挿話9 ラルフ
「本当にこれでよかったのか?」
「もちろん、よかったんだよ。あのふたり、なかなかお似合いだったじゃないか。オーティス嬢はすごく良い顔をしてた。コーウェン公爵弟に大切にされているのだろうね。公爵弟とは親しくなりたかったけど、あの様子だと難しいかな」
エリックは明るい声で言い切ったが、その目にはどこか寂しそうな色が浮かんでいた。
「そうだな」
私から見てもパトリシア様はこの屋敷を出て行った時とはずいぶん変わられていた。
すっかり洗練されたその姿に、彼女がもうローガン家ではなくコーウェン家の人間だと思い知らされた気分だ。
よく似合っていたあのドレスは、コーウェン公爵弟が見立てたものだろうか。仕立て職人だというあの方が自ら作り上げたのかもしれない。
公爵弟が和かな表情を浮かべながらもこちらに対して警戒心を抱いていたのは明らかで、それだけパトリシア様を大事にしていることが窺えた。
子どもの頃から貴族の子弟と同等の教育を受けてきたとはいえ、平民出身のエリックが貴族社会で生きていくのは茨の道だ。
だから私はパトリシア様にエリックを妻として支えてやってほしかった。
だが、エリックがそれを望まなかった。
私の両親は平民向けの裁縫道具や布地を扱う店を営んでいたが、私が9歳の時に相次いで病で亡くなった。私と14歳の姉とでは、店を続けていくのは不可能だった。
姉は私を育てるため、父の知人の店で働きはじめた。
2年は歯痒い思いをしていた私も11歳になると仕事を探した。
姉に恩返しをしたくて少しでも稼ぎの良い職を求め、いくつかの伝手を頼った結果、ローガン侯爵家の下働きの職を得た。
ローガン家の屋敷で働きはじめた私は、やがて当時は次期侯爵だったあの男の目に止まり、取り立てられた。
私は両親によく「おまえは賢い子だ」と言われていたが、どうやらその言葉は親の贔屓目ではなかったらしい。
ここまでなら、私も姉も幸運を掴んだと喜びつつ、ただの平民のまま穏やかに生きられただろう。だが、そうはならなかった。
たまたま私に姉がいることを知った次期侯爵は、彼女に自分の愛人になるよう迫った。
姉に出会って一目で運命を感じたから、などという理由ではない。
次期侯爵はすでに結婚して息子が生まれたばかりだったが、気位が高く口煩い妻にうんざりしていた。
そのため、働き者だがおっとりして物静かな姉は、次期侯爵からすれば都合の良い逃げ場所に見えたのだ。
姉には結婚を約束した恋人がいたが弟の主を拒むことはできず、間もなく彼女は次期侯爵の子を身籠った。
次期侯爵が姉を囲った別宅に通う回数は少しずつ増えていき、侯爵位を継いでからはさらにそれが顕著になった。
もちろん、正妻が気づかぬはずもなく、彼女はどういうつもりかと夫に詰め寄った。
「気に入らないなら出て行けばいい。ブラッドリーも連れて行って構わん」
顔色を変えることなくそう言った侯爵に、正妻は何も返せなくなった。
早々にエリックを産んだことで、姉は貴族の愛人という立場を受け入れた。だが、私は姉に対してずっと後ろめたい気持ちがあった。
だから、侯爵が将来的には正妻との間に生まれたブラッドリーでなくエリックを嫡男にしようと考えているとわかると、その実現のために邁進した。
侯爵に命じられるまま領地経営を学び、やがてはそのほとんどを任されるようになった。
侯爵は家庭教師を雇ってエリックに貴族並の教養や礼儀作法を身につけさせたが、その他の貴族社会で生きるために必要な常識などは私があちこちから仕入れてきてはエリックに伝えた。
エリックは父親の命で貴族に混じって学園に通うことになった。
まだローガンを名乗れない甥は、代わりに両親の店の屋号を姓とした。
「叔父さんが教えてくれたコーウェン公爵の末っ子はクラスにいなかったよ。留学したんだろうって噂だけど」
「嫡男は留学先で首席だったらしいからな」
「話してみたかったのに。学園を首席で卒業してタズルナの王子に嫁いだお姉さんもいるんだよね? そういえば、この前の試験で4位だったのも女子生徒だったんだ」
エリックは学園に入学して最初の試験で5位だった。
その気になれば首席を取れただろうに、わざと手を抜いたようだ。
平民があまり目立つような真似をしてクラスで浮きたくないと言っていたが、本心は父親への反抗に違いない。
エリックには異母兄に代わって爵位を継ぐ意志がなかった。
「どんな娘なんだ? おまえと話は合うか?」
「貴族の子女は気軽に異性と話なんてしないからわからないよ。でも、とにかくきちんとした印象かな。控えめな感じなんだけどクラスの女子では1番背が高くて、しかも立ち姿が綺麗だから何となく目を惹かれるんだ」
そのクラスメイトーーパトリシア・オーティス伯爵令嬢に対するエリックの好意が徐々に淡い恋心へと変化していたことに私が気づいたのは、息子の気持ちなど意に介さない侯爵がすべてを台無しにした後だった。
そして皮肉にも、それをきっかけにエリックは爵位を継ぐ決意をしたのだ。
自分がローガン家の嫡男に相応しい優秀な人間だと示すため、エリックは卒業試験で首席を取り、難関である宮廷の登用試験にも通った。
下級官吏として働きながら、次期侯爵に必要な事柄も着実に身につけていった。
その一方で、異母兄の妻になったパトリシア様がローガン家で酷い扱いを受けていることに心を痛めていた。
侯爵が妻子を嗜めないのは将来的にはパトリシア様をエリックの妻にするつもりで、彼女にふたりに対する情を持たせないためで、そのこともエリックを苦しめた。
パトリシア様はエリックに聞いていたとおり、愚かなブラッドリーの妻にはもったいない聡明な女性だったが、その表情はローガン家に入ってたちまち翳った。
私はパトリシア様を姪と思い領地経営を教え、外出できない彼女に貴族社会の様子を話して聞かせた。
結婚の翌年にはパトリシア様は女児を産み、その娘にクレアと名付けた。
侯爵にとっては、孫娘さえもパトリシア様をローガン家に縛りつけるための道具でしかなく、屋敷におけるパトリシア様の処遇は何ら改善されなかった。
その分、パトリシア様がクレアお嬢様に注ぐ愛情は、普通の貴族はもちろん平民でもなかなか見られないほどに大きかった。
パトリシア様はクレアお嬢様のために服を作りはじめた。さらには自身のドレスも。
時おり見かけた彼女が縫い物をする姿は、私に亡くなった母と失った両親の店を思い出させた。
ブラッドリーは己ではそうと気づかぬまま、嫡男の立場を捨てた。
パトリシア様は離縁を望んだが、当然、侯爵は認めなかった。
私はエリックに彼女をローガン家から解放してあげてほしいと懇願された。
離縁を諦めて以前と変わらぬ生活を送っているように見えたパトリシア様は、ある朝、とうとう行動を起こした。
その腕にしっかりとクレアお嬢様を抱いた以外は何一つ手にしておらず、絶対に逃げるのだという強い決意を感じた。
私は彼女を手引きし、屋敷の外に出した。これからローガン家で起こることを知らせればあるいは留まってくれるのではとも考えたが、甥の意思を尊重し何も話さなかった。
長いこと屋敷に閉じ込められていたパトリシア様の足では街まで遠いとわかっていたが、馬車で送ることはできなかった。
次にパトリシア様とクレアお嬢様の消息を聞いたのは半月ほど後、王宮から戻った侯爵夫人の口からだった。
ブラッドリーの駆け落ち騒動の件で呼び出されて侯爵夫人は王宮に向かったのだが、帰宅した時には侯爵とブラッドリーも一緒で、さらに監視役の衛兵たちまで付いていた。
「全部パトリシアのせいよ。コーウェン公爵に取り入るなんて、とんでもない女だわ」
どうやらパトリシア様とクレアお嬢様はあの後コーウェン公爵に保護されてそのお屋敷にいたらしい。
コーウェン邸はローガン邸からそう遠くない。そんな近くにいたのかと驚くと同時に、無事だとわかってホッとした。
国王陛下からの処分が下るより早く、ローガン家は変化の時を迎えた。
侯爵はまず夫人とブラッドリーを、生活費を保証したうえで夫人の実家ハミルトン家に押しつけた。
ふたりはハミルトン領へと去り、同時に屋敷にいた多くの使用人が解雇された。
それから、少し前にローガン家の嫡男になっていたエリックに爵位を譲った。
エリックはふたりの妹とともに屋敷に移り住んだ。
別宅で働いていた使用人たちも付いてきたが、別宅の何倍も広い屋敷を管理するには到底足りない。
だが、いきなり大量に新しい人間を入れるのは様々な面で危惧があるし、3人は身の回りのことくらい自分でできるので、とりあえずは必要最低限の使用人でやっていくことにした。
子どもたちも私も、姉も屋敷で住むものだと思っていたが、彼女は元侯爵に従ってローガン領に行くことを決めた。
毎年、夏は領地で過ごしてきて、領民には正妻より姉のほうが元侯爵の妻として認識されている。
あるいは都より領地のほうが姉には暮らしやすいのかもしれない。
そう思った私に、姉は笑って告げた。
「子どもたちやラルフと離れるのは寂しいけれど、あの人をひとりにするのは心配なの。ひとりでは何もできないのだもの」
小さな別宅で長い間夫婦として暮らし、屋敷でなら使用人がする身の回りの世話をしているうちに、姉の中には侯爵に対する情が生まれていたようだ。
元侯爵の態度も正妻に対するよりは姉を前にしたほうが若干柔らかい、ような気がする。
「ラルフも、エリックのことばかりでなく、そろそろ自分自身のことを考えてね」
姉はそう言い置いて、領地へと旅立っていった。
エリックは1度嘆息すると、先ほどよりは吹っ切れたような顔で口を開いた。
「オーティス嬢にああ言われたし、クレア嬢には跡を継いでもらえないようだし、私も早く結婚相手を見つけないとな」
「ああ、そうしてくれ」
「でも、母さんも言ってたけど、叔父さんは僕より自分の心配をしたら?」
「おまえが落ち着いたら考える」
「結局、それか」
苦笑いを浮かべたエリックが、ふと表情を改めた。
「ずっと気になっていたんだけど、叔父さんもオーティス嬢のこと……」
そこで口を噤んだエリックに、首を傾げた。
「何だ?」
「いや、やっぱりやめておく。自覚なさそうだし、自覚していても認めないだろうから」
エリックが何を言おうとしたのか、私は考えないことにした。




