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10 ドレス工房で初仕事

 翌日は朝食を終えて1度それぞれの部屋に戻ってから、玄関ホールで再びメイさんと落ち合った。

 クレアもネリーと一緒に見送りについて来た。


 本来、縫製係はもっと遅い時間でいいそうなのだが、馬車に同乗させてもらうのでメイさんの出勤時間に合わせて私も出かける。


「クレア、お母様はメイさんとお仕事に行くから、良い子で待っていてね」


 クレアの前にしゃがんで目線を合わせそう言うと、クレアは表情を曇らせた。


「行っちゃいや」


「お母様がいなくても、セアラ様やソフィアやネリーたちがいるから大丈夫でしょう?」


「いや。おかあさまはクレアといるの」


 クレアは私にしがみついてワッと泣き出した。クレアのこんな姿は珍しく、私は戸惑った。


「でもお母様が働かないと、ふわふわのパンが食べられなくなるのよ」


 クレアは首を振った。


「パンいらない」


 コーウェン家で毎食美味しいパンをいただいているので、私が仕事をする意味を理解できないのだろうか。

 私から離れまいとするクレアを見ていると、こちらも泣きたくなってきた。

 すると、メイさんが私たちの傍に屈んで仰った。


「クレアもお母様と一緒に来る?」


 クレアはメイさんを振り返り、その笑顔に向かって頷いた。


「よし、じゃあ行こうか」


 メイさんはハンカチでクレアの濡れた顔を拭ってくださった。


「そんなご迷惑をおかけするわけには」


「大丈夫です。うちの工房では子どものいる女性が何人も働いていますから。様子を見て、僕が外に出る時に送って来てもいいですし」


 こうして、私はクレアを伴ってアンダーソンドレス工房に向かうことになった。




 一昨日と同じ荷馬車に乗って、私たちはアンダーソンドレス工房へと出発した。

 違うのはクレアが私の膝の上にいること。落ちることのないよう、私はクレアをしっかりと抱きかかえた。

 クレアは幼いなりに大泣きしたことを恥ずかしく感じているのか、両手で私のドレスを掴み、私の胸に半ば顔を埋めて大人しくしていた。


 何となく空気を重く感じていると、メイさんが明るい声で話しはじめた。


「僕も小さい頃は事あるごとに母にくっついてました。末っ子だから兄姉たちも甘やかしてくれたし」


 メイさんのほうを見ると、視線に気づいたのかメイさんもこちらを見て穏やかに笑んだ。

 初めて会った時もこんな風に落ち着いていて歳上かと思ったけれど、ノア様方の前だと表情や話し方が崩れて少し子どもっぽく見えた。それも末っ子ゆえだろうか。


「私の実家でも妹がそうでした」


「ご兄弟は他にも?」


「間に弟がいます」


「それなら、うちの母と同じですね」


「はい、そうなんです。私は母が健在なので、結婚前は呑気なものでしたが」


 5年近く会っていない家族の姿を思い出した。

 弟のスコットは18歳、妹のダイアナは16歳になったはずだ。ずいぶん変わってしまっただろう。


「離縁が成立すれば、またご実家で呑気に過ごせるようにもなりますよ」


 メイさんの言葉に私は首を傾げた。


「そうでしょうか?」


 離縁できたとしてもローガン家、特に侯爵夫人から嫌がらせを受けないか不安だ。

 それに、どちらにしても私がお荷物な存在であることには違いない。子連れの出戻りであるうえ、社交界には悪い噂まで流れている。

 とはいえ、いつまでもコーウェン家のお世話になっていてはそれこそご迷惑なのだから、やはり1度は実家に身を寄せて、そこから自立の道を探るべきだろう。


「ノアが離縁に協力すると言ったからには、その後のことも心配する必要ないですよ。きっと後ろ盾になってくれますから」


「でも、そこまでしていただいても私にそのご恩をお返しできるかどうか……」


 セアラ様は別の誰かを助けてと仰っていたけれど、コーウェン家に何もお礼できないのは心苦しい。


 しばらく間が空いてから、メイさんが静かに仰った。


「ノアは何の見返りも求めずに善意だけで人助けをするような人間ではありません。常にコーウェン家の利になるかを冷静に計算して動いています。いくらコーウェン家に力があるからといって見境なくそれを使っていたら、そのうち家と領地が傾きます。貴族にとって最も重要なのは家と領地を守り、確実に次代に受け渡すこと。逆に言えば、それができないような人間に爵位を継ぐ資格はありません」


 私も貴族の娘なので、メイさんの話は理解できる。


「ノア様に求められるようなものを私が持っているとはとても思えません」


「他人が自分の何に価値を見出すかなんて、本人は意外と気づかないものですよ」


「それなら、メイさんは? メイさんも何か思うところがあって私を助けてくださったのですか?」


「僕は爵位持ちではありませんから、基本的には自分本意で我儘な人間です」


 メイさんは自嘲するように笑った。

 本当にそんな方なら私とクレアにこんなに親切にしてはくれないと思うのだけど。




 馬車は大通りから裏道に入り、アンダーソンドレス工房の裏に到着した。

 メイさんは工房の裏口の鍵を開け、私たちを先に中に入れてから、裏道の向こう側にあるというアンダーソンさんのお宅に馬を預けに行った。


 工房の中は人気がなくシンとしていた。

 私はクレアを連れてとりあえず一昨日メイさんと話した部屋へと向かった。

 部屋に変わった様子はないかと思ったが、よく見ると黒いドレスを着たトルソーがなくなっていた。

 まだ仮縫いのようだったから、別の場所に移動したのかもしれない。

 その代わり、白いドレスの隣には菫色のドレスが置かれていた。


 しばらくするとメイさんも工房へ入って来て、窓を開けながら仰った。


「仕立て職人の中で僕が1番下っ端なので、他の人たちが来る前に工房の掃除と開店準備をします」


 そう言うと、メイさんは再び裏口から外に出て井戸で桶に水を汲んで戻ってきた。

 雑巾を手にする姿に違和感を覚えてしまうのは、メイさんが公爵弟であると知っているからだろうか。


 私も一緒に掃除をはじめた。ローガン家では自室の掃除をしていたのである程度は慣れている。

 クレアは私のスカートを掴んで相変わらず離れなかった。


「工房の皆さんは、メイさんのご実家のことはご存知なのですか?」


 一昨日の様子だと、アンダーソンさんは知っていらっしゃるのだろう。


「多分、気づいていると思います。ただの『メイ』としか名乗らなくても、わかる人にはわかるようですから。あとは、お客様のほうに『メイナード・コーウェン』の顔を知っている方も多いので」


 貴族なら、1度コーウェン公爵弟にお会いすれば絶対にそのお顔を忘れたりしないはずだ。きっとドレス職人としての姿を見て驚いたことだろう。


「ご両親はメイさんがドレス工房で働くことに反対なさらなかったのですか?」


 公爵家の次男なら別の爵位を得ることも可能だったろうし、そうでなければご嫡男の補佐をするのが一般的だと思う。


「さすがに母は驚いていましたが父は喜んでくれて、師匠への弟子入りも父が頼んでくれたんです。父はドレスへのこだわりが強くて、仕立てる時にあれこれ細かく注文を出します。それを昔から1番熱心に聞いてくれたのが先代である師匠の父上と師匠だったので、すごく信頼していて」


 メイさんからお聞きする前公爵のお姿は、私が以前に拝見した時のお顔とどうにも乖離していた。

 私がコーウェン前公爵夫妻にご挨拶した時クレア夫人は微笑んでくださったけれど、前公爵は終始無表情だった。それもお顔が綺麗な分、余計に冷たく見えてしまったのだ。

 でも、幼い頃にお母様から聞いた「セドリック」に印象が近いのはやはりメイさんからお聞きするほうだ。


「父は母や姉たちのドレスを選ぶ時、いつも真剣で、同時にこの上なく楽しそうでした。僕が10代の初めだった頃はロッティの結婚の準備をしていたところにセアラが来てアリスの結婚も決まったから、ウエディングドレスも含めてたくさんのドレスを見る機会があって、その華やかさに僕もすっかり魅せられてしまったんですよね」


 メイさんの懐かしむような笑顔を見ると、私も自然と表情が緩んだ。


 工房が済むと、次は店舗の清掃に取り掛かる。

 一昨日、窓の外から覗いただけでも店内が華やかであることは窺えたが、実際に中に入ると色とりどりのドレスが並ぶそこはまるでパーティー会場の一角を切りとってきたかのようだった。


「ほら、クレア、見て。とっても綺麗よ」


 スカートを掴んだままついてきたクレアを促すと、ずっと不機嫌そうだったクレアもようやく顔をあげ、目を輝かせた。


「これ、ぜんぶメイがつくったの?」


「全部ではないけど、メイが作ったのもあるよ。それに、お母様も今日からメイと一緒にこういうドレスを作るんだ」


「そうなの? おかあさま、すごいね」


「クレアはどのドレスが好き?」


「えとね……」


 いつの間にかクレアの手が私のドレスからメイさんの手に移り、ふたりは並んでドレスを見て回った。

 メイさんも子どもの頃に前公爵とこうやってドレスを見ていたのだろうか。




 表の掃除も終えて一息吐いていると、裏口から男性が姿を見せた。

 アンダーソンさんの娘婿でやはりこの工房のドレス職人であるイーサンさん、とメイさんから紹介され、挨拶を交わした。

 メイさんは私たちのこともただの「パトリシアさんとクレア」と紹介してくださった。


 メイさんとイーサンさんが作業の準備をはじめたところにアンダーソンさん、さらに10人ほどの女性たちも続々とやって来た。

 私と同じ歳くらいの女性が赤ん坊を背負っていたので、安堵した。


 工房で働く職人は店主のアンダーソンさんとイーサンさん、そしてメイさんの3人で、他に工房に来るのは縫製係の女性たち。

 アンダーソンさんの奥さんとお嬢さんが交代で店番をなさり、繁忙期には縫製のお手伝いにも入られる。

 刺繍やレース作りなどの専門職人はそれぞれの家で作業している、ということだった。


 一通り紹介と挨拶が済むと、皆さんがそれぞれ台について作業を始める横で、私はメイさんからお仕事について説明を受けた。

 2枚の生地をひたすら真っ直ぐに縫い合わせることが私の最初の役割だった。緊張しながら慎重に針を動かしはじめた。

 メイさんが隣でドレスにレースを縫い付けながら、時おり私に指示や助言をくださった。

 集中するあまりなかなかクレアに意識を向けられなかったが、縫製係の皆さんがクレアに何かと話しかけてくださっているのが聞こえて有難かった。


 やがてアンダーソンさんとイーサンさんはそれぞれ出かけて行かれた。

 さらにメイさんが1度席を離れ、しばらくしてまた私の傍に来ると、やや声を潜めて「パトリシアさん」と呼んだ。


「僕もこれから外に出るんですけど、クレア、連れて帰りますか?」


 慌ててクレアを探し、床に座り込んで布の切れ端を並べて遊んでいた娘に近づいた。


「クレア、お家に帰ってソフィアやエルマーと遊ぼうか。メイさんが連れて行ってくれるって」


「おかあさまは?」


「お母様はまだここでお仕事があるの。でも、夕方にはクレアのところに帰るから」


 クレアは私の顔をジッと見つめてから頷いた。


「じゃあ、行こう」


 メイさんがクレアに手を差し出したが、クレアは手を出さなかった。


「だっこ」


「ああ、抱っこがいいのか」


 メイさんは笑いながらクレアをヒョイと抱き上げてくださった。


「すみません。よろしくお願いします」


「はい。行ってきます」


「行ってらっしゃいませ」


 裏口へと歩き出すメイさんに、縫製係の皆さんも口々に声をかける。


「行ってらっしゃい」


「クレア、またね」


 皆さんが手を振ると、クレアもメイさんの腕の中から手を振り返した。


 ふたりを見送ってからホッとして席に戻った途端、先ほどまでメイさんのいた椅子に私と同年代の女性が移ってきた。確かマリーさんだ。

 マリーさんの赤ん坊は、今は床に置かれた籠の中ですやすやと寝息を立てていた。


「ねえ、パトリシアさんはどうしてこんなところで働くの?」


 マリーさんに問われて、私は思わず彼女の顔を見つめてしまった。


「え?」


「私たちにとってここは良い働き口だけど、パトリシアさんみたいな人は普通、こんな仕事しないでしょう?」


 口振りからして、マリーさんは純粋な興味から尋ねたようだった。

 やはり自ら名乗らなくても、私が貴族階級の人間だと気づかれたのだ。

 もっとも、私は色やデザインは地味でも質の良いドレスを纏っているし、クレアはソフィアのドレスを着ていたのだから当然と言えば当然だ。これらがコーウェン家でお借りしたものだということまではわからないだろうけれど。


「マリー、そんなこと訊くもんじゃないよ」


 年配の女性が咎めると、マリーさんは口を尖らせた。


「皆だって気になってるくせに」


 これからアンダーソンドレス工房で働いていくために彼女たちと仲良くなりたい。だから、嘘は吐きたくなかった。


「夫と別れたくて家を出たのですが、行くあてもなくて困っていたところをメイさんに助けられて、こちらのお仕事を勧めていただいたんです」


「あんな小さな子を連れて出てくるくらいだから、よっぽど酷い旦那だったんだね」


 別の女性が顔を顰めた。


 そこからは皆さんがそれぞれ旦那様への愚痴を溢しはじめた。稼ぎが悪いとか、お酒ばかり呑んでいるとか。

 だけどその表情には夫への、あるいは子どもの父親への情や信頼のようなものが感じられた。

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