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2 針を持つ貴公子

 その夜もひとりで出かけたローガン次期侯爵は、翌朝になっても屋敷に戻らなかった。

 さらに翌日、どうやら次期侯爵はあるパーティーに参加して、そこで偶然会ったシェリル様と一緒に消えたらしいとわかった。


 侯爵夫人は次期侯爵が駆け落ちをしたのは妻が至らないせいだと私を責めた。次期侯爵が私を妻と思っていなかったことなど、知っているはずなのに。

 ならばと私は侯爵に離縁を申し出たが、「そんなことを言う暇があるなら仕事をしろ」と言われた。

 侯爵は「息子は病で伏せっている」と宮廷に届けたらしく、夫人や私にもそういうことにしておけと言った。


 さらに、侯爵は私に社交に行けとも命じた。

 結婚してから社交界に出ていなかった私には無理だと訴えたが、もちろん無視された。


 それでも私が行ってみようかと思えたのは侯爵が出席を指示した夜会がウォルフォード侯爵家で行われるものだったからだ。

 ウォルフォード前侯爵夫人は私が子どもの頃から尊敬して止まないクレア夫人の実の妹だ。

 コーウェン家も1年ほど前に代替わりして、クレア夫人は前公爵夫人になられていた。すでに一線を退かれた方々が夜会に姿を見せられる可能性はかなり低いが、クレア夫人に縁ある場所なら行きたかった。




 夜会の当日になってメイドに見せられたのは、たっぷりとドレープのある赤と黒のドレスだった。高級そうではあるが新しいものではないようだ。

 これも侯爵夫人の趣味だろうか。私にはまるで似合っていないうえ、サイズが小さくてきつく、裾も短かった。

 そのうえ、あの婚約記念の首飾りまでつけられて、私はますます酷い姿になった。


「おかあさま、じょおうさまなの?」


 クレアにそう言われて苦笑した。

 確かに、いつもクレアに聞かせているお話に出てくる悪の女王様みたいだ。


 ドレスとは逆に靴は大きかったので、爪先に詰め物をした。結婚してから初めて履く踵の高い靴だ。

 メイドが私の髪を痛いくらいに引っ張って纏めてくれたため、身支度を終えた時点ですでに疲れきった気分だった。


 さらに私を嫌な気持ちにさせたのは、出かけようとした私の前に侯爵夫人がやって来て、クレアの手をしっかりと握ってみせたことだ。

 普段、母親以外からそんなことをされることのないクレアも戸惑っているようだった。


 ずっと屋敷を出られなかった私は、クレアと長時間離れたことがなかった。だから、初めて気がついた。侯爵夫人にとってクレアは私を逃さないための人質なのだ。

 夫人自身は私なんかさっさと追い出したいに違いないが、侯爵にその気がない以上、逃げられるわけにはいかないのだろう。


「クレア、お母様はちょっとお出かけするけど、なるべく早く帰ってくるから良い子で待っていてね」


 私がにっこり笑ってそう言うと、クレアは不安そうな顔で頷いた。

 次に私は侯爵夫人を見てから、頭を下げた。


「クレアのこと、どうぞよろしくお願いいたします」


 侯爵夫人はただ嘲るように笑った。




 ウォルフォード家の夜会に参加したのは初めてだが、とても華やかで賑やかだった。

 そこに連れもなく、さらに似合わないドレスを纏って入っていくのだから、誰もが私を見て笑っているのではないかと思ってしまうが、それでも私は必死で背筋を伸ばした。


 しかし、視線を上げていれば自分の着ているドレスの色やデザインは見ずにすむが、窮屈なことまでは無視できなかった。

 会場の大広間の隅で開会を待っているうちに苦しくて堪らなくなり、ウォルフォード侯爵のご挨拶が始まった頃には頭がぼんやりして声が耳に入ってこず、ただでさえ遠くにいらっしゃる侯爵のお姿が揺れて見えた。

 ご挨拶が終わってから乾杯となっても飲み物さえ喉を通りそうになく、私はグラスを近くにあったテーブルに置くと会場の出口に向かった。とにかく涼しい場所で少し休みたかった。


 扉を潜ったところでとうとう足元が振らついた。だが、私の体が崩れ落ちることはなかった。


「大丈夫ですか?」


 声のしたほうを見上げれば覚えのない男性の顔があり、その方が私を支えてくださっているのだとわかった。


「申し訳ありません。大丈夫です」


 慌てて姿勢を正して離れようとしたが、さらに振らついて逆に男性に寄りかかる形になってしまった。


「大丈夫ではなさそうですね。顔色が悪い。……失礼します」


 そう言ったかと思うと男性は私を抱き上げ、そのまま歩き出した。


「あ、あの、降ろしてください」


「すぐそこにある休憩用の部屋まで運ぶだけですから、我慢してください」


「……はい」


 この状況に困惑するものの、大人しく男性に運ばれるしかなかった。


 いつもは私が娘を抱き上げる側で、クレアはだんだん重くなってきたな、などと考えたりしているのに、男性はクレアよりずっと重いはずの私を軽々と運んでいるように見えた。

 こんな風に誰かに抱き上げられるなんて、子どもの頃を別にすれば初めてのことだ。

 それに気づくと、背中と膝裏にある力強い腕の感触を妙に意識してしまった。


 やはり断るべきだっただろうか。夜会の休憩室は密会場所の定番だとどこかで聞いたような。

 いやいや、この男性はただの通りすがりの親切な方だ。だいたい、悪の女王ドレスの女を密会相手に選ぶ酔狂な男性などそうそういないだろう。


 幸か不幸か、休憩室は本当にすぐそこだった。

 夜会は始まったばかりで、少し休もうという方がまだいるはずもなく、私たちの唯一の目撃者は休憩室の傍にいたメイドだけ。

 メイドは私たちを見て少し驚いたような表情を浮かべたものの、何も言わず1番近くの扉を開け、男性がその中に入るとゆっくり閉めた。


 男性は私を部屋の真ん中に降ろしてくださった。

 私は踵の高い靴を履いているのに、向かい合った男性の瞳は見上げる位置にあった。


「ご親切にありがとうございました」


 頭を下げた私に、男性が尋ねた。


「ドレス、ひとりで脱げますか?」


「……は?」


 私は固まった。この方が私をここに連れてきたのはやはりそれが目的?

 視界の端に見えるベッドの存在感がいくぶん増したような気がした。


 だが、私の考えを読んだかのように男性が苦笑した。


「別にあなたに不埒なことをしようなんて思っていませんよ。具合が悪くなったのはそのドレスのせいでしょう?」


 私が窮屈なドレスを無理矢理着ていることにこの方は気づかれていたのか。それなのに、私は何という失礼な勘違いを。


 私は急いでまた頭を下げた。


「申し訳ありません」


「いや、まあ、こんなところでふたりきりになればそう思われても仕方ありません。それよりも、ひとりで脱げないなら手伝いますし、何ならさっきのメイドを呼びますが」


 ドレスは背中で鈕を留める形なので、ひとりでも脱げないことはないが時間がかかる。少しでも早く楽になりたい今は、できれば人の手を借りたかった。

 となると、本来ならメイドを呼んでもらうべきところだが、目の前の親切な男性を一瞬でも疑ってしまったことに対する罪悪感から私は別の答えを口にした。


「では、背中の鈕を外していただけますか?」


「了解しました」


 私が男性に背中を向けると、ドレス越しに男性の指が触れるのを感じた。

 静かな部屋の中で鈕が外されていく微かな衣擦れの音と、いつもより早い自分の心音だけが聞こえた。


 男性はそれほど時間をかけずに腰のあたりまで並んだ鈕をすべて外してくださった。

 私が急いで男性に向き直ると、男性は私のドレスを見下ろした。


「まだ苦しそうですね。早く全部脱いでください」


「いえ、さすがにそれは……」


 私が咄嗟に首を振ると、男性はまた苦笑した。


「私は外に出ていますから、ドレスは脱いでシーツにでも包まっていてください。私はその間に必要な道具を取ってきて、ドレスを直します」


「直すって、あなたがですか?」


「はい。得意なので任せてください」


 男性は大柄というほどではないががっしりした体格をしていた。顔つきは男らしいが品があり、いかにも貴族、それもかなり高位の家の方に見えた。

 そんな方がドレスを直すなど冗談としか思えず返す言葉に悩んでいるうちに、男性は部屋の外へと出ていった。


 きっと裁縫が上手なお知り合いがいて、その方を連れてきてくださるに違いない。有難いことだけど、その方が男性の奥様だったりしたら修羅場にならないかしら。

 そう考えつつ、私は男性に言われたとおりドレスを脱いで下着姿になり、ドレスはソファに置いて、ベッドにかけられていたシーツを体にしっかりと巻きつけた。

 体は一気に楽になったが、やはり胸の鼓動は収まらなかった。


 やがて扉がノックされ、先ほどの男性の声が「入っていいですか?」と問うてきた。

 私の「どうぞ」という応えで再び部屋に入ってきた男性は、手に裁縫箱らしきものと黒い布を持っていた。


 男性はそれらをテーブルの上に並べて箱の蓋を開いてからソファに座り、私が脱いだドレスを手にした。鈕を外した状態のままの背中部分を検分しているようだった。

 そして箱の中から鋏を取り出すと、一瞬だけ私を見てニッと笑い、ドレスについている1番下の鈕よりさらに下、腰の後ろにあたるところを徐に断った。


 本当に男性が作業をはじめたので、私は息を呑んだ。

 しかし男性は迷う様子もなく、次には裁縫箱から針と黒い糸を出し、どうやら薄手のストールらしい黒布をドレスの背中の内側に縫い付けていく。

 男性の骨太な指が細い針を巧みに動かしていく光景に、私は半ば呆然とし、半ば見惚れた。


 瞬く間にストールをドレスの一部にすると、男性はソファの上にドレスを戻して立ち上がった。


「また外に出ていますから、着てみてください」


 部屋を出ていった男性が扉を閉める音で私は我に返り、急いでドレスを着てから扉の外に声をかけた。男性がまた部屋に入る。


「苦しくないですか?」


「はい、まったく」


「では、仕上げに鈕の代わりにこれで留めますね」


 男性がテーブルの上から取ったのは太めの黒いリボンだった。

 それを背中の鈕と鈕穴に交互に通していき、最後に1番上でしっかりと蝶結びにした。


「できました。着心地はあまり良くないかもしれませんが」


「それほど気になりません」


 部屋にあった鏡に背中を写してみるが、見た目にも大して違和感はなかった。


「一応、注意しておきますが、簡単に縫っただけなので激しく動いたり、どこかに引っかけたりしないよう気をつけてください。それから、また着る予定があるなら後できちんと直してもらってください」


「はい」


 男性は改めて私のドレスを見つめ、微かに眉を寄せた。


「正直、もっと色々手を入れたいところですが、夜会が終わるまでやっても満足できそうにありません。本当にあなたに似合うものにするなら、新しいドレスを作ったほうがずっと簡単そうです」


 私も改めて自分が着ているドレスを見下ろした。


「言い訳をさせていただくと、これは私の趣味ではありません」


「そうだろうと思いました。ご自分で選んだなら、気分が悪くなるほどサイズの合わないものにはならないでしょうから。人に自分の趣味を押しつけて喜ぶ人間はどこにでもいますしね」


 この男性は私と同じような方を助けたことがあるのかもしれない。

 そう考えると、なぜか胸の奥のほうがチリチリとした。


「さて、そろそろ戻らないと家族に叱られます。あなたのお連れの方もきっと心配しているでしょう」


 連れなどいないと言うのも何なので、私は「そうですね」と応えてから深く頭を下げた。


「本当に色々とありがとうございました。何かお礼を……」


「それはまたお会いできた時で結構です。どうぞ夜会を楽しんでいってください」


 男性はそう言うと、裁縫箱を抱えて颯爽と部屋から去っていった。それを見送ってから、男性のお名前を聞きそびれたこと、自分も名乗らなかったことに気づいた。

 いや、きっと知らないままのほうが良かったのだろう。


 私も休憩室を出て、再び背筋を伸ばして会場へと向かった。

 ドレスの締めつけがなくなったおかげでその後は気分が悪くなることはなく、会場に用意されていた食事を口にすることもできた。

 数年ぶりに美味しいと感じた。クレアに食べさせてあげられないのが残念だった。


 コーウェン前公爵夫妻もウォルフォード前侯爵夫妻もやはり姿を見せられなかった。


 何度か、大広間の向こう側に先ほどの男性の姿を見つけた。美しく着飾った女性方に囲まれ、この華やかな場に溶け込んでいて、私からは遠い場所にいる方なのだと思った。

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