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8 コーウェン家の客間

「クレア?」


 娘の呼び声に応え、ちょっと長めの瞬きをしたくらいの感覚で目を開けると、なぜか天井が見えた。


「お目覚めでございますか?」


 声のしたほうに視線を向けると、私と同じくらいの歳のメイドが立っていた。

 それからようやく自分がベッドの中にいることに気づき、慌てて飛び起きた。


「お嬢様は奥様と一緒にいらっしゃいますからご安心くださいませ。お目覚めになったことをお知らせして参ります」


「……お願いします」


 メイドが部屋を出て行ってから、あたりを見渡す。

 おそらくここが私たちのために用意していただいた客間なのだろう。

 ソファセットやクローゼット、小さな棚などが置かれている。

 ベッドや寝具はとても寝心地がよく、相変わらず綿ドレスのままの私が使ってしまったことが申し訳ない高級そうなものだ。ベッドは隣にもう1台並んでいた。

 大きな窓の外には植え込みが見えて、ここが1階なのだとわかった。


 足には手当てをしていただいたらしく包帯が巻かれていた。痛みは感じていたけれど、考えていた以上に酷い状態だったのかもしれない。

 さらに足を床に下ろそうとすれば、そこに並んでいたのは私のものとは異なる室内履だった。まだ新しく高級そうなそれに、この足を入れてしまっていいのかと悩む。


 その時、扉がノックされた。「どうぞ」と答えながら急いで室内履を履き、立ち上がる。

 まだ体が重く、足だけでなくあちこち痛みが走った。


 部屋に入って来られたのはコーウェン公爵夫人だった。


「まだ寝ていて構わないのよ」


「いえ、申し訳ありませんでした」


 いくら公爵から寛げと言っていただいたからって、初めて伺ったも同然のお屋敷の居間のソファで眠ってしまうなんて、顔から火が出そうだ。


「いいのよ。メイに聞いたわ。クレアを背負ってアンダーソンドレス工房まで歩いたのでしょう。そんなの疲れきっていて当たり前じゃない。居間からここまで運んだのはメイだから、安心して。メイはその後、工房に戻ったわ」


 またメイさんにそんなことをさせてしまったのかと恥ずかしい気持ちでいっぱいになった。


「とにかく座りましょう。ソファのほうがいいかしら? 背もたれに寄りかかって、楽にしてちょうだい」


 公爵夫人に言われるまま、ソファに腰を下ろした。公爵夫人も隣に座られた。


「クレアもすぐに来ると思うわ。昼食をとってノアを見送ってからうちの娘と屋敷の中をあちこち回っているようなのだけど、あなたのことは気にしていたから。それと、あなたの履きものはかなり傷んでしまっていたから、代わりにそれを履いて。他にも色々用意しておいたから、後で運ばせるわね」


 私は思っていた以上に眠り込んでいたようだ。


「どうもありがとうございます。本当に何から何までお世話になってしまって」


「そんなに気にしないでちょうだい」


 コーウェン公爵夫人が眉を下げて笑ったところで、扉がノックされた。コーウェン公爵夫人が「どうぞ」と応じると、扉が開いてクレアが顔を覗かせた。

 その後ろには、もうひとりの女の子と先ほどのメイドも。


「おかあさま」


 こちらへと駆けてきたクレアの姿を見て、私は目を瞠った。ドレスが変わっていたのだ。

 私の夜会ドレスが悪の女王ドレスなら、このフリルのたっぷりついたピンク色のドレスはまさにお姫様ドレス。

 さらに足にはきちんと小さな革靴まで履いていた。


 公爵夫人が可笑しそうに仰った。


「明日からのドレスのつもりでいくつか見せたら、こういうドレスは着たことがないと言うから着せてしまったわ。着ていたものは洗濯させるわね」


「これ、メイがつくったんだって。きれいでしょ」


 クレアは満面の笑みでスカートを摘まみヒラヒラと揺らしてみせたが、私は気が気でなかった。


「クレア、そのドレス汚さないでね」


「いいのよ、汚して。この娘がちょうどクレアくらいの歳の頃に着ていたものだから、よく見るとあちこち染みがあって申し訳ないくらいなの。ソフィア、クレアのお母様にご挨拶して」


 公爵夫人に促され、ご令嬢が私に向かって礼をしてくださった。


「初めまして。ソフィア・コーウェンです。8歳です」


「初めまして。パトリシアです。クレアのことを見ていただいてありがとうございます」


「ううん。皆、ロッティ叔母様のところに行っちゃったから、クレアが来てくれて嬉しい」


「それならよかった。これからよろしくお願いします」


「はい。クレア、行こう」


「うん」


 ソフィア嬢とクレアは手を繋いで部屋を出て行った。


「クレアにはずっと遊び相手もいなかったので、お嬢様に仲良くしていただいてよかったです」


「うちにはエルマーという5歳の息子もいるわ。それから、ここにもうひとり」


 公爵夫人はご自分のお腹にそっと手を置いて微笑んだ。

 言われてみれば、公爵夫人はゆったりしたドレスを着ていらっしゃるのであまり目立たないが、お腹がふっくらしているようだった。


「それは、おめでとうございます。あ、でも、先ほど……」


 公爵夫人がクレアを抱き上げてくださっていたことを思い出し、背筋が冷えた。


「大丈夫よ。お腹には負担のかからない抱き方はわかっているから。私が無理をしていると思えばノアがすぐに止めてくれるし」


「……はい。ありがとうございます」


「あとは、普段ならアリスの息子もいるのだけれど、アリスと一緒にタズルナに行ったのよ」


「タズルナには前公爵夫妻がおふたりで行かれたのではなかったのですね。それではソフィア嬢は寂しいかもしれませんね」


「初めて妹ができた気分で余計に嬉しいのかもしれないわ。ところで、いいのよ、ただの『ソフィア』で。今日から一緒に暮らすのだし、子どもたちだけでなくノアや私のことも名前で呼んでちょうだい。パトリシアは愛称はあるの?」


「実家では『パット』と呼ばれていました」


「私もそう呼んでいいかしら?」


「はい、もちろん」


「それなら、パット」


 ローガン家では愛称どころか私を名前で呼ぶ人もいなかったので不思議な感じがした。


「今日からここをあなたたちの本当の家、私のことは姉とでも思って過ごしてちょうだい。このネリーをつけるわ」


「はい、お世話になります。ネリー、どうぞよろしく」


 ネリーも「こちらこそよろしくお願いいたします」と返してくれた。




 セアラ様が客間を出て行かれるのと入れ替わりに、ネリーがマドレーヌと紅茶を運んで来てくれた。


「お腹が空いていらっしゃるでしょうがお夕食までそれほど時間がありませんので、こちらをお召し上がりください」


 思えば今日はメイさんにいただいたクッキーしか食べていなかったので、有難くいただいた。


 美味しいマドレーヌを食べ終えると、今度はドレスなどの着替えや身の回り品が運び込まれた。

 とりあえずお屋敷にあったものを集めたと説明されたけれど、これまでのローガン家での生活では思いもよらなかった贅沢な品々だ。


「ドレスはサイズが合わないでしょうからお直しいたします」


「いえ、そこまでは」


 少しの間お借りするだけなのにわざわざ直してもらうのは気が引けてそう言うと、ネリーはにっこりと笑った。


「コーウェン家には服の直しを得意とするメイドが何人もおりますので、ご心配には及びません。どうぞ、さっそくご試着なさってください」


「でも、汗をかいて汚れているし」


 散々ベッドやソファを使ってしまって今さらだけど。


「でしたら、ご入浴の準備をいたしましょう」


 そんなわけで、客間の浴室で湯を使わせていただくことになった。

 ネリーはクレアも一緒のほうがいいだろうと、まだしっかり歩けない私の代わりに探しに行って連れて来てくれた。


 クレアは初めての湯船とたっぷりのお湯におっかなびっくりだった。

 ローガン家では水で濡らした布で体を拭うのが普通で、たまに湯を使えてもそれを張るのは盥だったのだ。

 それでも、頭から爪先まで綺麗に洗ってさっぱりしたせいか、ネリーに体を拭いてもらう時にはご機嫌な顔に戻っていた。

 私も足の傷を考慮してくれた温めの湯にその分ゆっくりと浸かり、体も気持ちも解れた。


 浴室から出ると、いよいよという感じでネリーが先ほどクローゼットに収めたばかりのドレスを出してきた。

 クレアも興味津々に見守る中で、私はそれを試着した。


 最初は水色のドレスだった。お屋敷での普段着用ドレスだが、綿ドレスとは異なり華やかなものだ。

 クレアが「おかあさま、きれい」と褒めてくれた。

 それから同じような黄色いドレスに、若草色のドレスも。


「パトリシア様は胴回りが細くていらっしゃいますね。それから、裾出しは必須ですね」


 私は背ばかり大きくて痩せぎすなので、当然そうなるだろう。


「でも、きついわけではないのだし、このままで構わないわ」


 私がそう言うと、ネリーが眉を寄せた。


「パトリシア様はよろしくても、メイ坊ちゃまが納得なさらないと思います。あるいは、ご自分で直されるかもしれません」


 実際に夜会で見ず知らずの私のドレスを直してくださったメイさんなら、大いにあり得る。


「お直し、お願いします」


「かしこまりました」


 私が着ていた若草色のドレスはそのままに、他のものは再び客間の外へと運ばれて行った。


 そう言えば、アンダーソンドレス工房で働く時にはどんな服装をすればいいのだろう。メイさんが帰宅なさったら相談してみよう。




 しかし、夕方になってノア様が宮廷からお帰りになっても、メイさんは帰宅されなかった。

 やがて夕食のため食堂に案内されたけれど、メイさんの姿はないままだ。


「メイ、まだかな」


 クレアもそう呟いた。


 私たちが煩わせたせいでまだお仕事をされているのではないかと、先に夕食をとることを申し訳なく感じていると、ノア様が仰った。


「メイは最近は帰ることのほうが珍しいくらいだった。今日は帰るはずだが何時になるかはわからない。気にせず食べろ」


「はい。お気遣いありがとうございます」


「ところで、コリン、何でそこにいるんだ?」


 次にノア様は、食堂の隅に控えているコリンに向かって仰った。

 執事の立ち位置としては特におかしくない。


「アリスがいない間は遠慮いたします」


「おまえは相変わらず変なところで固いな」


 首を傾げていた私に、セアラ様が仰った。


「まだ紹介していなかったわね。コリンは我が家の執事だけれどアリスの旦那様でもあるから、いつもなら夕食は一緒の席でとるのよ」


 つまり、この執事はノア様やメイさんの義兄弟ということだ。

 急いで挨拶をしようとしたが、コリンがそれを制した。


「私のことはあくまで当家の執事として接していただければ構いません」


「そういうやつなんだ」


 ノア様が苦笑なさった。


 この真面目そうな執事がまさか主家のご令嬢と結婚しているなんて驚いたけれど、それだけ信頼されているということかもしれない。

 ともかく、アリス様が社交界から消え、刺繍を生業になさっている理由はわかった。


 夕食もとても美味しかった。

 クレアはまたパンに感動していた。


 食事中、ご家族のお話に耳を傾けるノア様のとても優しい表情が印象的だった。




 夕食が終わらないうちにクレアが船を漕ぎはじめてしまったため、失礼して皆様より先に食堂を退出し客間に戻った。

 思えば、クレアも今朝は早かったのだ。

 寝巻に着替えさせてベッドに入れ、頭をそっと撫でた。


「おやすみ、クレア。ぐっすり眠って良い夢を見るのよ」


 じきにクレアは寝入ったようだった。


 ネリーには退がってもらい、ベッドに腰かけてクレアの寝顔を見ているうちに私も眠気を覚えてうとうとした。

 そこに、ノックの音が聞こえた。慌てて応じると、扉を開けて顔を見せたのはメイさんだった。

 帰っていらっしゃったのだと何となくホッとしながら立ち上がると、「座っていてください」とやはり気を使ってくださった。


「入ってもいいですか?」


「どうぞ」


「失礼します」


 メイさんは扉を閉めるとベッドのほうに歩いてきた。


「クレアはもう寝てしまいましたか」


 屈んでクレアの寝顔を見下ろすメイさんもとても優しい表情をしていた。


「メイさんがお帰りになるまで待っていたかったようなのですが」


「僕ももう少し早く帰るつもりだったんですけど、悪いことをしてしまいました」


 メイさんもベッドに腰を下ろした。クレアを間に挟んでいない分距離が近いように感じられて妙に緊張した。

 それを振り払うように口を開く。


「今朝、お仕事を始めるところだったのを私たちが邪魔してしまったからですよね。申し訳ありませんでした」


「ちょっと急な仕事ができたせいなので、気にしないでください」


「それから、昼に大変な失礼をして、またご迷惑をおかけしました」


「もしかして、ソファで寝てしまったことですか? あれも僕の配慮が足りなかったんです。パトリシアさんが相当疲れていることはわかっていたのに、すみませんでした。師匠と改めて相談したんですけど、うちの工房に来るのは明後日からでお願いします」


「いえ、明日からで大丈夫です」


 足や色々なところが痛むけれど動けないわけではないのだから、1日も早く仕事をしてクレアのために稼ぎたかった。


「駄目です。明後日からしっかり働くためにも、きちんと体調を整えてください。それに、これからパトリシアさんがいない間クレアがここでどんな風に過ごすことになるのか、知っておいたほうがいいでしょう?」


 メイさんの仰るとおりだった。私は「はい」と頷いた。


「でも、焦る気持ちもわかるので、課題を用意しました」


「課題、ですか?」


「パトリシアさんの作ったドレスは綿でしたけど、絹を縫うことはありましたか?」


「あの夜会ドレスを直したくらいです」


 そう口にした時、私は唐突に思い出して息を飲んだ。


「スカーフとリボン……」


「ああ、工房のソファにあったので預かっておきました」


「申し訳ありません」


 私は身を縮めて頭を下げた。あのスカーフとリボンを置いてきてしまうなんて。


「僕も工房に戻るまで忘れていたので、気にしないでください。せっかくだから、綺麗にしてお返ししますね。……ええと、話を戻しますが、うちで働く人たちもだいたい最初は絹は未経験なので、まずはその扱いに慣れてもらうために練習してもらうんです。明日はそれをやってください。詳しくは明日の朝、説明します」


「わかりました。そういえば、工房にはどんな服装で行ったらいいのですか?」


「特に決まりはありませんが、作業の邪魔にならないよう装飾の少ないものがいいと思います。あとは、お客様にお会いしても不快感を与えないよう清潔感のあるもの、ですかね」


 シンプルな服ということなら、私の作ったドレスは仕事着にちょうどよかったのかもしれない。

 しかし、ローガン家にすべて置いてきてしまったし、着ていたものは汚れていたので洗濯してもらうことになった。


「今夜のうちによさそうなドレスをいくつか見繕っておきましょうか」


「見繕うって、こんな時間にどちらで?」


「この屋敷の中ですよ。父がドレスや衣装にこだわりの強い人で着なくなったものもほとんど処分しなくて、保管用の部屋があるんです。パトリシアさんやクレアが着ているものも、そこから出したものだと思います。よかったら、今度見ますか?」


「是非見てみたいです」


「じゃあ、週末にでもご案内しますね。今日はもう休んでください」


 メイさんはそう言って立ち上がった。


「お休みなさい」


「お休みなさいませ」


 メイさんが部屋を出て行かれてから、私も用意されていた寝巻に着替えてクレアと同じベッドに入った。

 昼寝をたっぷりしてしまったので眠れないかもしれないと思っていたけれど、目を閉じるとすぐに意識が途切れた。

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