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17 見つかった証拠

 指先で自分の唇に触れながらメイさんの唇の感触を思い出して頬を熱くしているうちに、夕食の時間になった。

 気持ちはまだまだ落ち着かないままで、自分の気持ちを自覚したこともあってどんな顔をしてメイさんに会えばいいのかわからないが、クレアと食堂に向かった。


 食堂では向かいに座るメイさんの顔をまったく見られなかった。

 いつものようにメイさんから話しかけられたりすることもなかった。


 早々に客間に退がり、そろそろクレアを寝かしつけようかと思っていた頃、今日は来ないのではと思っていたメイさんがやって来た。

 でも、メイさんが告げたのはノア様が呼んでいるということだった。


 クレアをネリーに預け、メイさんとともに部屋を出た。

 やはり視線を合わせることも話すこともないまま、私はメイさんの少し後ろをついて歩き、ノア様の待つ談話室に向かった。


「メイに聞いた」


 ノア様にそう言われて、てっきり口づけしてしまったことを知られてそれについて咎められるのかと思った。


「ハミルトン嬢とどんな話をしたのか、パットからも聞かせてもらいたい」


 いくらなんでも口づけしたなんて報告はしないかと自分の勘違いに呆れつつ、すっかり忘れかけていたハミルトン侯爵令嬢とのやり取りを思い出せるだけノア様にお話しした。

 公爵弟のメイさんがドレス作りをしていることに関してハミルトン侯爵令嬢に反論した降りを話すのは居た堪れなかったけれど、ノア様とメイさんにそれを気にする様子はなかった。


「ハミルトン嬢に知られたからにはすぐにローガン侯爵夫人にも伝わるだろう。だが、こちらも概ね準備は整った。明日、片を付ける」


「片を付けるというのは、つまり、ローガン次期侯爵の駆け落ちの証拠などが見つかったということですか?」


「ああ。正確に言えばブラッドリー・ローガンが屋敷に不在の証拠だが、明日の朝には手に入るだろう」


 あまりの早さに驚いた。

 私がノア様と初めてお会いしてまだ半月。おそらく陛下から調査を命じられてからだって1月足らずではないだろうか。


 ノア様は口角を上げ、その「証拠」についてお話ししてくださった。




 談話室から客間へと戻る時にもメイさんが一緒だったけれど、相変わらずお互いに黙ったままだった。

 先ほどまではノア様のお話を聞きながら明日のことを考えていたのに、メイさんとふたりになるとやはりあの口づけのことが頭を占めてしまう。


 なぜメイさんはあんなことをしたのだろう。

 それに、「誤解されたくない」とか「大切にしたい」という言葉はどう受け取ったらいいのだろう。

 少しくらいは好意が含まれていたのか、大した意味はなかったのか。メイさんに聞きたいような、聞くのが怖いような。


 考えているうちに、あっという間に客間の扉の前についた。


「僕はこれで。お休みなさい」


 中に入ってクレアに会っていくのだと思っていたところにそう言われて、咄嗟に「あの」と呼び止めていた。

 振り向いたメイさんと目が合ってしまい、慌てて視線を下げた。


「夕方のことなのですが」


 そう口にしたものの先が続かず、再び沈黙が落ちた。


「あれはとりあえず忘れてください」


 メイさんから早口で告げられた言葉に、私の思考が固まった。


「今はローガン家の問題を優先しましょう」


「……はい」


「じゃあ、また明日」


「お休みなさいませ」


 メイさんを見送ってから客間に入ると、クレアはもう眠っていた。


「おやすみ、クレア。ぐっすり眠って良い夢を見るのよ」


 いつもの文句を口にして頭を撫でてから、私も寝支度を整えてベッドに入った。

 でも、眠気は訪れず、気づけばまた唇に触れていた。


 メイさんの言ったとおり、今はローガン家のことを優先して考えるべきだ。

 明日は久しぶりに見たくなかった顔を見ることになるのだから。


 だけど、メイさんからの口づけを忘れることなんて私にはできない。

 メイさんが誰にでも同じようなことをする軽薄な方だとは思わないけれど、例えメイさんにとってはあれが気まぐれな行為だったとしても、ほんの数時間で「忘れろ」なんて言ってほしくなかった。




 翌朝、身支度を終えると屈んで目の高さを合わせクレアに告げた。


「クレア、今日、お母様はやらなければならないことがあって、どうしてもクレアを連れて行けないの。セアラ様やソフィアやエルマーたちとお屋敷で待っていてくれる?」


 クレアを連れて行くかどうかは任せると、ノア様に言われていた。

 他人の目のあるところでローガン家の方々がクレアや私に危害を加えることはないと思うが、以前「お祖母様に会いたくない」と言っていたクレアを敢えてあの人たちに会わせたくはなかった。

 でも、クレアが一緒に行きたいと泣くようなら連れて行くつもりだった。


 クレアはしばし私の顔を見つめてから、コクリと頷いた。


「クレア、まってる」


 私はしっかりとクレアを抱きしめた。


「ありがとう。明日は一緒に行こうね」


「うん」


 ノア様も、メイさんと私も、普段より早い時間にお屋敷を出た。

 玄関ホールでソフィアと手を繋いで見送ってくれたクレアの顔に不安の色は見えなかった。




 アンダーソンドレス工房に到着すると、メイさんと私はまずアンダーソン家を訪ねた。

 用件は、今日お休みをいただきたいとお願いすること。事情を説明し、急遽になってしまったことを謝罪した。


 さらに申し訳ないのは、メイさんもということだった。

 ノア様は「メイは来なくていい」と仰ったのだが、メイさんは「一緒に行くに決まってるだろ」と即答してくれたのだ。


 私たちの話を聞いたアンダーソンさんは快く了承してくださった。


 それから、メイさんと私は毎朝やっている工房の清掃と店舗の開店準備をした。迷惑をおかけするので、せめてこれだけはやろうと決めていた。

 途中、やって来たイーサンさんは私たちを見て苦笑した。


「何も知らない人が見たら驚くだろうな。何で貴族様が工房の掃除してるのかって」


 今日のメイさんと私は平民風の仕事服ではなく、貴族風の衣装を着ていた。

 乗ってきたのもジョナスが御す箱馬車だった。

 ジョナスは清掃を手伝うつもりだったようだけどメイさんにピシャリと断られ、工房の裏に停めた馬車で大人しく待っている。


「しっかりやって来いよ」


 イーサンさんにそう送り出された私たちが向かうのは、王宮だった。




 今日が大事な日になるとわかっているのに、メイさんとふたりきりになるとやはり別のことに思考を捉われた。

 荷馬車の御者台でなく箱馬車という閉ざされた空間にいるせいかもしれない。


 ウォルフォード家の夜会で偶然助けてもらい、ローガン家から逃げて辿り着いたアンダーソンドレス工房で再会して手を差し伸べてもらった。

 ずっとクレアにも私にも優しくしてくれて、今日だってお仕事を休んでこうして一緒に来てくれた。

 ただ感謝すべき恩人のメイさんに、恨みがましい気持ちを向けるなんてお門違いだとわかっている。

 メイさんのほうは今朝、食堂で顔を合わせた時から本当に忘れてしまったかのようにいつもどおりに戻っていて、私もいつもと変わらぬ態度を心がけていたけれど、内心はモヤモヤしていた。

 こんなものを抱えたままでは、これから起こるはずのことに集中できそうになかった。


「メイさん」


 呼びかけた声は思ったよりも固かった。


「はい?」


 隣に座るメイさんと目が合った。


「こんなこと、今、蒸し返すべきでないのはわかっているのですが、その、昨日の夕方の……」


 メイさんの顔がわずかに歪んだように見えた。メイさんも本当に忘れたわけではないのだとわかり、さらに続けた。


「あれを忘れるなんてできません。メイさんには大した意味がなかったとしても、私はすごく嬉しかったから」  


 メイさんの目が丸くなった。


「え、嬉し……? え? だって、パトリシアさんは逃げていって……」


「逃げたのは、とても驚いたせいです。メイさんとあんなことをするなんて思ってもみませんでしたし、それに、生まれて初めてだったので」


「……初めて?」


「子どもがいるのに何を言っているのかと思われるかもしれませんが、本当にあれが初めてなんです」


 メイさんは右手で顔の下半分を覆い、呻いた。


「すみません、その可能性に気づかなくて、嫌がられたのだとばかり」


 言われてみれば、あの時の私の行動はそう勘違いされても仕方ないのかもしれない。だとすると、メイさんを傷つけてしまったのではないかと今さら気づいた。


「こちらこそ、申し訳ありませんでした」


 メイさんは「いえ」と応えてから右手を外した。現れた顔にはどこか悪戯っぽい笑みが浮かんでいた。


「一応言っておきますが、僕が忘れましょうと言ったのはあくまでローガン家の問題が片付くまではってことで、片付いたら改めて思い出してもらって、隙あらばまたするつもりだったんですけど」


「え?」


 メイさんの右手が私の頬に添えられ、親指が唇を撫でた。一気に体温が上がった気がした。


「せっかくだし、今しましょうか?」


 メイさんがゆっくりと距離を詰めてきたので、思わず身を縮めた。

 その時、御者台との間にある窓が軽く叩かれた。


「着きますよ」


 ジョナスの声に慌てて窓の外を見れば、王宮の門が目の前だった。


「残念、時間切れか」


 その言葉にホッとして、私は体の強張りを緩めた。


「隙あり」


 こめかみにメイさんの唇が落ちてきた。




 王宮のエントランスでノア様の部下だという若い文官が私たちを待っていた。


 結婚前、夜会やお茶会で王宮を訪れたことはあったけれど、今回は目的がまったく異なる。

 足を進めるごとに自分が緊張していくのがわかり、隣にメイさんがいてくれてよかったと心底思ったが、先ほど馬車の中に漂ったふわふわした空気までは引きずって来られなかった。


 文官に案内されたのは、小さな会議室のようだった。扉の前にふたりの衛兵が立っていた。


「ローガン侯爵夫妻はすでにいらっしゃっております。コーウェン公爵も間もなくいらっしゃるはずですので、少しお待ちください」


 そう言って、文官が扉を開けた。


 中は王宮らしい豪奢な内装で、長机が四角い形に並べられていた。

 そこに足を踏み入れた瞬間、右手側の席に座っていたローガン侯爵夫妻の姿が目に入った。


「おまえは」


 扉が閉められると、侯爵夫人が憎々しげに言った。


「本当にとんでもない女だわ。勝手に屋敷を出るなんて、ローガン家の人間だという自覚がまったくないのだから」


 久しぶりに聞く声に無意識のうちに身を竦ませた私の横で、メイさんが小さく、でも部屋にいる人にはわかる程度に笑った。


「話を聞いて想像してたとおりだ」


 誰にともなくそう呟いたメイさんに、侯爵夫人はますます目を怒らせた。


「ブラッドリーという立派な夫がいながら、男を作っていたのね。しかも、そんな低俗そうな男。おまえにはお似合いかもしれないけれど、私たちに恥をかかせないでちょうだい」


 長らく女性だけのお茶会などにしか参加していなかったローガン侯爵夫人はメイさんを知らないのだろうけど、どうしたらメイさんを見て「低俗そう」などという言葉が出てくるのか。

 メイさんと私は貴族風の服装なので工房にいると浮いていたが、清掃をするつもりだったからそれ程きっちりもしておらず、王宮に入るのにギリギリ失礼にならないくらいだった。

 だから、侯爵夫人はメイさんの服装だけを見て判断し、彼の誰よりも堂々とした立ち居振る舞いは見えていないようだ。


 反論すべきだと口を開きかけるが、先に声を発したのはローガン侯爵だった。


「やめないか。場を弁えろ」


 侯爵は相変わらず表情からは何を考えているのか読み取れなかった。

 侯爵夫人は不本意そうながら口を噤んだ。


 私は改めてふたりに礼を取った。


「お久しぶりにございます」


 応えのないことは気にせず、私はふたりの向かいの席に腰を下ろした。メイさんも隣に。


 部屋の中が静寂に包まれたのは束の間だった。

 すぐに再び扉が開き、ノア様がふたりの文官を伴って部屋に入って来られた。初めてコーウェン家の居間でお会いした時の何倍も、周囲を威圧するような表情をなさっていた。

 私たちは立ち上がって迎え、ノア様が奥の席に座ると私たちも着席する。

 文官のうちひとりがノア様の横に座り、机に紙やペンを置いた。記録係だろう。もうひとり、先ほど私たちを会議室まで案内してくれた人は椅子には座らずに傍に控えた。


 ノア様はローガン侯爵、侯爵夫人、私と順に視線を巡らせ、最後にメイさんを睨んだ。


「部外者は出て行け」


 侯爵夫人の口元に笑みが浮かんだ。


 メイさんは眉間に皺を寄せつつ「わかりました」と立ち上がった。


「大丈夫。待ってます」


 私にだけ聞こえる声で囁いてからメイさんは部屋を出て行った。


 メイさんの姿が扉の外に消えると同時に、ノア様が仰った。


「さて。急に呼び立てて申し訳ありません。ローガン侯爵夫人にもご足労いただけて感謝します」


 ノア様が侯爵夫人を名指しされたのは嫌味なのだろうけれど、侯爵夫人は恐れ知らずに返した。


「ブラッドリーが駆け落ちした証拠が見つかったとお聞きしましたが、そんなことよりも、さっさとその女を捕まえてください。その女に私たちがどれほど苦しめられたか」


「そんなこと、ですか。ご子息が姿を消してすでに3か月近くたつというのに、消息が気にならないのですか?」


「ですから、ブラッドリーは屋敷におります。その女のせいで病にかかって寝込んでいるのですわ」


「これを見ても同じことが仰れますか? 入れろ」


 ノア様の言葉で扉で開き、数人の衛兵に囲まれる形でひとりの人物が会議室に入ってきた。

 ローガン侯爵夫人が目を瞠った。


 メイさんは隣にいなくてもノア様がいるのだし、衛兵たちもいるのだから大丈夫。

 そうわかっていても、顔を見ればやはり体が強張るのを感じた。


 衛兵に促されてノア様の正面に腰を下ろした「証拠」は、ローガン次期侯爵その人だった。

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