なろうの俺TUEEEを考察してみる
以前なろうの俺TUEEEは独特だと書いた。正直良く分からない、その理由は私が面白いとど真ん中で感じて居ないからだ。私の言ってる事は分からないと思う。私ほどかなり数多くのなろう作品を楽しめてると、何故分からないのだ?となると思う。それはなろうが複合的な面白さで出来てるのであって、ある単一の面白さで出来てるわけじゃないからだ。
ただどうも見てると、その独特の面白さが突出してる作品ほど私は楽しめてない気がする。私だけと思うのはそういった作品のランキングが高いからだ。そしてかつもっと分からなくしてるのは、私は俺TUEEEが楽しめないわけじゃないんだ。なろうだけの俺TUEEEはどうも楽しめないようだ。
全く楽しめてないのか?と言うとそれも分からない。多分それは無い。根本的には俺TUEEEってのはなろうの内外でも同じ楽しみだと思うからだ。だが温度差を感じている。そこまで面白いか?となるんだ。その差があるため何を語れば良いのか?が良く分からない。
多くの批判はつまらないと思うものに向けられる。だがそれは裏を返せば面白い部分を感じて無い事多いんだ。女性向け男性向けはこれが顕著で分かりやすい。互いに異性のキャラを楽しむのは、それ言葉にすると両方の性別全く同じ楽しみなんだけど、具体的には相手の楽しみが全く分からない。分かったら同性愛者だ。
ただこれは互いに客観的には異性って言葉で同質な楽しみに統一される。まだ分かるほうだ。以前からパブロフの犬と批判してるのだが、作品の特徴を並び立てても、それがつまらない特徴とは限らないと書いてる。特定の人達が感じている面白さを面白いと感じないグループが、それらの原因を突き止めようとしても困難じゃないか?と思うのだ。
そこで全く的外れな共通項となる特徴をつまらなさの元凶だとしてしまうんだ。つまらない作品に共通点があっても、楽しめてる人達はそれを楽しんでるとは限らない。それは何の意味もない肉の旨味ではないベルの音に過ぎないからだと書いてる。
微弱で感じてるかもしれないけど、取りあえず良く分からないので、どういう刺激か?分からないとして話を進める。
一般的な俺TUEEEとの違いは簡単だ。一般的なものは観客として、刺激になるように俺TUEEEが作られてるが、なろうは、自己投影して自分が強い主人公に重ねて主観的に感じる事で楽しいと感じるものでゲームに近い。
さてそこで今まで勘違いしてたんだ。ゲームに近いならゲームバランスがあるからだ。だがどうもこのゲームバランスを考えてない作品も数多くランキング入りしている。ゲームバランスを考えている作品も当然多いけどね。
ジャ何これ?となると、ああこれ拳銃とか試射するようなものに似てるのかも?後何かむしゃくしゃして壊すような感覚。破壊衝動ね。そう多分これなんだ。問題はおかしな点があるんだ。ずっと破壊衝動の発露だけを繰り返していると業務的になってつまらなくなるんだ。仕事でもなきゃやってられない。解体作業になってしまうからだ。
なら繰り返す物語としてPT取れるわけじゃないじゃないか?となる。じゃおかしくないか?そこで批判者達はそういう事を飽きずにやる異常者だとしてしまうんだ。我田引水なんだよな。自分たちとは違うのは確かなので、それは事実だ。しかしだからと言って異常者だとか、悪し様にいうために悪く取れるような精神状態の集団だとしてしまうんだ。
彼らがどう感じてるか?分かってないのにである。私にはとてもそんな真似は出来ない。何かがあるんだけどその何か?が分からないんだ。刹那的な快楽の繰り返しを上手く長時間の楽しみとするようにしてるんだ。それが独特の感じ方なので分からないんだ。私は単純に分からないから異常者だなんていうつもりはない。
もっと数が少なければそういう事もあるかもしれない。だが数が少ないから異常なのであって、数が多い異常なんて無い。独特であっても数の多さから異常というレベルではないと私は見ている。
刹那的なものや短編ばかりなら破壊衝動で片付けていただろう。それは私もあるんだし。だが上位はそうじゃない長編ばかりだ。しかも出来る限り長く続く作品の方が多い。1つ考えられる一番単純な方法は悪人を叩くならその悪人の有様を千差万別にして苦痛するだろう。それを章毎に分ければいい。
でもそうとは言え無いんだよな。
結局今回一番言いたい事は、自分はなろう小説を楽しめていたから分かってる立場からと何か批判的な意見を言う人がいるけど、それどうなのか?と思う。なんと言うか結局早々と批判的になる人って何か肝心なキーが分からなくて飽きてしまったのじゃないか?と見てるんだ。私が今回思ったのは私はかなり楽しめたほうだが、それでもなろうにとって最も重要なキーはイマイチ楽しめてないのじゃないか?と思えて仕方ないんだ。
これからも私は自分の個人的好みで上手くなろうを利用していくだろう。だがこれからもずっとなろうと対合い続けても肝心なキーは分からないまますごしていくんじゃないか?と思ってる。
分からないままに取りあえず一助になるなら?と書いてみたけど、正直なろうをど真ん中で楽しんでる人の論を見て見たいものだと思ってる。
おそらく観客型に慣れてしまった作家では生み出せない自己投影ならでは突き抜けた、リミッターの外れた俺TUEEEも刺激になってるんじゃ無いか?と見ている。先ほど書いたゲームバランスなども良い例だけど、他人事として話を楽しむ場合の作法として調整がどうしてもいるんだ。
こういったものの駆け引きは一般的=観客型にも埋もれていて、だから私は全くなろうが楽しめてないわけじゃないと書いてるんだ。だがそれは計画されたものじゃなくて、結果論として駆け引きのせめぎあいで出てきただけで、基本観客型は俺TUEEEに制限=リミッターをかけて描くと見ている。
ただそれだけじゃない、それなら俺TUEEEじゃなくて最強主人公の話にしたほうが良いからだ。そういった客観的な序列じゃなくて、主観的な破壊衝動のようなののと直結したものだと見てるからになる。ただ最強主人公と被るのは否定できないので、そういったリミッターが排除されやすいのが自己投影型になりやすいと言う話しになる。
大半批判否定で、楽しめてる人の論がほとんどエッセイカテには無い気がしている。観想を超えた自分だけじゃない共通項としての論を語れる人の登場が望ましい。当然その人はど真ん中で楽しめて人じゃないといけない。ただ楽しめてるだけなら私もその候補の一人だからだ。どうもそれじゃ駄目なんだ。