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9 ドレス工房の課題

 翌朝、ネリーはメイさんから預かったと数着のドレスを客間に運んできた。

 昨夜聞いたような装飾の少ないシンプルなドレスだけど、よく見れば上質なものだ。

 こちらも直してもらうことになった。


 私はネリーの手を借りて昨日と同じ若草色のドレスを纏った。


 ローガン家で私につけられていたメイドたちは見張り役という感じで、身の回りのことはほとんど自分でやっていた。

 だから、ネリーがあれこれお世話してくれることは落ち着かなかった。

 でもこれが本来のメイドの仕事。それに、まだ体の様々なところが痛かったり、寝過ぎたせいか怠かったりするのでネリーがいるのはやはり有難かった。


 身支度をしているうちに、クレアがベッドの上で身を起こした。まだぼんやりした顔で部屋の中を見回している。


「おはよう、クレア」


「おかあさま、ここどこ?」


「忘れちゃった? メイさんのお家よ」


 私がそう言った途端、クレアがはっきりと目を開いた。


「メイは?」


「食堂でお会いできると思うから、その前にクレアも着替えましょうね」


 クレアに黄色いドレスを着せてから一緒に客間を出て食堂に向かうと、メイさんはすでに席についていた。


「メイ」


 振り向いたメイさんはにっこりと笑った。


「おはよう、クレア。おはようございます、パトリシアさん」


「おはよ」


「おはようございます。ドレスをありがとうございました」


「どういたしまして。クレア、そのドレス、よく似合ってるね」


「メイがつくったの?」


「うん、そうだよ」


 私とクレアは夕食の時と同じ席についた。私の向かいがメイさんだった。


「よく眠れましたか?」


「はい、おかげさまで」


 そのうちにノア様とセアラ様、ソフィアとエルマーもやって来て、朝食がはじまった。




 朝食後、メイさんが客間に来られた。見覚えのある裁縫箱と布地を抱えていらっしゃった。

 それらをテーブルの上に置いて、メイさんはソファに腰を下ろした。


「課題の説明をしますから、パトリシアさんもここに座ってください」


 メイさんが隣を指差したので、私もそこに座った。


 メイさんはまず絹布を扱う際の注意事項を語ってから、針と糸、そして絹布の切れ端を手にして実演して見せてくださった。

 夜会の時もそうだったけれど、針を持つメイさんの手は大きいのにその動きはとても優雅で見惚れてしまう。


 でも、すぐにメイさんはそれらを私に手渡して、「やってみてください」と促した。

 メイさんに見られていると思うと手が震えそうになるが、どうにか針を動かした。

 いつの間にかクレアも傍に来て、私の手元をジッと見つめていた。


 ある程度縫ったところで、メイさんが縫い目を検分してくださった。


「うん、細かく揃っていますね。この調子で大丈夫です」


 次にメイさんは別の生地を取り出した。先ほどの切れ端とは違いきちんと形を整えてあった。

 さらに、細かい文字の並んだ用紙が1枚。


「課題はこれです。こちらに手順が書いてありますので、布に付けてある印のとおりに縫ってください。今日で出来あがらなくても構いませんから、根を詰めず休み休み進めてください」


「はい」


「じゃあ、僕は行きますね」


 メイさんが立ち上がったので、私も立ち上がった。


「お見送りいたします」


 また「いいです」と言われるかとも思ったけれど、メイさんはわずかに目を細めて笑った。


「では、玄関までお願いします」


 クレアの手を引いてメイさんと一緒に玄関ホールに向かった。

 ちょうどノア様も宮廷に出仕なさるところで、セアラ様とソフィア、エルマーもいらっしゃった。


 ローガン家ではお見送りなんてしたことがなかったのに、コーウェン家でこの場に居合わせるのは不思議な感覚だった。

 しかも、ノア様はご夫人とお子様方を順に抱きしめていた。私の実家でもここまではしていなかった。


 さらにソフィアとエルマーはメイさんにも飛びついていき、メイさんはそれを易々と受け止めた。

 メイさんが手招きしてくださって、クレアもそこに加わった。




 メイさんとノア様が出発なさると、クレアはソフィアやエルマーと2階に上がっていった。

 傍にはソフィアとエルマーの乳母やメイドたちがついてくれている。


 私はひとり客間に戻ってさっそく課題に取り組むつもりだった。

 しかし、その前にネリーがもうひとりのメイドを連れて来て、私の体を採寸した。

 そこまで私の体にきっちり合わせてドレスを直してもらわなくても構わないのにと思ったけれど、大人しく任せた。


 それから、いよいよ課題を始めた。集中して針を動かしていると、瞬く間に時間が過ぎていった。

 たびたびクレアがやって来るのが良い息抜きになった。


 客間から直接外に出ることができるので、昼前にはクレアと一緒にお庭に出て花々を眺めながら少し歩いた。




 昼食をいただいてから課題を再開し、完成が近づいた頃、客間にセアラ様付きのメイドが訪れた。

 セアラ様からのお茶のお誘いで、もうそんな時間なのかと驚いた。


 居間に行くと、セアラ様が待っていらっしゃった。


「呼び立ててごめんなさいね」


「いえ、お招きいただきありがとうございます」


「座ってちょうだい。課題は順調?」


「もうすぐ出来あがります」


 セアラ様の向かいに腰を下ろすと、メイドが紅茶とタルトを運んできた。

 すでに昨日から紅茶は何度もいただいているが、味はもちろん香りもとても良くて、飲むとホッとできた。

 おそらく茶葉が上質なだけでなく、お茶を淹れる人の腕も良いのだろう。


 少しして、セアラ様が尋ねた。


「何か足りないものや不自由していることはないかしら?」


「ありません。私たちなどに本当によくしていただいて、申し訳ないくらいです」


「そんな風に思わなくていいのよ。パットの今までの生活のほうがおかしかったのだもの。本来ならあなたはローガン家でたくさんのものを与えられるべきだった。それだけの責任を果たしていたのだから」


 セアラ様は私がノア様の問いに答えた場にはいらっしゃらなかったけれど、後からお聞きになったのだろう。


「ただ侯爵に命じられたことを仕方なくやっていただけです。次期女主人としての仕事はまったくさせてもらえなかったですし」


「領地経営が円滑に進んでこそ貴族は家が保てて、女主人の仕事もできるのよ。侯爵夫人がそんなこともわかっていらっしゃらないなんて困ったことだわ」


 セアラ様はあくまで穏やかにそう仰った。


「ローガン家や侯爵夫人のことはセアラ様の仰るとおりですが、だからといって縁もゆかりもないコーウェン家にご迷惑おかけすることになってしまったのはやはり申し訳なくて……」


 セアラ様はカップをゆっくりと口に運びながら、何かを考えるような表情をなさった。


「メイが夜会で窮屈なドレスのせいで具合の悪くなっていた女性を助けたって言ってたの、パットのことだったのでしょう?」


「はい、そうです」


「実は私も昔、同じようなことがあったの。デザインもサイズも合ってないドレスを着せられて、コーウェン家の夜会に連れて来られて、だけど偶然出会ったノアとご家族に助けてもらって。私の場合は実家の家族だったから、ノアはその日のうちに私を婚約者にしてここに住まわせてくれたわ」


「ご実家は、確かウォルフォード家では?」


 まさに私がメイさんと出会った夜会が開かれていた侯爵家だ。


「ウォルフォード家には、結婚前に本当の実家と縁を切りたくて養女にしていただいたの。結婚してからは実家の家族には会っていないわ。幼馴染が私の姉と結婚して爵位を継いで、一家で領地に引っ込んだらしいけれど、その後のことは知らないし知りたいとも思わない。でも、私がこんなに幸せだってことは、あの人たちの耳にも届いていればいいと思うわ。私、嫌な性格でしょう?」


「いえ、何となくわかります」


 セアラ様は頷いた。


「パットと私の経験は似ているけれど違うから、私があなたの気持ちをすべて理解できるとは思わない。でも、あの時の私と同じように今のあなたには助けが必要なことはわかるし、今の私ならメイやノアと一緒にあなたを助けられるわ。だから、頼ってくれていいのよ。その代わり、パットはいつか他の誰かを助けてあげて」


 昨日から何度も堪えてきたものが、セアラ様の優しい声を聞いているうちに抑えられなくなった。喉が詰まり、視界が滲む。

 セアラ様は立ち上がってこちらへいらっしゃると、私の隣に座ってそっと肩を抱き寄せてくださった。


「今までよく頑張ったわね。クレアのことも守って、大変だったでしょうに」


 首を振ると、ドレスの上にパタパタと水滴が落ちた。


「クレアがいたから頑張れたんです。きっとクレアがいなければ、とっくに折れていました。昨日だって、クレアがいたから諦めずに歩いて、メイさんに会えました」


「そうね。あなたのクレアは本当に良い娘だわ」


 それからしばらく涙を止められなかった私に、セアラ様はずっと寄り添っていてくださった。

 そして私が落ち着くと、「使って」とハンカチを手渡してくださる。

 顔を拭ってからそれを見ると、可愛らしい猫が刺繍されていて、何だか和んだ。




 この日は夕方になるとメイさんも帰宅された。


 夕食後、私は客間に来られたメイさんに課題を見ていただいた。

 クレアは今夜もすでに夢の中だ。


「出来あがったんですね」


 それは、ドレスだった。といっても前と後ろ、2枚の布地を縫い合わせただけで、大きさは両手のひらくらい。

 でも綺麗な花柄の布地を使っているので、部屋の飾り物になりそうだ。


「パトリシアさんにはちょっと物足りなかったですか?」


「楽しかったです。今までずっと必要に駆られてドレスを作っていたので、こういうのは初めてで」


「家のほうはどうでした? 何か気になることはありましたか?」


「セアラ様はじめ皆様色々気にかけて、良くしてくださいました。クレアも、ソフィアやエルマーが遊んでくれるので楽しそうでした」


「セアラはああ見えて頼りになるんで大丈夫だと思ってましたけど、良かった」


「見た目どおり穏やかで優しいのに芯があって、一緒にいるだけで安心できるというか。さすが前公爵夫人の跡を継がれた方ですね」


「確かに、いつの間にかすっかり押しも押されもせぬ公爵夫人になりましたね。初めて会った頃はただ可愛いらしくて、守ってあげたくなる感じだったのに」


「セアラ様に初めて会った頃って、メイさんはまだ……」


「11歳だったかな。でも、子どもなりに本気でそう思ってました。何せ、セアラが初恋の相手でしたから」


「初恋?」


「はい。ノアとギクシャクしている隙に求婚までして、もちろん振られました。まあ、ノアが幸せにしてくれるならそれで構わなかったんですけど」


 メイさんは穏やかに笑ってそう仰った。


「だから、今もお独りだったのですね」


 私がそう言うと、メイさんは一瞬の間の後で慌てたように首を振った。


「いや、違いますよ。セアラのことは昔の話で、今は頼りになる義姉としか思ってませんから。パトリシアさんだってそういうのあったでしょう?」


 そう尋ねられると、1つだけ思い浮かぶ顔があった。

 これまで誰にも話したことはなかったけれど、メイさんになら話せるような気がした。


「恋だったのかはわかりませんが、学園に通っていた頃、気になるクラスメイトがいました」


「へえ、どんな人ですか?」


「平民の方でした」


 学園は貴族の子女のための場所だが、貴族の後見があって学費を払えれば平民でも入学でき、そんな生徒が各学年に数人ずついた。

 多いのは、貴族の庶子。

 それから貴族に将来有望だと認められた人。この場合は当然、学費の出資者に仕えることが前提となる。

 そして、裕福な平民が貴族に後見を頼んで子どもを入学させることもある。


 そのクラスメイトがどれに当てはまる方だったのかは、わからない。


「同じ教室で授業を受けていても挨拶くらいしか話をしたことはなかったのですけれど、いつも試験の順位が私と近かったんです」


「それなら、好敵手という感じですか?」


「いいえ。私は努力してその成績でしたが、彼は敢えてそれに甘んじているのではないかと密かに疑っていました」


「貴族ばかりの中で目立たないように、ですか」


「実際、ずっとクラスの中でそれほど目立たない感じで」


 平民だからというだけで彼を馬鹿にしたり、距離を置いたりする生徒もいたけれど、多くの男子生徒とは良好な関係でクラスに馴染んでいるように見えた。


「だけど、彼、卒業試験で首席を取ったんです。それも次席とは大差の成績で。皆、唖然としていましたけど、私はむしろすっきりした気分でした」


「最後の最後にって、逆に反感買いそうな気もしますが」


「そうですね……。そう言えば、私、メイさんと同じ歳なんです」


「え、今22歳ですか?」


「はい。だから、学園に入学する直前はクレア夫人のご子息とクラスメイトになるんだって物凄く緊張していました。絶対に失敗できない、みたいな感じで。でも、いざ入学してみたらいらっしゃらなかったので拍子抜けしてしまって。誰かがお父様やお兄様と同じようにタズルナに留学したんだって言って、皆が納得していました」


 メイさんが苦笑した。


「まさかドレス工房で働いているなんて思いませんよね」


「それで、卒業試験の後には、コーウェン公爵子息がいれば平民が首席を取ることはなかったはずだ、なんて言う人までいたんです」


「僕はそんなに優秀ではないですよ。13歳で師匠に弟子入りするまではノアと同じ家庭教師から勉強を教わっていたんですけど、いつも、どうして兄弟でこんなに出来が違うんだって顔されてましたから」


 メイさんが冗談めかして仰るので、思わず笑ってしまった。

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