13 月夜の散歩
土曜日の朝、目を覚ましたクレアにメイさんが絵をもらってくれたと伝えると、クレアは拗ねた顔になった。
「クレアがあげたかったのに、メイ、クレアがねてるときにきちゃったの?」
「そうよね。クレアが起きてから渡せばよかったわね」
メイさんのご迷惑にならないかということばかり気にして、クレアの気持ちを慮ることを忘れていた。
「つぎはクレアがメイにあげるね」
「ええ、そうね。ほら、お母様がもらった絵はあそこに飾ったわ」
私が棚の上の絵を指差すと、クレアは少しだけ照れたように笑った。
身支度をして食堂に向かうと、すでにメイさんがいらっしゃった。
挨拶もそこそこに、クレアが尋ねた。
「メイ、クレアのえは?」
「部屋に飾ったよ。メイのこと描いてくれてありがとう。また描いてくれる?」
「うん。いっぱいかいてあげるから、クレアがおきてるときにきてね」
「わかった」
この調子だと、お父様への手紙に同封するのはやはりメイさんの絵になるのだろうか。
朝食が済んで工房に向かう時間が近づくと、クレアの表情が曇り出した。
私はクレアを抱き上げて笑いかけた。
「さあ、クレア、工房に行くわよ」
クレアはキョトンと私を見た。
「クレアもいっしょ?」
「ええ、一緒」
「うん」
満面の笑みを浮かべてクレアが私の首にしがみついた。
足の痛みはほぼなくなったのに、メイさんは変わらず私が御者台に乗るのに手を貸してくださった。
何の衒いもなく女性をエスコートできるのは、やはりご両親の育て方なのか、お姉様が3人もいらっしゃるからなのか。
メイさんと私でクレアを挟んで座り、馬車が出発した。
「ノアおじさまはいかないの?」
いつもなら私たちと同じくらいの時間に宮廷に向かわれるノア様が、この日はセアラ様方と玄関ホールでお見送りしてくださったことを、クレアは不思議に思っていたようだ。
「ノアは今日と明日は仕事休みなんだ。お母様とメイも明日は休みだから、3人でピクニックに行くよ」
うやむやに終わっていたピクニックの件は、メイさんの中ではすでに決定していたらしい。
「ピクニックってなあに?」
「ええと、ちょっと遠くまで行って、外で遊んだりご飯を食べたりするんだ」
「そとでごはんたべていいの?」
「うん。外で食べると美味しいよ」
「ふうん。おかあさまはおそとでごはんたべた?」
「ええ、食べたことあるわ」
「おいしいの?」
「美味しかったわ」
「へえ。クレアもおそとでたべる」
「じゃあ、明日、ピクニック行こうね」
「いく」
はしゃぎ声をあげたクレアを見てメイさんが微笑み、その表情のまま視線が私を捉えた。私も微笑み返すしかなかった。
この日も昼前にはメイさんがクレアをお屋敷に戻してくださった。
いつもより早い時間にお仕事を終えてメイさんとお屋敷に帰ると、奥からクレアが駆け出してきた。
クレアは腕に白いものを抱いていて、私の前まで来ると両手でグッとそれを突き出した。うさぎの縫いぐるみだった。
「おかあさま、みて。メイがくれたの」
「え?」
驚いてメイさんを振り返ると、メイさんはにこりと笑った。
「絵のお礼です」
「あの絵は……」
とてもお礼をいただけるようなものではなかったのに。
改めて縫いぐるみを見ると、ローガン家から逃げ出した日にアンダーソンドレス工房と同じ通りで見かけたものとは異なるが、これも可愛らしかった。
クレアが両腕でしっかり抱いている様子を見れば、もうすっかりお気に入りになっていることがわかった。
「メイさんに『ありがとう』はきちんと言ったの?」
「いったよ」
メイさんを窺うと、コクリと頷かれた。
「よかったわね。大事にするのよ」
「うん」
着替えてから、ノア様とご家族がいらっしゃるという居間にクレアと向かった。
クレアを見ていただいていたことのお礼を言ってからソファに座ると、私の分だけお茶が運ばれてきた。
少し前までウォルフォード前侯爵夫妻とバートン前伯爵夫妻がそれぞれご家族を伴っていらっしゃっていて、皆様でお話しながらお茶を飲まれていたということだった。
バートン伯爵家はクレア夫人のご実家で、前伯爵とはご姉弟になる。
コーウェン前公爵夫妻がタズルナに旅立たれる前、妊娠中のセアラ様のことをウォルフォード前侯爵夫人とバートン前伯爵夫人にお願いしていかれて、両夫人が数日おきに様子を見に来ると請け負ったのだそうだ。
「タズルナに行くことを決めて向こうにも連絡した後で私の妊娠がわかったものだから、お父様は行くのをやめると言い出されて。ロッティたちに会えるのをとても楽しみしていらしたのに」
セアラ様のお話を聞いていると、前公爵がセアラ様の義父なのか実父なのかわからなくなりそうだった。
それとも、私とローガン侯爵の関係のほうが特殊だったのだろうか。
「それで叔母上たちにご登場願ったわけだが、父上よりおふたりのほうが頼りになるのは間違いないな」
ノア様の言葉にセアラ様は困ったような顔をされた。
「そうそう、叔父様、叔母様方にクレアのことを紹介したら、名付けたパットにも是非会いたかったと仰っていたわ。そのうち会う機会もあるでしょうけど」
また心構えが必要な予定が増えてしまったようだ。
その夜は、夕食が済むとメイさんも客間にいらっしゃった。クレアが昼間に描いた絵を見に来てとせがんだのだ。
クレアはメイさんの絵、私の絵、それにうさぎの縫いぐるみの絵を描いていた。
私の絵とうさぎの縫いぐるみの絵をお父様に送ることにして、メイさんの絵はクレアの手からメイさんに差し上げた。
メイさんがご自分のお部屋に戻ってから、うさぎの縫いぐるみを抱いてベッドに入ったクレアに、エルマーから借りた絵本を読み聞かせた。子うさぎが主人公のお話だ。
最後まで読んで絵本を閉じると、クレアがポツリと言った。
「うさぎさん、おとうさまいないの?」
お話は子うさぎが母うさぎの待つ家に帰るところで終わっていて、父うさぎのことはまったく語られていなかった。
「出てこなかっただけで、いると思うけど」
「じゃあ、クレアとはちがうね」
クレアの言葉に私は首を傾げた。
「何が違うの?」
「あのね、セアラおばさまはソフィアとエルマーのおかあさまで、ノアおじさまはおとうさまなんだって」
「ええ、そうね」
「ほかのみんなもおかあさまとおとうさまがいるんだって。なんでクレアにはおとうさまいないの?」
「クレアにもお父様はいるわよ」という言葉は、喉元で引っかかって出てこなかった。
ローガン次期侯爵は結婚式直後の宣言どおり1度も私を妻として扱わず、クレアにも父親らしいことなど何1つしなかった。
私に向かって暴言を吐き散らすばかりで、クレアの名を呼んだことさえなかった人を、「あの人がお父様だ」なんてクレアに告げたくない。
「ごめんね、クレア。クレアにはおかあさましかいないの。ごめんね」
クレアをギュッと抱きしめて、「ごめんね」を繰り返した。
「クレア、おかあさまがいればいいよ」
今はそう言ってくれるクレアも、いつか本当のことを知ったら私を責めるかもしれない。その時は、甘んじて受けようと思った。
やがてクレアは眠りにつき、私も就寝の準備をして部屋の明かりを絞ったものの、眠れそうになかった。
しばらくベッドの端に腰を下ろし、クレアの寝顔を見つめながら取り留めなく様々なことを考えた。
ふとカーテンの引かれた窓のほうに目を向けるとやけに外が明るく感じられた。立ち上がって窓に近づき、カーテンを静かに開けた。
夜空のだいぶ高い位置に満月がかかっていた。そのため、お庭の様子がぼんやりと見渡せる程に明るかった。
ローガン家で過ごした夜のことを思い出した。
屋敷の中が静かでクレアの寝息のほかは何も聞こえないことに安心したり、こんな夜中に目を覚ましているのは私くらいだろうと思って心細くなったりしていた。
こうして窓から満月の夜の庭を眺めたこともあった。部屋の窓が西向きだったから、空に浮かぶ満月を目にすることはあまりなかったけれど。
今は私に「頼っていい」と言ってくださる方や「我儘言っていい」と言ってくださる方が同じお屋敷の中にいるのに、あの頃のように気持ちが暗いほうへと沈んでいってしまいそうだった。
もうベッドに入ろう。何も考えずにクレアを抱きしめて目を閉じれば、そのうち眠れるはずだ。
そう決めてカーテンを閉めようとした時、視界の端で何かが動いたような気がした。
恐る恐るそちらを窺うとお庭を歩いている人影があって、目を瞠った。真夜中にコーウェン家のお庭に忍び込むなんて、何者だろう。誰かを呼んだほうがいいだろうか。
それにしても、怪しい人物はずいぶんゆったり歩いているように見えた。まるで散歩でもしているように。
さらに目を凝らせば、何だか見覚えのあるシルエットのように思えてきた。
ふいに相手もこちらを見た。私に気づいたらしく一瞬足を止め、それから真っ直ぐこちらに向かって歩いてくる。
もう、間違えようがない。私にヒラヒラと手を振ってみせたのはメイさんだった。
私は急いで窓を開けた。
「驚きました。パトリシアさんの部屋はあそこだなと思って見たら、いるから」
抑えた声でそう言って笑うメイさんに、私も小さな声で返した。
「驚いたのはこちらです。夜中にお庭にいらっしゃるなんて」
「すみません。散歩をしてました」
「こんな時間にですか?」
本当に散歩をなさっていたのか。
「結構気持ち良いんですよ。よかったら一緒にどうですか?」
メイさんにそう言われ、私は振り向いてベッドを窺った。
ローガン家にいた時は、眠っているクレアを置いて部屋を離れるなんて考えられなかったけれど。
「では、少しだけ」
私は室内履きから靴に履き替えて窓際まで戻った。寝巻なのは仕方ない。メイさんだって寝巻姿だ。
メイさんが差し出してくださった手を借りて外に出て、窓をそっと閉めた。
お庭に下りれば放されると思っていた手をメイさんに取られたまま、並んで歩き出す。
「寒くないですか?」
「大丈夫です」
メイさんの大きくて温かい右手に握られているのは左手だけなのに、そこから伝わる熱で全身の体温が上がったような気がしていた。
「たまにするんです、満月の夜の散歩」
メイさんが静かに話しはじめた。
「子どもの頃、この屋敷で夜会が開かれると必ず覗きに行ってたんですけど、ある時、偶然満月で庭がすごく明るくて、でも昼間とは違って幻想的で、しばらくブラブラしてから夜会を覗きに行く途中だったのを思い出して会場に行ったら、僕が来ないって家族が心配していました」
ご家族に申し訳ないと思いつつも笑ってしまった。
「いつもこんなに遅くまで起きていらっしゃるのですか?」
「いつもは早く寝て早く起きるようにしてます。ランプの明かりで縫い物をするのは目に良くないから、できるだけ日の出てる時間にやれって師匠に言われていて。でも、今夜は少しだけのつもりで始めて、気づいたらこの時間でした」
私はメイさんの言葉の意味を考えた。
「もしかして、お屋敷でもお仕事をなさっていたのですか?」
メイさんは「しまった」というような表情になった。
そういえば、メイさんはお仕事が忙しくてご帰宅が遅いとか工房で寝泊りしているとか聞いていたのに、私が働きはじめてからは毎日夕方には一緒にお屋敷に帰っていた。
つまりは、今まで工房でなさっていたお仕事を、お屋敷に持ち帰るようになったということだろう。
「もしも私にお手伝いできることがあれば仰ってください。何でもしますから」
「ありがとうございます。とりあえず今は大丈夫ですが、そのうちお願いすることもあるかもしれません。ところで、パトリシアさんはこんな時間まで何をしていたんですか?」
「少し考え事をしていたら眠れなくなってしまって」
「本当ですか? 実は毎晩眠れていなかったとかではないですか?」
咄嗟に返す言葉が出てこなかった。
メイさんが眉を寄せて私を見つめているのに気づき、正直に打ち明けることにした。
「ローガン家にいた時は、あまりよく眠れませんでした。寝ることが怖くて」
最初は寝ている間にあの人が来るかもしれないと。その後はクレアがいなくなったらどうしようと。
「でも、こちらに来た最初の日は疲れていたせいかぐっすり眠れて、それからは以前よりよく眠れています」
「それならいいですが」
話しているうちに、再び客間の前まで戻ってきていた。
私はメイさんに向き合って頭を下げた。
「お散歩に誘ってくださってありがとうございました。おかげで今夜もよく眠れそうな気がします」
メイさんの手が私の手からゆっくり離れていったかと思うと、次には私の頭を優しく撫でた。
「お休みなさい、パトリシアさん。ぐっすり寝て良い夢を見ようね。……でしたっけ?」
「え、どうしてメイさんが知って……?」
それは毎晩クレアが寝る時に私が口にしている言葉だけれど、メイさんの前で言ったことはなかったはず。
「パトリシアさんが居間で眠ってしまった時に、クレアがこうしていたんです」
「クレア、覚えていたんですね」
眠りに落ちたかどうかという頃にやっているのに。
「それで、あなたは自分が眠れないからクレアにそう言ってあげているのではないかと疑ったんです」
「鋭いですね」
「ノアほどではないですけどね。もし、また眠れないことがあったら、遠慮なく僕を呼んでください。散歩でもこっちでも、しますから」
そう言いながら、メイさんはもう1度私の頭を撫でた。
「あ、次の満月の夜も散歩に誘っていいですか? もう少し早い時間に」
「はい、是非」
メイさんの予想だと、私が離縁できるのはまだまだ先のようだ。
「じゃあ、お休みなさい」
「お休みなさいませ」
メイさんを見送りながら考えた。
メイさんが私とクレアを気にかけてくださるのは、きっと同情からだ。だけど、今現在、大切な人がいるのに私にあそこまでするような不誠実な方ではないと思う。
それならば、今だけ、離縁が成立して実家に帰るまでの間だけ、甘えてもいいだろうか。
クレアにお父様という存在を少しでも知ってほしい。私も平穏な家族の生活を味わいたい。
これは私の我儘だけど、メイさんは「できることはする」と仰ってくれたのだから。
ベッドに入ったものの、やはりなかなか眠れなかった。
目を閉じると頭を撫でてくださったメイさんの手の感触が蘇って、ドキドキしてしまったからだ。




