういうことなのだ。
「それなら、パティは僕と一緒に寝ようか」
メイがサラリと口にした言葉の意味を取りかねて、彼の顔をまじまじと見つめた。
いつもと変わらぬ笑顔に見つめ返されて、ただ添い寝するだけということかと思いかけた。
が、肩に添えられていた手に力が込められたように感じてよく見れば、その瞳の奥にいつにない熱が籠っていた。
胸の鼓動が一気に早まった。何か返事をしなければと思うのに、口から言葉が出てこない。
ただ魅せられたようにメイの顔を見つめ続けた。
今までは貴公子らしい品を纏っている人だと思っていたけれど、今のメイが纏っているのはおそらく色気というものだろう。
ふいにメイの顔が近づいて唇が重ねられた。体が大袈裟に反応してビクッと跳ねた。
だがメイはすぐに離れるとソファから立ち上がった。
「ごめん。パティを急かすつもりはないんだ。でも、僕はパティとそういうことをしたいと思ってる。だから、パティも同じ気持ちになったらいつでも部屋に来て」
メイが笑顔のまま客間を出ていってからも、私の心音はなかなか静まらなかった。
ソファに座り込んだまま、色々なことがぐるぐる回っている頭の中をどうにか整理する。
私が夜を怖いと思うのは、暗闇の中で声も出せずに耐えるしかなかった苦痛を忘れられないからだ。
あの結果としてクレアが生まれたのだと理解していても、あの人にされたことを肯定することはできない。
それなのに、メイに望まれていることには少しも不快感がなかった。
メイは私に酷いことをしない。メイならきっと、私に違うものを教えてくれる。そんな信頼があるから。
まだ正式な婚約前とはいえ、私は2度目で子どももいる。
だからこそ、ここで彼を拒んだら、万が一メイと結婚できなくなった場合に後悔するに違いない。
そして何よりも、私はローガン家から帰った時と同じことを考えていた。
メイともっと一緒にいたい。触れ合いたい。
心を決めて立ち上がったものの、今度は別のことで悩んだ。
何を準備をしたらいいのだろうか。
すでに湯浴みはクレアとともに済ませている。もう1度、と思わないでもないが、それをネリーに頼むのは気が引けるので諦めた。
では、メイの部屋にはどんな格好で行くべきか。
メイの部屋に行ってそういうことをするとしても、その後は朝まで彼のベッドで眠ることになるのだろうから、やはり寝巻だろうか。
でも、廊下で誰かに見られる可能性を考えれば今着ている普段着のドレスがいいだろうか。
あるいは、普段着のまま寝巻を持っていってあちらで着替えるか。
しばらく迷ってから寝巻に着替え、メイにもらった黒いストールを羽織って客間をそっと抜け出した。
しかし、そこでいきなりネリーに出会してしまい、飛び上がりそうになった。
「クレアお嬢様はお休みになられたそうです」
「そうなの。よかったわ」
考えてみれば、クレアに何かあった時のことを考えると、ネリーにはきちんと告げておくべきだった。
「あの、私は、メイの部屋に行く、から……」
恥ずかしくて俯きがちになり声も尻すぼみだったが、ネリーは気づかぬふりでただ「承知いたしました」と言ってくれた。
メイの部屋の前で何度か躊躇ってから、扉をノックした。でも、返答がない。
不在、あるいは湯浴み中だろうか。
もう1度ノックしても反応がなかったら出直そう。
ここに来るまでにすれ違った何人かの使用人とまた会わないといいのだけれど。
そう思って右手を上げた時、扉が開いてメイが顔を出した。
メイは私の姿を認めると蕩けるような笑みを浮かべ、私の腰を強く抱き寄せて部屋の中へと引き入れた。
背後で扉の閉まる音が聞こえるのとほぼ同時に、口を塞がれる。
その口づけは今までの優しいものとは違った。
逃がさないというように頭の後ろに手が置かれ、唇を重ねるだけでなく甘噛みしたり舐めたりされた。味見をされている気分だ。
たちまち息が乱れて口を軽く開けると、今度はヌルリとしたものが入り込んできて我が物顔で口内を動き回った。
これも口づけなのだろうか。
よくわからないけれど、メイにされることを嫌だとは微塵も思わなかった。
やがてメイの舌が私の舌に触れて擦り合わされた。今までにない感覚に頭がクラクラして足の力が抜けそうになり、メイの首にしがみつく。
それに気づいたのか、メイの唇がゆっくりと離れていった。ふたりの間で唾液が糸を引き、切れた。
ふいに、私の体が宙に浮いた。メイに抱き上げられたのだ。2度め、いや、3度めか。
私を見下ろすメイの顔には、もはや隠すつもりもないらしい情欲がありありと見て取れた。
「一応訊くけど、僕の隣で眠るためだけに来た?」
「違います」
私が蚊の鳴くような声で否定すると、メイは嬉しそうに顔を綻ばせた。
「よかった。もしそうだと言われたら何もしないつもりだったけど、あまり自信がなくて」
メイは私をそっとベッドの上に下ろすと、覆い被さるようにして口づけを再開した。
この夜、メイが時間をかけて丁寧に私に教えてくれたことは、私が知っていたものとはまったく異なっていた。
初めこそ戸惑いや羞恥を感じ、たびたび衝撃も受けたが、そのうちにメイから与えられるものを受け取ることで精一杯になり、彼のこと以外は頭から抜け落ちていった。
そうしてメイに溶かされ揺さぶられ満たされて、私はその幸せな余韻の中で眠りに落ちる、はずが、彼がそれを許してくれなかった。
でも最後には、私の頭を優しく撫でながら「お休み、パティ」と囁くメイの声を聞いた気がした。
気がつけば、夜が明けていた。
ぼんやりする頭で無意識に伸ばした手に触れたのが小さなクレアの体とは似ても似つかぬもので、驚きのあまりはっきりと目が覚めた。
目の前に、男性の喉元があった。
すぐに昨夜のことを思い出して様々な感情に襲われたが、もっとも大きかったのは今もまだメイの腕の中にいるのだという安堵だった。
ゆっくり視線を移していくと、メイと目が合った。
咄嗟に目を逸らしてしまうと小さく笑う声がして、頭に口づけが落とされた。
「おはよう、パティ」
「おはようございます」
どうにも恥ずかしくて、メイの肩に埋めるようにして顔を隠した。
「顔、見たいんだけど」
「でも、寝起きなので……」
「それはお互いさまでしょ。ね、パティ?」
促すようにメイの手が私の頬にかかった髪を除け、指が耳朶をくすぐった。
仕方なくそろそろと顔を上げると、メイの深い笑みに迎えられる。
「可愛い」
メイがきっと赤く染まっている私の頬を撫でながら呟いた。
昨夜、メイはこの上なく愛おしそうに繰り返し私の名を呼んだ。その2回に1回くらいは「可愛い」が付いた。
もう朝になったのに、メイの仕草や表情や声が夜と変わらぬ色気を纏っているように思えてドキドキした。
気のせいだと思う間もなく唇が重なり、舌を絡めとられた。
昨夜、散々メイに教え込まれた感覚から逃れることはできず、流されていく。
だが、ふいに扉の外から私を呼ぶ微かな声が届いた。メイにも聞こえたらしく、唇がわずかに離れた。
「おかあさま、どこ?」
先ほどよりはっきり聞こえたその声は、今にも泣き出しそうだった。
私は慌てて身を起こそうとしたが、メイにやんわりと肩を押さえて止められた。
「僕が行くから、パティはもう少しゆっくりして。ネリーにこっちに来るよう言っておくね」
もう1度短く口づけると、メイはスルリとベッドを下りた。
現れた広い背中に見惚れかけて慌てて目を逸らし、布団に包まった。
メイが手早く身支度を整え部屋を出ていく音がして、すぐにメイがクレアを呼ぶ声、続いてふたりの話し声も聞こえた。
私はホッとしながら起き上がった。ネリーが来る前に、私も服を着ないと。
ベッドのすぐ傍に置かれた椅子の上に私の寝巻があった。私が寝ているうちにメイがそうしておいてくれたのだろうか。
客間であんなに悩んだのに、結局これならどちらでも同じだったなと自嘲した。
そもそも、私はここに来る時のことばかり考えて、客間に戻る時のことは頭から抜け落ちていた。
夜より朝のほうが、誰かに会う確率は高いだろうに。
寝巻を身につけてから時間を確認すると、起床するには少し早かった。
こんな時間から騒がしくしてしまって申し訳なさを覚えた。
それに、これで私がメイの部屋で一晩過ごしたことがお屋敷中に知れ渡るだろうと思うと居た堪れなかった。
ネリーはいつもと同じ時間に、着替えや身支度に必要なものを手にして来てくれた。
「色々と手間をかけさせてごめんなさい」
「お気になさる必要はありません。早くお部屋が整うとよろしいですね」
そう言ってネリーは部屋の一角にある扉をチラリと見た。その向こうに、もうすぐ私の部屋ができるのだ。




