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18 望んだ瞬間

「どうして……」


 微かに震える声でそう言ったローガン侯爵夫人はただただ子息がここにいることに驚いていて、久しぶりに会えたことを喜んだり、その健康状態を案じたりする風はなかった。


 ローガン次期侯爵は父親に気づくとやや居心地の悪そうな様子を見せたが、私を認めると不快そうな顔になった。


「おまえ、行方知れずじゃなかったのか。もう顔を見ずに済むと思ったのに、次期侯爵夫人の座が惜しくなったのか?」


 声こそ抑えられているものの、あの蔑む視線を向けられて私の体が竦みかけた時、ノア様の低い声が響いた。


「黙れ」


 次期侯爵がビクッと肩を震わせた。


「初めに言っておきます。私ノア・コーウェンは国王陛下の命により、病で伏せっているはずの宮廷書記官ブラッドリー・ローガンがシェリル・ガードナー夫人と駆け落ちしたという噂の真偽を調査しており、その結論が出たので関係者にお集まりいただきました。陛下はご多忙につきご臨席なされませんが、ここでの言動もすべて陛下にご報告されると覚えておいてください」


 ノア様はぐるりと室内を睥睨した。


「このとおり、ブラッドリー殿はガードナー夫人とともに先ほど無事発見、保護されました。念のため、医官に診察してもらいましたが、特に問題はないということでした。これはブラッドリー殿が屋敷で病に伏せっているという話が虚偽だった何よりの証拠になると思いますが、いかがですか、ローガン侯爵夫人?」


 言葉に詰まる侯爵夫人の隣で、侯爵が口を開いた。


「息子はどこにいたのですか?」


「ハミルトン侯爵邸です」


 ノア様の答えに侯爵は嘆息した。推測するなら、呆れか諦めか。


「ローガン侯爵夫人、あなたはご子息があなたのご実家にいたことを知っていましたね? なぜご子息の愚かな行為に協力したのです?」


 侯爵夫人はしばらく逡巡していたが、やがて口を開いた。


「息子が哀れでならなかったのです。想い合う令嬢がいたのに別の相手と結婚しただけならまだしも、迎えた嫁はどうしようもない悪妻でブラッドリーを軽んじるばかりでしたから」


「だとしても、まずパトリシアを離縁して、それから再婚を考えさせるべきだったのでは? 例えパトリシアが同意しなくても、当主であるローガン侯爵が正当な理由をもって宮廷に申し立てれば離縁は可能です。こんなことは私より法務官であるローガン侯爵のほうが詳しいでしょうに」


「それは、そうなのですが……」


 侯爵夫人は夫を横目で窺った。


「あるいは、ローガン家の側に何か離縁できない理由があるのですか?」


 ノア様もローガン侯爵を見つめた。それを受け、侯爵が口を開いた。


「もうなくなりました。離婚でも再婚でもおまえの好きにすればいい」


 後半の言葉は次期侯爵に向けられた。次期侯爵の顔に喜色が浮かんだ。

 あの人もあんな顔をするのかと、むしろ気分が悪くなった。


「でしたら私はその女と離婚して、シェリルを妻にします」


「ブラッドリー、ちょっと待って」


 侯爵夫人がどこか怯えるような表情で声を上げた。


「これ以上、何を待つのですか。母上だって私とシェリルが早く本当の夫婦になれればと言ってくれたではないですか」


 侯爵夫人が息子に言葉を返す前に、ノア様が侯爵に尋ねた。


「ご子息の希望どおりでよろしいですか?」


「構いません」


「パトリシアは何か言うことはあるか?」


 ノア様に一応という感じで問われ、私は小さく首を振った。


「ローガン侯爵に従います」


 ノア様が横にいる文官に短く視線を送ると、文官はノア様の前に紙を置き、ペンを手渡した。

 ノア様はすぐにペンを走らせはじめ、だが「そういえば」と顔を上げられた。


「令嬢がひとりいるのでしたね。その処遇はどのように?」


「私が引き取ります」


 クレアのことだけは何があっても譲れないので声を上げると、次期侯爵は鼻で笑った。


「私の子はこれからシェリルが産んでくれる子だけです」


「では、パトリシアが引き取るということで」


 ノア様が再びペンを走らせた。

 しばらくするとペンが置かれ、文書を読み直して確認しているのが窺えた。

 それから再びペンを取ったノア様は、ふと思いついたという様子で仰った。


「私から提案があります。ブラッドリー殿とパトリシアの夫婦関係は実質的にはブラッドリー殿がガードナー夫人と暮らし始めた時には終了していたと考えられます。よって離縁の申請日もそれに合わせるのが良いのでは?」


「そんなことができるのですか?」


 次期侯爵が怪訝な顔で尋ねた。


「特例になりますが、陛下も事情をお聞きになれば許可なさると思います」


「では、それでお願いします」


 ノア様は日付を書き込むと、傍に控えていた文官にその用紙とペンを渡した。

 文官はそれらをローガン侯爵のもとに運ぶ。ローガン侯爵が内容を検めてからサインをすると、次は次期侯爵へ。


「あの、先ほど公爵の仰っていた離婚理由が書いてありませんが」


「理由がいるのは一方の同意が得られない場合です。ちなみに宮廷がその理由が正当なものだと確認できるまで待たねばならないので時間がかかります。今回は双方同意なので必要ありません」


 次期侯爵が納得した様子でサインをすると、用紙は私の前へと運ばれてきた。


 私も文書を確認した。間違いなく離縁の申請書だ。

 申請日は次期侯爵とシェリル様が再会したというパーティーの開催日前日で、クレアは私が引き取ることもきちんと明記されていた。

 慰謝料などの条件については別途協議するとも書かれており、最後に文書作成者としてノア様のお名前が記されていた。

 震えそうになる手を何とか宥めてしっかりとサインをし、文官に返した。


 文官は書類をノア様に戻し、ノア様は3人分のサインを確かめてまた文官に渡す。

 文官はそれを手に会議室を出て行った。


 全力で駆けた直後みたいに胸がバクバクしていた。

 あと必要なのは、陛下のサインだけ。

 こんなに呆気なく離縁できるなんて、嘘みたいだ。駆け落ち問題が片付いてからだろうと思っていたのに。




 昨夜、ノア様が私にお話ししてくださったのは、おそらくローガン次期侯爵はハミルトン邸にいるという推測だった。


 次期侯爵の駆け落ちに侯爵夫人が関わっていると考えたノア様がまず隠れ場所として疑ったのはローガン領だった。

 でも、ローガン領は侯爵夫人や次期侯爵にとって勝手知ったる場所ではない。


 となると、次に怪しいのは侯爵夫人の実家ハミルトン家だった。

 あまり社交に熱心ではないローガン侯爵夫人も、実家とは疎遠でなかった。

 さらに、ハミルトン家は近年あまり羽振りが良くなく、侯爵夫人が密かに援助していたらしい。

 おそらく私から取り上げた嫁入り道具も、私のために使われるはずだった生活費も、ほとんどハミルトン家に回されていたのだろう。

 ローガン家において侯爵夫人が自由に裁量できる金額など微々たるもので、ハミルトン嬢がアンダーソンドレス工房のドレスを両親に強請れないような状況だったが、それでもハミルトン侯爵は姉からの厄介な頼み事を断れなかったようだ。


 ともかく、ノア様はハミルトン家の屋敷と領地に狙いを絞ったもののすぐに踏み込むわけにはいかず、ローガン次期侯爵とシェリル様が屋敷にいる確証を得るため調査を続けていらっしゃった。

 そして、どうやらハミルトン邸に長期滞在している人がいることはわかった。


 最終的には私の居場所をハミルトン嬢に知られたことでローガン侯爵夫人より先手を打ってハミルトン邸に突入することになってしまったが、ノア様に確証はなくても確信はあったそうだ。

 ハミルトン嬢が私を揶揄するために口にした「夫に捨てられた人」。

 ノア様によれば、私を捨てたいのはローガン次期侯爵であり、侯爵夫人はローガン家に連れ戻したいはず。ハミルトン嬢の口からその言葉が出てきたのは次期侯爵からそれを聞いたから。

 それに、パーティーでシェリル様がアンダーソンドレス工房の「幸せになれるドレス」を着ていたことまでハミルトン嬢は知り得たのだ。


 ノア様はさらに上手くいけば離縁にまで持ち込めると仰っていたが、あまり詳しく知っているよりもその場で初めて聞くほうがいいと、話してくださったのはそこまでだった。




「では、本題に戻ります」


 ノア様が告げると、浮かれていた次期侯爵がハッとしたのがわかった。


「ブラッドリー殿は己の意志でローガン邸を出て、ガードナー夫人とともにハミルトン邸に滞在していた。ローガン侯爵夫人がそれに協力した。ゆえにあなたはご子息の消息を気にする必要がなかったし、ブラッドリー殿はパトリシアが屋敷を出たことを知っていた。侯爵夫人が時おりハミルトン邸を訪れていたことも調べがついています」


 そこで次期侯爵が「あの」と声を上げた。


「先ほどから気になっていたのですが、シェリルのことをそんな風に呼ぶのはやめていただけませんか」


「まだジェフ・ガードナー氏との離縁が成立していない以上、彼女はガードナー夫人です」


 ノア様は淡々と、だが有無を言わせぬ調子で仰った。


 それならなぜ私のことは最初から「パトリシア」呼びだったのか、あるいはローガン侯爵は疑問を持ったかもしれないが、口には出されなかった。


「続けます。ブラッドリー殿が屋敷を出た翌日にはローガン家から宮廷に病欠の連絡があり、さらに翌日、病が重いためしばらく出仕できないとの届がローガン侯爵より出された。侯爵、なぜ失踪ではなく病だと嘘の届を?」


「妻からブラッドリーが駆け落ちしたと連絡が来た時、おそらく妻自身が関わっていて居場所もわかっているのだろうと考えました。だから失踪届などを出して騒ぎにしたくはなかったのです」


「なるほど。しかし、しばらくすると社交界でブラッドリー殿はガードナー夫人と駆け落ちしたという噂が流れはじめた。いったいどこから情報が漏れたのでしょうね?」


「きっとガードナーです。あの男はシェリルを探しに屋敷にまで押しかけたそうですから」


 次期侯爵は吐き捨てるように言ったけれど、それは夫として至極真っ当な行動だと思う。

 その時、屋敷にいたはずの私が気づかなかったのだから、押しかけるといっても穏当な方法だったのだろうし、ノア様をも追い返したローガン侯爵夫人のほうが手荒な真似をした可能性が高い。


「それはないでしょう。このところ、貴族と平民も交流する機会が増えていますが、まだまだ距離があるのが現状。流れる噂も、貴族社会と平民社会では異なるものです。例えばそのガードナー氏ですが、平民社会では年若い妻をずいぶん可愛がっていたと言われています」


「まさか」


「実際、結婚後、ガードナー氏が夫人を伴う姿はあちこちで目撃されていますし、ドレスなどを買い与えていたことも確認できました。少なくともガードナー氏が夫人を屋敷に閉じ込めていたという貴族社会での噂は真実ではなかったということです」


「だけど、シェリルはあの男に妻らしい扱いをされなくて寂しかったと言っていたのですよ」


 ノア様は次期侯爵を一瞥しただけだった。


「逆に、結婚してから社交界で姿が見られなかったのはパトリシアです。わずかな目撃情報はすべてここ数か月、ブラッドリー殿が屋敷を出た後のものでした」


「外に出なかったのはその女の意思ですわ。屋敷の中ではそれはもう傍若無人に振る舞っていたのですから」


 侯爵夫人が言い募った。


「では、サイズの合わない夜会ドレスを着て気分を悪くしていたのも、パトリシア自身の意思ですか?」


「それは……」


 その時、あの文官が会議室に戻ってきた。

 文官は真っ直ぐノア様のもとに向かい、数枚の紙を手渡し、さらに何やら囁いた。

 ノア様は頷いてから、1枚の紙を私たちに向かって掲げた。


「陛下より申請日付でブラッドリー殿とパトリシアの離婚が正式に認められました」


 先ほどの離婚申請書に国王陛下のサインが記されているのが見えた。

 これで、私とクレアはローガン家から解放されたのだ。その事実に歓喜で体が震え、鳥肌が立つのを感じた。


 次期侯爵の口元にも歪んだような笑みが浮かんだ。


「では、すぐにシェリルとの結婚も申請します」


「それは無理です」


「ああ、女性は離婚直後の再婚は控えるよう言われていましたね。どのくらいたてば認められるのですか?」


「ガードナー夫妻は離縁しません。ですから、無理です」


 次期侯爵が大きな音を立てて立ち上がった。


「そんなの、あの男が勝手に言っているだけに決まってる」


「宮廷では双方同意の上での結婚継続と判断しました」


「でも、シェリルが……。母上だって……」


「ガードナー夫人は夫から妻ではなく、娘のように扱われることに不満を感じていたそうです。それを聞いて虐待を受けていると勝手に解釈したのはあなたより侯爵夫人が先だったのでしょうか? そこから自分たちがパトリシアにしていたことをガードナー氏が夫人にしていたかのように社交界に広めたのではありませんか?」


「なぜそんなことをしなければならないのですか」


 侯爵夫人が上擦った声で言った。


「ブラッドリー殿がガードナー夫人を強引に拐ったという事実を隠し、ふたりは駆け落ちをしたのだと皆に信じ込ませるためです」


 次期侯爵が起こしたのはただの騒動ではなく事件だったと聞き、私も思わず息を飲んだ。

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