19 真相と結果
ノア様の指示で衛兵たちが次期侯爵を再び椅子に座らせた。
今さらながら、優男の次期侯爵が何人もの衛兵に囲まれていた理由に気づいた。
「ローガン家を訪れたガードナー氏は夫人がブラッドリー殿に無理矢理連れ去られたと考えていたはずです。それが表沙汰になる前に、あなたはふたりは駆け落ちしたのだという嘘を流すことにした。あなたの姪御殿は噂を広めることが得意なようですから、あなた自身の労は大したことなかったでしょう」
ローガン侯爵夫人は顔色を悪くしながらも、言い訳を探すように視線を彷徨わせていた。
その間に次期侯爵が口を開いた。
「私がシェリルを拐ったなど、とんだ言いがかりです。私はただ、シェリルに会えたのが本当に久しぶりだったから、あの男に邪魔をされないようふたりきりになりたくて、シェリルを馬車に……」
次期侯爵の表情を見て理解した。あの人には罪を犯したのだという自覚がない。
「ブラッドリー、黙って」
ローガン侯爵夫人が息子を止めようと必死の形相で叫んだ。
「ブラッドリー殿、あなたはガードナー夫人に付き纏っていたそうですね。だからガードナー夫人が出かける時には常に警戒し、必ず夫が同行していた」
「違う。あの男は無理矢理シェリルと結婚したんだ。シェリルは本当は私のところに戻ってきたかったのに」
「ガードナー氏が夫人を妻として籍に入れたのは彼女を実の親から守るためで、実際には先ほども言ったように娘として扱っていました。もしも本当に慕う相手ができたらそちらと添えるようにしてやるとまで言っていたそうです。しかし、ガードナー夫人にとってあなたはすでにそういう相手ではなかったのです」
「あの女がシェリルに嫌がらせをしたせいだ」
次期侯爵が私を指差した。
「いいえ、あなたがパトリシアと婚約する以前から、ガードナー夫人はあなたとの結婚は考えられなかったそうです」
「それは、父上が私たちの結婚に反対したから、シェリルは遠慮してしまったのだと思います。父上が選んだ女と結婚して子どもを産ませれば愛人を持っても構わないと言われたことを話しても、シェリルは納得してくれませんでした。私だって、本当はシェリルを愛人になんかしたくなかったですが、父上が貧乏男爵の娘を私の妻にはできないと」
「そんなことを言った覚えはない」
ローガン侯爵が冷静にそう言った。
「シェリルでは駄目だと言ったのを忘れたのですか?」
「私はエメットの娘には学がないから駄目だと言ったはずだ。おまえの代わりに領地経営をできるなら、別にあの娘でも構わなかった」
「でも、母上が……」
「いい加減、母親に言われたことをすべて真に受けるのはやめたらどうだ」
「ローガン侯爵夫人はお茶会などに参加するといつもパトリシアについての愚痴を溢していたが、婚約前にはガードナー夫人のことを話していたそうです。貧乏男爵の娘が息子の周囲を彷徨いて迷惑していると」
ノア様の補足に次期侯爵は目を見開いて母親を見つめた。
「さらには、ガードナー夫人にも直接言っていたのですよね。『おまえなんかがブラッドリーの妻になれるわけないだろう、身の程知らずが』。それから『旦那様の選んだパトリシア嬢はおまえとはまったく違ってよく出来た令嬢だ。ブラッドリーに相応しい』。例え好意を持つ相手でも、その母親にいびられることがわかっていて結婚に夢を見られるはずがない」
侯爵夫人がシェリル様を貶めるために私を褒めるようなことを口にしていたなんて信じがたいけれど、事実なのだろう。気色悪い。
「母上、本当にシェリルにそんなことを言ったのですか?」
次期侯爵の顔には不信感が浮かんでいた。
「シェリルに学がないのはエメット家が貧しいせいなのだから同じことでしょう。私は旦那様の気持ちを代弁していただけよ」
侯爵夫人は取り繕おうとしたが、侯爵が否定した。
「学園に通えなくても、家庭教師を雇えなくても、本人にやる気があれば学ぶことはできる。おまえがシェリルに教えてやればよかったんだ。もっとも、苦手だからと学問を放棄してきたおまえが人に教えるなど、思いつきもしなかっただろうがな。そもそも、おまえが自分で領地経営を担えるなら結婚相手にそんな条件も必要なかった。意に沿わない相手と結婚することの煩しさは、私自身が嫌というほど理解している」
侯爵の言葉に、侯爵夫人は顔を歪めた。
「領地経営など、このままラルフにやらせておけばいいではないですか」
拗ねた子どものように次期侯爵が呟くと、侯爵夫人が目を吊り上げて叫んだ。
「そんなの駄目に決まっているでしょう」
「ラルフがおまえのために働くことはない。おまえの代になっても任せておいたら、すべてを奪われるぞ」
「どうしてそんなことが言い切れるのですか?」
「知らなかったのか? ラルフはヘレンの弟だ」
それは私が初めて聞く名前だったけれど、侯爵夫人の隠しきれない憎悪の表情を見れば、誰の名前なのか考えずともわかった。侯爵の愛人だ。
道理で、侯爵不在のローガン家の中でラルフが浮いていたはずだ。
愛人の弟を家令にするなんて、やはり侯爵もおかしい。
ラルフが私に親切だったのは、敵の敵は味方といったところか。
「おまえに領地経営を担えそうな妻を与えてやったのは父親としての情けだったが、おまえはそれを無に帰した。この先爵位を継いだとして、いったいどうやって領地を治めていくつもりだったのだ?」
「コーウェン公爵、ブラッドリーとパトリシアの離婚を取り消してください」
侯爵夫人が縋る視線をノア様に向けた。
「母上、やっとあの女と離縁できたのに何を言い出すんですか」
「シェリルが駄目だったのだから、もうあの女で我慢なさい」
ノア様の顔がさらに険しくなった。
「わざわざ特例までお願いして認めていただいた離縁を取り消すなど、陛下を愚弄するおつもりですか?」
「で、では、せめてクレアを私たちに」
「ブラッドリー殿は、クレアは自分の娘ではないに等しいことを言った。それ以前に、あなた方は1度もクレアの様子を気にしなかった。私がそんな人間たちに、敬愛する我が母と同じ名を持つ幼な子の行く末を託すと思いますか?」
侯爵夫人が今度は私を見た。
「おまえからも公爵にお願いしなさい。クレアは私たちが育ててあげるわよ。そのほうが何不自由なく暮らせてクレアのためだし、おまえだって身軽になっていいでしょう」
私は怒りに震えそうになる声をどうにか抑えて応えた。
「クレアは絶対に渡しません」
「何ですって?」
「やめろ。今さら遅い。嫡男の変更はすでに済ませた」
侯爵にそう言われて、次期侯爵ーーもうただの侯爵子息と呼ぶべきかーーはようやく母親の焦りの理由を理解したらしい。
「嫡男の変更? まさか平民にローガン侯爵を継がせるというのですか?」
「さすがに異母弟の存在は聞いていたか。安心しろ。平民育ちでもあれのほうが何倍も出来が良い。ラルフの補佐も望める。あれに足りないのは妻と跡継ぎくらいだ」
ローガン侯爵は愛人との間に1男2女をもうけていると私も聞いていた。
そう言えば、ラルフは家族親戚の話はしないと思っていたが、侯爵の愛人と庶子こそラルフの家族だったのか。
別れる時に私に紹介したかったと言っていた甥が、新しいローガン家の嫡男なのだろう。
「おまえが勝手に屋敷を出て行ったりするから、ブラッドリーは侯爵になれなくなったのよ。どうやって償うつもり?」
侯爵夫人の怨嗟の声が飛んだ。
「パトリシアはもうローガン家の人間ではなく、オーティス伯爵令嬢です。他家の令嬢にそんな風に接するなど、侯爵夫人にあるまじき振る舞いではありませんか?」
ノア様に咎められ、侯爵夫人が目を剥いた。
「それから、償うべきはローガン家の側です。離婚を望んだのはブラッドリー殿でしたよね」
「ですが、ブラッドリーが屋敷を出てすぐにパトリシアも離縁したいと言いましたわ」
「それなのにあなた方は屋敷に引き留めて仕事をさせていたわけですね? その時点ですでに離婚は成立していたことになりますから、パトリシアを働かせていた分の報酬を支払ってください」
「そんな馬鹿な話がありますか」
堪えきれなくなったのか声を荒げた侯爵夫人に対し、ノア様が追い討ちをかけた。
「何なら、監禁罪にも問えますが?」
「パトリシアは外出できました。目撃情報があったと仰っていましたよね?」
「クレアを屋敷に残して出かけたなら、パトリシアは戻らないわけにはいきません」
「ですが、最終的にはクレアを連れて屋敷を出て、あんなどこの馬の骨とも知れない男と一緒にいたのですよ」
ノア様の口角が上がるのが見えた。もちろん、目はまったく笑っていない。
「離縁後のことですから、別に問題はないでしょう。ついでに言うと、あれは私と同じ所産の馬の骨です」
「……は?」
「言い忘れていましたが、私たちがあなたに初めてお会いできたあの日、ローガン邸を辞した後に偶然パトリシアとクレアにも会うことができたのですが、侯爵家の者とは思えぬ身形だったため陛下の許可を得て私の屋敷でそのまま保護していました。先ほどの男は私の愚弟で、今日はパトリシアの付き添いとして一緒に来たのです」
「あの、方が、コーウェン公爵弟……?」
侯爵夫人が呆然として言った。
様子を窺うに、侯爵はメイさんの正体を知っていて、侯爵子息はまったく知らなかったようだ。
「まあ、侯爵夫人が気づかれなくても仕方ありません。祖父に似て私よりずっと宮廷服が似合いそうな顔をしているくせに、ドレスの仕立て職人をしているような変わり者ですから」
何も知らなければ、弟を貶しているような言葉に聞こえるだろう。
だけどノア様やメイさんのお祖父様、つまり先々代のコーウェン公爵は、数年かけて周辺の国々を外遊し、各国との友好関係を強化した立派な外交官だったという方だ。
もちろん当時の国王陛下からの信頼も厚く、その妹姫が降嫁されたほど。
その貴族中の貴族とも言えるお祖父様に似ている弟が馬の骨に見えたのか、という侯爵夫人への嘲りだったと取るのが正しいに違いない。
ノア様はお母様似で、以前お会いしたアメリア様はお父様に似ていらっしゃったけど、メイさんはどなたに似ているのだろうと思っていたら、お祖父様だったようだ。
侯爵夫人は私を忌々しそうに見ながら言った。
「パトリシアが公爵や公爵弟に何を言ったか知りませんが、信じないほうがよろしいですわ。その女は嘘が上手くて、平気で人を誑かす人間ですから」
「あなた方がパトリシアに誑かされたようにはまったく見えませんね。それとも、私や弟は誰かに簡単に誑かされる間抜けだと思われているのですか?」
ノア様は低い声で問うた。
「そ、そんな意味で言ったわけでは……」
「話がずいぶん逸れましたが、パトリシアはともかく、ガードナー氏からは夫人をブラッドリー殿に拐われたという訴えがすでに出ています。しかし、ブラッドリー殿が今後2度とシェリル・ガードナー夫人に近づかず、関わらないと約束するなら訴えを取り下げるそうです」
「そんな……。シェリルに会わせてください。きっと何か行き違いがあるんです。ふたりで話せば……」
また立ち上がろうとして衛兵に阻まれた侯爵子息に対し、ノア様は冷淡に告げた。
「ふたりだけで会う許可は出せません。ふたりきりでなくても会いたいと言うなら、先に誘拐と監禁の罪で捕縛することになります。牢に入るか、誓約書にサインしてご両親と屋敷に帰るか、決めてください」
すでに誓約書は用意されていたらしく、ノア様がそれを手にして振ってみせた。
誓約書1枚と引き換えに訴えを取り下げるなんて、こんなことになってもシェリル様には元恋人に対する情が残っているのだろうか。
「ブラッドリー、もういいでしょう。シェリルのことは忘れなさい」
「煩い。私にはシェリルしかいないんだ。誰よりもそれをわかってくれてたはずの母上が、どうして私からシェリルを奪うんですか」
「あの女のせいでおまえも私も人生滅茶苦茶じゃない」
侯爵が冷めた目を妻子に向けた。
「これはおまえたち自身の行動が招いた結果だろう。ブラッドリー、誓約書にサインしろ。これ以上恥を晒すな」
文官がノア様から受け取った誓約書とペンを侯爵子息のもとに運んだ。
侯爵子息は破りそうな勢いで掴んだ誓約書を睨みつけた。
「牢に入るほうを選ぶならローガンの名も失うぞ」
侯爵の脅しに屈する形で、侯爵子息は誓約書にサインをした。
会議室にグスグスと鼻を啜る音が響いた。それでも、私の中に侯爵子息への同情はまったく湧いてこなかった。
手元に戻された誓約書のサインを確認してから、ノア様が口を開かれた。
「今回このような騒動を起こし、さらに宮廷に虚偽の届を出したことに関しては、後日、陛下より処分が下されます。それまでローガン侯爵夫妻と子息は屋敷で謹慎していてください。尚、屋敷には見張りを置かせてもらいます」
ノア様から散会が告げられるとローガン侯爵子息、夫人、侯爵がそれぞれ衛兵に促されて立ち上がり、会議室を出ていった。
私があの人たちに会うのはこれが最後かもしれないと思ったけれど、感傷的な気持ちにはなれなかった。




