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22 新しい当主

 王宮を訪れてからちょうど1週間後、あの騒動に対する国王陛下の裁定が下った。

 私はメイと一緒にコーウェン邸の談話室でノア様からそれをお聞きした。


「ローガン侯爵家およびハミルトン侯爵家はそれぞれ領地の一部を返上のうえ伯爵位に降格。ブラッドリー・ローガンは宮廷での地位剥奪。それから、ガードナー夫妻との例の約束を違えた場合すぐに拘束されることも通達された」


 私は陛下の決定ということで神妙な気持ちで聞いていたのに、メイは不満そうな声をあげた。


「それだけ? ローガン侯爵夫人個人にはお咎めなし?」


「ガードナーが訴えを取り下げたので、あくまで誘拐事件ではなく駆け落ち騒動としての処分になったからな。ただ、ローガン侯爵は今回の責任を取って爵位を嫡男に譲り、宮廷の職も辞すと申し出て陛下に認められたから、当然、侯爵夫人も今までどおりとはいかなくなる」


「愛人の息子が新しい当主になれば、あの親子は屋敷を追い出されるわけか」


「どうやらハミルトン領で暮らすらしい」


「侯爵は? 今度は屋敷で愛人と暮らすの?」


「いや、屋敷に入るのは新当主とふたりの妹だけで、侯爵と愛人はローガン領だ。だが、侯爵は夫人と離縁はせず、生活費もローガン家が出す」


「やっぱり苦手なものからは逃げることを選ぶんだね」


「それから、慰謝料だが」


 ノア様が私の前に2枚の書類を置いた。それぞれに金額とその内訳が書かれていた。


「1枚目はローガン家からオーティス家に支払われる分。オーティス伯爵はこの金額で了承の上、すべてパットに渡すと仰っている。2枚目がパット個人に支払われる分。主に離婚後の労働報酬だ」


 私はクレアさえいればと思っていたけれど、慰謝料がオーティス家に対して支払われるものでお父様が了承済みだというなら改めて口出しすることではない。

 ただ、こんな大金をすべて私にというのは困惑した。近いうちにメイやお父様と話し合ったほうがいいだろうか。

 報酬のほうはそう大きい金額でもなかったので、大人しく受け取ることにした。


「それから、クレアの養育費をローガン家で出すとも言っていた」


「必要ない」


 メイがきっぱり言うと、ノア様が口角を上げた。


「ああ、そう答えておいた。だが、向こうは新当主に跡継ぎができるまでは、クレアを繋ぎとめておきたいのかもしれないな。今回のことが広まれば結婚相手を探すのも苦労するだろうし」


「新しい当主が今まで結婚していなかったのは、やはりローガン侯爵が今回の騒動が起こる前から嫡男の交代を考えていて、交代後に相手を探すつもりだったからなのでしょうか?」


 新当主の正確な年齢はわからないが、ラルフがいるとはいえ侯爵が爵位を譲ってすべてを任せると決めたのだから、それなりの歳だろう。


 ノア様は少し迷うような顔をしてから口を開かれた。


「おそらくだが、侯爵は次期侯爵を交代しても次期侯爵夫人は変えないつもりだったんじゃないか」


「パティを弟とも結婚させるつもりだったってこと?」


 メイが今までになく怖い顔になった。私も唖然とした。


「だから、ブラッドリーが消えてからもパットに領地経営をさせていたんだ。ひとりで社交に出したのも弟への繋ぎのため」


「確かに、家令が私をしっかり仕込んでくれたのもそのためだったと考えると納得できます。兄の妻がそのまま未婚の弟にというのも聞かない話ではありませんし。ですが、普通は兄が亡くなったから、という理由ですよね」


「嫡男を正妻の息子から庶子に変更するとなれば周囲が煩いに決まっているが、死んだとなれば話は別だ。侯爵が宮廷にブラッドリーは病だと届けたのも、そのうち病死したことにするためだったのだろう。侯爵としては息子が見つからないほうが都合が良かったかもな」


「それなら、今回のことがなかったら?」


「領地にでも監禁して、やはり病死ということにしたんだろう」


 メイは苦いものを食べたような顔になった。私も同じかもしれない。

 だからといって、侯爵子息に同情はしないけれど。


「平民がいきなり貴族の当主になるなんて間違いなく苦労するよね。しかも兄がこんな置き土産を残したわけだし。弟はそんなに有能なの?」


「かなり」


「ノアはもう会ったの?」


「宮廷で下級官吏として働いていたんだ。もちろん、その男がローガン侯爵の庶子だとは今まで誰も知らなかったんだが、嫡男になったことで正官吏に昇格して、宮廷中が驚いたというわけだ」


「平民から官吏になったってことは、ものすごく難関だっていう登用試験に受かったってこと?」


「そうだ。で、そのローガン家の新当主がパットに会いたいそうだ」


「何のために?」


「謝罪だ。あとは屋敷に残っているパットたちのものを必要なら返したいと」


 メイは思いきり嫌そうな顔で私に尋ねた。


「パティ、どうする?」


 ローガン家とは2度と関わりたくないと思っていた。

 だけど、ラルフに会えるならきちんとお礼を言いたい気持ちもある。

 それに、ラルフの甥でもある新しい当主に対して、ノア様はあまり悪感情を抱いていないようだ。


「お会いしてみます」


「僕も行くから」


「ああ、そう伝えておく」




 日曜日、私は再び杏色のドレスを纏ってメイとローガン邸に向かった。


 すでに元侯爵一家は屋敷を出て、代わりに新しい当主と妹たちが暮らしはじめ、ラルフ以外の使用人もほとんど入れ替えられたそうで、その点では私の気持ちは軽かった。

 それでもあの屋敷にクレアを連れて行く気にはならなかった。

 クレアはだいぶ愚図ったけれど、セアラ様やソフィアたちの協力もあって何とか宥め、次の休日にはピクニックに行こうと約束してコーウェン邸を出てきたのだった。


「ようこそ、お待ちしておりました」


 ローガン家でまずメイと私を迎えてくれたのはラルフだった。

 どうやらまだ人手不足で、執事の仕事も兼任している状況らしい。

 きっと忙しいはずなのに以前より表情が柔らかくなったように見えるのは、やはりローガン家が甥のものになったからだろうか。


 でも、見た目が変わったということなら私のほうが上に違いない。ラルフもわずかに目を瞠っていた。

 ラルフに見送られて屋敷を逃げ出してからまだ1月たっていないのに、ずいぶん昔のことのように感じられた。


「久しぶりね、ラルフ。あなたにまた会えて嬉しいわ」


「はい、私もです。クレアお嬢様はお元気ですか?」


「ええ、とっても」


「コーウェン公爵弟とご婚約なさるそうで、おめでとうございます」


「ありがとう」


「こちらへどうぞ」


 ラルフが私たちを案内したのは応接間だった。


 私がこの部屋に入ったのは最初の婚約を結んだ時の1度だけ。その後、元侯爵夫人に招かれた時はいつも居間だった。

 ちなみに、ここに住んでいた間、私が入ることができたのは私室と執務室と食堂くらいで、だから屋敷内のことはほとんどわからない。


 ラルフは扉を軽く叩いてから室内に声をかけ、扉を開けた。

 その中でソファから立ち上がった人物を見て、私は目を見開いた。


「当家の新しい主、エリック・ローガン伯爵です」


 ラルフがそう紹介すると、ローガン伯爵は微笑んで口を開いた。


「本日は私の求めに応じてお越しいただきありがとうございます。初めてお目にかかります、コーウェン公爵弟」


「初めまして、ローガン伯爵。メイナード・コーウェンです」


「お久しぶりです、オーティス伯爵令嬢」


「お久しぶりです、ローガン伯爵」


 当然のこと、メイが私に怪訝そうな視線を向けた。


「知り合いなの?」


 少しだけ悩んだが、ここで誤魔化しても仕方ない。


「以前お話しした学園のクラスメイトです」


 メイも目を見開いた。


「まさか、卒業試験で首席だった人?」


「はい」


「オーティス嬢がコーウェン公爵弟に私のことを話してくださっていたとは光栄です。どうぞお掛けください」


 伯爵に促され、メイと私はソファに並んで腰を下ろした。


「あなたがローガン侯爵のご子息だったなんて、驚きました」


「そうでしょうね。私は父のことはできるだけ隠してきましたから」


「どうしてですか?」


「父が嫌いだからです」


 あまりに簡潔明瞭な答えに、次の言葉が見つからなかった。


「オーティス嬢には改めて説明する必要もないでしょうが、私の父はとても尊敬できる人ではありません。常に自分の考えが正しいと思い込み、周囲が自分の思うとおりに動かなければ我慢ならない。……黙って従っていた私も情けないのですが」


 元侯爵のそういうところはこの屋敷の中だけのことで、愛人の前では違うのだろうと勝手に思っていたけれど、同じだったようだ。


 笑みが浮かんでいた間は気づかなかったが、眉が顰められると伯爵の顔は父親に重なって見えた。


「誰かしらを貶す言葉を聞かされるのもしょっちゅうでした。特に女性を見下していて、母や妹たちの前でも平気で『女は駄目だ』と口にする。それである時、どうしても我慢できなくなって反論しました。男より聡明な女性だっていくらでもいる、と。その時に例えとしてオーティス嬢の名前を出したら、父が興味を持ってしまって」


 ローガン元侯爵が私の存在を知ったのはそういう経緯だったのかと納得した。


「あなたがこの屋敷でどんな扱いを受けていたかは叔父から聞いていました。私の不用意な発言のせいであなたを苦しめることになって、本当に申し訳ありませんでした」


 伯爵は膝につくほどに頭を下げた。


「どうかお顔を上げてください。伯爵を責めるつもりはありません」


 私が言うと伯爵はゆっくり顔を上げたが、視線は下がったままだった。


「ずっとあなたに会って謝りたいと思っていました。できることなら償って、私が父から継いだものもいつかすべてクレア嬢に譲りたいと」


「そんな必要はありません」


「ええ、ただの自己満足です。押しつけるつもりはありません。すでに新しい人生を歩きはじめたあなたのために私ができることなどないのでしょう」


「そのとおりです。伯爵もローガン領民のために前を向いて、過去を悔いるよりこれからのことを考えてください」


 伯爵は頷いてから、気持ちを切り替えるように笑顔を浮かべた。


「それにしても、オーティス嬢がコーウェン公爵弟と結婚されるというのは驚きました。留学したと言われていた幻のクラスメイトがドレス工房で働いているらしいと聞いて、機会があれば1度お話ししてみたいと思っていたのですが、それがこんな形になるとは」


「伯爵はとても優秀な方だとお聞きしました。僕より兄のほうが話が合うのでは?」


「確かにコーウェン公爵には色々とご指南いただきたいですが、あなたとはもっと別の話もできるのではないかと」


「……そうですね。いつかそんな機会もあるかもしれませんね」


 もしもこのふたりがクラスメイトとして学園の教室で出会っていれば、親しい友人になっていたのかもしれない。束の間、そんな考えが頭に浮かんだ。




 足を踏み入れた瞬間、部屋の様子が記憶と違うことに気づいた。

 ラルフが告げた。


「申し訳ありません。あなたが出て行かれてから元侯爵夫人がこの部屋を荒らしまして、別宅から移ってきたメイドに片付けさせたのですが、最近の混乱に乗じて解雇した使用人に盗まれたものもあるようで」


「そのくらい予想していたわ。むしろこの部屋がまだ残っていたことのほうが意外よ」


 いくら探したところで元侯爵夫人を満足させられるようなものは見つからなかったはずだ。それなりに価値のあるものはすでに彼女自身が奪っていたのだから。

 次の職を探すのに苦労するであろう元使用人たちだって、盗んだものを換金したところでせいぜいパンを買えるかどうかだろう。


 そう考えながらクローゼットを開けてみると、中にあったはずの綿ドレスがクレアのものも含めてほとんど消えていた。

 元侯爵夫人に切り裂かれたりして処分されたのか、あるいはあんなものでも売れるのだろうか。

 コツコツと縫い進めて作り上げた労を思うと複雑だけど、今の私にはどうしても必要なわけではない。


 潔く諦めることにしてクローゼットを再び閉じようとした時、隅に箱が置かれているのに気がついた。

 それを抱え上げて蓋を開く。中身は私がドレスを作るのに使っていた裁縫道具だ。


「これは残っていたのね」


 嫁入道具として持ってきたそこそこ良いものなのに。中の配置は変わっていたので、誰にも存在を気づかれなかったわけではなさそうだった。


「それだけは私が保管していました。荒らされた部屋の中に落ちていたのを拾い集めたので足りないものもあるかもしれません」


 ラルフにそう言われて改めて確認すれば、針の数が減っているし、箱に見覚えのない傷がついていた。


「ありがとう。でも、どうして?」


「部屋に入って最初に目についたので。罪滅ぼしには到底足りないでしょうが」


「罪滅ぼしだなんて……。あの日、ラルフが私を逃がしてくれたこと、感謝しているわ」


「あれは、エリックに頼まれたからです」


 伯爵に会ってから、何となくそうなのだろうと思っていた。

 甥を紹介したい、つまり私に甥の妻になってほしいというのがラルフの本音だったに違いない。


 私はそれを知らない振りで、微笑んだ。


「そうなのだとしても、私の気持ちは変わらない。本当にありがとう」


「いえ。どうかコーウェン公爵弟とお幸せに」


 裁縫箱だけを引き取って、他は処分してもらうことにした。

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