挿話6
夕食を終えてからノアに昼間のことを報告した後、徐に切り出された。
「それで、パットと何があったんだ?」
ノアが気づかないはずないよね。
食堂で顔を合わせたパトリシアさんとギクシャクしていたことは僕も自覚している。
何ならクレアだって気づいていたかも。
「口づけして逃げられた」
ノアは鼻で笑った。
「せっかく嵌めた枷も役に立たずに暴走して引かれたか」
ムッとするけどノアの言うとおりなので反論できない。
だいたい、「大切にしたい」と言った直後に強引に口づけするとか、ありえない。パトリシアさんに拒絶されて当然だ。
でも、パトリシアさんに手を振り払われるまではどこかで甘い考えを抱いていたのも事実。
パトリシアさんは受け入れてくれるんじゃないかって。
2度目の失恋からしばらくたった頃、母上とノアに社交界に出るよう言われた。
ドレス職人として生きるつもりだった僕はあまり気が進まなかったものの、自分の作ったドレスが実際の会場でどんな風に見えるのかを確かめたい気持ちもあって、18歳で初めて夜会に参加した。
アンダーソンドレス工房のお客様とも初めてメイナード・コーウェンとして顔を合わせ、もちろん驚かれた。
顔を青くしていた人もいたけれど、僕はその理由をいちいち両親やノアに説明するほど不躾な人間ではない。
僕がドレス工房で働いているということを知った他の人たちにも奇異の目を向けられた。
ただの道楽だと思った人が多かったようだし、中には僕がドレスを作っているわけではなく工房を経営しているだけと勘違いした人もいたようだ。
面と向かってコーウェン公爵の息子を貶す人間こそいなかったが。
社交界には僕に粉をかけてくる令嬢もたくさんいた。
彼女たちは表面的にはドレスを作る僕を尊敬するようなことを口にしたけれど、内心ではドレス職人という仕事を見下していた人も少なくないのだろう。
そういう人に限って、こちらの都合などお構いなしにアンダーソンドレス工房にやって来た。
ほとんどの令嬢は僕に意味ありげな視線を送ってきてもドレスを見るのが目的だという顔をしているのでまだよかった。
でも、時にはドレスに興味のある振りもしない令嬢もいた。
彼女たちはドレスには目もくれず、「メイナード様」と馴れ馴れしく名前を呼んで擦り寄ってきた。
工房ではコーウェンの名を出されたくないし、「メイ」はさらに嫌なので、黙っているしかない。
本当に腹立たしいが、自分はコーウェン公爵弟ではなく一介のドレス職人なのだからとそれを飲み込み、顔に愛想笑いを貼りつけた。
だから、昼休みにパトリシアさんの待つ工房の扉を開けようとして中から声が聞こえた時、状況はすぐに理解できた。
「あなたはメイナード様がコーウェン公爵弟でいらっしゃるとご存知ないの?」
「もちろん知っていますが、それとこれとは関係ないではありませんか。メイナード様は真摯にドレスを作っていらっしゃるのに、そのような言い方は失礼です」
パトリシアさんの言葉は単純に嬉しかった。やっぱり彼女は僕のことをわかってくれる人だって。
工房の中でパトリシアさんと向き合っていたのは、僕を最も苛立たせてきたハミルトン侯爵令嬢だった。
ドレス職人としての僕だけでなくパトリシアさんをも貶めようとするハミルトン侯爵令嬢に対し、つい今までの鬱憤をぶつけてしまった。
すると、ハミルトン侯爵令嬢は最後に思わぬ捨て台詞を残していった。
「未亡人の次は夫に捨てられた人だなんて、メイナード様は趣味が悪すぎますわ」
今さらそんなことを持ち出されるとは。しかもパトリシアさんの前で。
まあ、あの人とのことは無理に隠したりしなかったから、それなりに社交界で知られていたのはわかっていたけど。
何度めかの夜会でたまたま知り合った8歳上の彼女は「伯爵夫人」と呼ばれていたけど、彼女の夫は結婚して間もなく亡くなり、子どもがいなかったので爵位は夫の弟が継いだということだった。
何となくダンスに誘い、会話を交わしたら思いのほか楽しくて、気づけばそういう関係になっていた。
初めは示し合わせて同じ夜会やパーティーに出席し、ふたりで休憩室に行ったりしていたが、そのうちに彼女の家を訪ねるようになった。
街中にある小さな家は夫の死後に婚家が用意したもので、婚家と実家からの援助を受け、初老の夫婦と暮らしていた。夫人のほうが彼女の乳母だったらしい。
彼女は僕にとって恋人であると同時に頼りになる姉であり、僕の知らないことを教えてくれる教師でもあった。
ひたすら甘えさせてくれる彼女と過ごす時間はとても気楽だった。
彼女は僕を「メイ」ではなく「メイナード様」と呼んだ。後にも先にも僕がその呼び方を認めたのは彼女だけだ。
彼女は僕の話を面白そうに聞いてくれた。ドレス職人としての僕の話も。
だけど、ある時気がついた。
ドレス作りや工房のことは、あくまで彼女にとってはお話の中の世界だった。彼女自身がその世界で生きることなどありえない。
彼女との時間は永遠には続かないことを理解した僕は、将来について考えないようにした。
約2年に及んだ彼女との関係の終わりを僕に告げたのはノアだった。彼女が再婚する、と。
相手は彼女よりいくつか歳上の、数年前に妻を亡くした子爵で、是非にと彼女を望んだらしい。
僕が思ったのは、やっぱりノアには気づかれていたんだなということと、もう彼女と同じ時間は過ごせないんだなということ。
翌日、彼女に会いに行き、お別れをした。
寂しさはあったし、胸がまったく痛まなかったとは言わない。
それでも、笑顔で「幸せになって」と伝えられたし、彼女も同じ言葉をくれた。
彼女の結婚後も社交の場で顔を合わせることは何度かあって、挨拶を交わした。
彼女はいつも夫と一緒で、幸せそうに笑っていた。
彼女の夫も僕たちのことを知っているのかもしれないけれど、常に涼しい表情だった。
僕の胸が痛むことはもうなかった。
ハミルトン侯爵令嬢の言葉を聞いたパトリシアさんは、何か僕に言いたいことがありそうな顔をしながら、口を開けば出てくるのは別の話ばかりだった。
あの人は僕にとってもう過去だ。パトリシアさんに変な誤解をされるくらいなら、僕から切り出して説明してしまおうか。
そう考えた時、パトリシアさんが口にしたのは実家に帰ることだった。
まだローガン家と離縁できていないのに、パトリシアさんが僕との将来なんて考えられないことはわかっていた。
だけど、僕がパトリシアさんに向けているほどでなくても、彼女も僕に好意を持ってくれているんじゃないかとは思っていた。
でも、口づけなんてするべきじゃなかった。
多少の好意があったとしても、きっとあれですべて台無しだ。
駆け去っていくパトリシアさんを呆然と見送ってから、僕がその場で頭を抱えて蹲ったのは言うまでもない。
「パットを呼んできてくれ」
あの時のことを思い出してまた蹲りたくなった僕に、ノアは無慈悲にそう言った。
いや、ローガン侯爵夫人の姪だというハミルトン侯爵令嬢にパトリシアさんの居場所が知られたのだから、今後について話し合うなら彼女も呼ぶのは当然だ。
それに、こういう理由でもなければパトリシアさんと顔を合わせづらいのも事実で、僕はありがたく彼女の部屋に向かうことにした。




