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23 最初のドレス

 ローガン邸からの帰り道、メイは無口だった。

 ローガン家にいる間はずっと笑顔だったけれど、私には貼り付けたものに見えた。馬車に乗ってからはそれさえも消えた。

 不機嫌なのだろうか。理由はわからなくもないけれど。


 ただ、馬車に乗り込む時にはいつものように手を貸してくれ、そこから私の右手はメイに取られたままだった。

 自分の左手の中にある私の手をジッと見つめながら右手で緩々と撫でたり、軽く揉んだりしている姿は、まるでひとり遊びに興じるクレアみたいだ。

 でも、メイにそんな風に触れられるのはどうにもくすぐったくてソワソワした気持ちになる。


「メイ」


 意を決して呼びかけると、メイはゆっくりと視線をこちらに向けた。


「やはり行ってよかったです。一緒に来てくれてありがとうございました」


「心が揺れた?」


「は?」


「もしあそこに留まっていたら、初恋の相手と結婚してあの家のすべてを手に入れられたかもしれないのに、惜しいことをしたなって思わなかった?」


「そんなこと思いません」


「本当に? 伯爵もパティのこと好きだったみたいだし、少しくらい思ったんじゃない?」


 メイの声も表情も、拗ねているように感じられた。


「ローガン家と離縁できたことには今でも安堵しかありません。それに、ローガン伯爵は気になるクラスメイトではありましたが、初恋とも呼べないほどの淡い想いでしたから」


 私がそう言っても、メイは納得していない様子だった。


「それなら、メイはどうなのですか?」


「僕?」


 何を訊かれているのかわからない顔のメイに対し、私は思いきって続けた。


「初恋のセアラ様はともかくとして、先日、ハミルトン嬢が仰っていた方はメイの特別な方だったのでしょう? それに、カフェの店員の方とお付き合いされていたとも聞きましたが」


 メイがふいを突かれた顔になり、「そっちも知ってたんだ」と呟いた。


「その方たちにお会いしたら、メイの心は揺れますか?」


「揺れないよ」


 メイは間髪入れずに断言して、私の右手を両手で握りしめた。


「確かにそのふたりとは付き合っていたけど、僕にとってとっくに過去のことだ。ふたりともそれぞれ別の相手と結婚して幸せにやってるみたいだし、僕はそれを素直に喜べる。でも、パティは違う。パティは何があっても手放したら駄目だってわかるから。僕を信じて」


 必死に言い募るメイに、私は笑顔で返した。


「はい、信じています。メイの気持ちを疑ったりしません」


 メイは目を瞬いた。


「メイはずっと私にもクレアにも優しくて、私がいいと求婚までしてくれました。今はメイに大切にされて、自分はメイの特別なのだと実感する日々です。私、自惚れていますか?」


 メイは首を左右に振った。


「もしも私の結婚相手が最初からローガン伯爵だったなら、理想的な関係を築いて穏やかな生活を送り、それを幸せだと感じて満足していたかもしれません。ですが、今の私には無理です。メイに出会って、この場所の居心地の良さとあなたの手の温かさを知ってしまいましたから」


 そう言って、メイに寄りかかった。自分から行くのは初めてで、ドキドキする。


「私だって、もうここから離れることはできません。どうか信じてください」


 メイが私の体を抱きすくめた。


「違う。パティを疑ってるわけじゃないんだ。パティのことになると余裕がなくなってしまって」


「メイはいつも余裕たっぷりに見えますけど」


「パティに格好悪いところ見られたくないから。……って、今の僕、ものすごく格好悪いよね」


「いいえ。嬉しくて、ますます自惚れてしまいそうです」


「いいよ、自惚れて。僕の心を乱せるのはパティだけだ」


「私も、メイだけです」


 メイに少しでも気持ちが伝わるよう、私も彼の背に両手を回すと、メイの腕にさらに力が込められた。


 しばらくはこのままで、と思う間もなく御者台との間の窓が叩かれて、自分たちが馬車の中にいることと、ローガン邸とコーウェン邸の物理的な近さを思い出した。

 窓の外に視線を向ければ、馬車はすでにコーウェン家の門を潜っていた。

 慌てて姿勢を正してからまたメイを見上げると、彼も私を見つめていた。気恥ずかしさを感じながら微笑み合う。


 お屋敷の前で馬車を降りてからも、メイに手を繋がれたまま玄関を入った。

 当然、私たちを迎えてくれた使用人たちはそれに気づいていながらまったく気にする様子もなく、クレアはノア様ご一家と一緒に庭にいると教えてくれた。


 客間で着替えたらクレアのところに行こうと考えたけれど、何となくメイと離れがたくて彼の手を放すことを惜しいと思い、次にはそんな自分が可笑しくなった。

 メイと同じお屋敷に帰ってきたのだから、着替えてからまた彼のもとに行けばいいだけのことだ。私がもっと一緒にいたいと言えば、メイはきっと笑って頷いてくれるはず。


 でも、私が「また後で」と声をかけて手の力を緩めようとすると、メイは逆に私の手をギュッと握った。


「一緒に来て」


 メイはそれだけ言うと、私の返事も聞かずに階段を上りはじめた。

 私の心を読んだかのような強引さに驚くよりも喜びを覚えながら、彼の後に続いた。




 私の実家でメイが話していたように、彼の部屋の隣に私の、さらに隣にクレアの部屋をいただけることになった。

 まだメイのご両親にお会いしてもいないのに、私たちの結婚に向けて様々なことが進みはじめている状況には戸惑いもある。

 でも、現在の女主人であるセアラ様が言い出され、当主のノア様も同意なさったことに異論を挟む人はこのお屋敷にはいなかった。


 その2部屋を改装がはじまる前に下見に来た時、メイに「せっかくだから」と言われて初めて彼の部屋に足を踏み入れた。

 その後も何度か訪れてメイとふたりで、あるいはクレアも一緒に3人で過ごした。


 だから、メイに連れられて彼の部屋に入ることにもう躊躇いはなかった。

 自分と同年代の男性の部屋を見たことはなかったけれど、おそらくメイの部屋は高位貴族の子弟の私室としてはごく一般的なものだろう。

 机の上に裁縫道具が並んでいたり、その隣に積まれた本が幼い子ども向けの絵本だったり、壁に拙い絵が飾られていたりすることを除けば。


 メイは部屋に入るとその中ほどで私を振り返った。


「ここでちょっと待ってて」


 言われるまま、私はその場で足を止めた。

 私の手を放したメイはウォークインクローゼットのほうへ歩いていき、扉を開きかけてまた私を振り返った。


「目を閉じていて」


 今度も素直に従った私の耳に、扉の開く音が届いた。

 メイはクローゼットの中に入ってすぐに戻ってきたらしく、再び扉が閉まり、私の前に何かを置くような気配があった。


「いいよ」


 隣から聞こえたメイの声で目を開き、息を飲んだ。

 そこにあったのはトルソーだった。もちろん、ドレスを着ている。

 肩から胸にかけてのシンプルな形と黒には既視感があるものの、確信を持てずに尋ねた。


「これ、私たちが再会した時に工房にあったものですか?」


「うん。あの時は内心焦って、隣のドレスのほうにパティの意識を向けたんだけど。1度会っただけで名前も知らないのにドレスを作っていたなんて、さすがに言えなくて」


 私が初めてアンダーソンドレス工房を訪れた時、このドレスは何の装飾もない黒一色のものだった。

 でも、今目の前にあるドレスは胸から下はまったく雰囲気が変わっていた。例えるなら、今まさに咲き誇ろうとしている大輪の花。

 黒の上に花びらのような赤が何十と重ねられている。その布地は1枚1枚微妙に色味や形が異なっているようだ。

 もともと細身のドレスだったし、重ねた布もかなり薄いので、見た目は軽やかだった。


「初めて会った時にパティが着ていた、ええと、悪の女王ドレス?」


 少し戯けてそう言ったメイに、私もクスリと笑った。


「はい、毒花のドレスですね」


「全然パティに似合ってなかった。あれからずっと、僕なら絶対に似合うドレスを作れるのにって思って、我慢できずにこれを作りはじめた。だから、本当はこれがパティのための最初のドレスなんだ」


 そう言えば、メイは夜会の時に「これを直すより新しいドレスを作るほうが簡単だ」と言っていた。

 本当に彼がその手で作るなんて、あの時は想像もしていなかった。


「作っても着てもらえないと思ってたのに、仮縫いの段階で再会できて。でも、実はまだ完成してないんだよね。途中でそっちを作りはじめたのもあるし、着てもらえると思ったら色々凝っちゃって。求婚する時に薔薇の花束の代わりに渡すのが理想だったんだけど。……ああ、もう、泣かないでってば」


「だって、こんな素敵なドレス、私のために」


 メイは優しく微笑むとその両腕で私を包み込み、濡れた目尻に口づけた。


「前に、うちの工房で作ったドレスを着たからって幸せになる保証はないって言ったけど、パティのために作るドレスは保証するよ。このドレスを着る人は僕が絶対幸せにする」


 その言葉でますます涙を溢れさせた私を、メイは抱き寄せて頭を撫でてくれた。




 客間に戻って着替えてから再びメイと合流し、お庭に出た。

 ノア様方は四阿でお茶を楽しまれていた。

 メイと私に気がついたクレアはそこから飛び出してきて、私に抱きついた。


「おかあさま、おかえりなさい」


「ただいま、クレア。良い子にしていた?」


「うん」


 いつもなら次はメイに飛びつくのに、クレアは私にしがみついたままメイのほうをチラチラと見上げた。

 メイが首を傾げながら腰を屈めた。


「クレア、どうした?」


 クレアは四阿のほうを見た。その中から皆様も意味ありげに笑ってこちらを見ていた。


 クレアはようやく私から離れて、おずおずとメイの脚に抱きついた。


「おかえりなさい、おとうさま」


 メイは何度か瞬きしてから満面の笑顔になってクレアを抱き上げた。


「ただいま、クレア」


 クレアは安心したように笑みを浮かべてメイを見下ろした。

 そんなふたりに私も自然と頬が緩んだ。


 3人で四阿に入ってノア様方に挨拶し、ベンチに並んで腰を下ろしたが、クレアはソフィアとエルマーに手を引かれまた四阿を出ていった。

 ノア様が目を細めて笑った。


「ずっと子どもだと思っていたメイも父親か」


「でも、メイはお父様に似ているから心配ないわね」


「いや、それこそ心配だろ。将来、クレアを嫁に出したくないと泣きそうだ」


「それはありそうね」


「ちょっと、変なこと言わないでよ。セアラまで一緒になって。……僕がいないところでクレアに何か話したの?」


「クレアがメイをお父様と呼んでいいのかと訊くから、呼びたいように呼べばいいと答えただけだ」


「それはどうも」


「ところで、父上たちは来週、帰国なさるからな」


「わかってるよ。今度はちゃんと出迎える。パティとクレアと一緒に」


 私はいよいよだと思い緊張を覚えたが、セアラ様はふんわりと笑った。


「楽しみね。お父様はふたりに会ったらどんな反応をなさるかしら?」


「さっきのメイみたいな顔をするんじゃないか」


 メイ同様、ノア様とセアラ様もご両親が私たちの結婚を認めてくださると疑っていないようで、私の不安は少しだけ薄れた。


 その時、子どもたちが四阿に戻ってきた。


「おかあさま、クレア、きょう、ソフィアのへやでねる」


 クレアの突然の宣言に私は驚いて「ええ?」と声をあげてしまった。


「エルマーも一緒に3人で寝てもいいですか?」


 ソフィアに問われ、私はクレアに確認した。


「お母様がいなくて本当に大丈夫?」


「だいじょうぶ」


 胸を張ってみせるクレアに苦笑した。


 本来なら、貴族の子女は親と同じベッドで寝ることはない。自分の部屋、自分のベッドで休むのが普通だ。

 しかし、特殊な環境で育ったクレアは、ずっと母親である私と同じベッドを使ってきた。

 コーウェン家ではベッドの2台ある客間を用意してくださったけれど、やはり使ったのは1台だけだった。

 ずっとこのままというわけにはいかないのだから、これは良いきっかけなのかもしれない。


「ソフィア、エルマー、クレアをよろしくね」


 ふたりは力強く頷いた。

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