ロスト アンド ファウンド
その日、私は目覚めると何かを忘れている気がした。学校へ行く持ち物も、スケジュールも何度も確認したけれど何も忘れているものはない。ただ、何かを忘れている気がして落ちつかない。気のせいだと思っていつも通り学校へ行ったけれど、学校でもその気分は同じで、それもだんだん強くなってくる。落ちつかないどころか、何にも集中できなくなってきた。授業中も何も聞いておらず、先生に怒られたりした。
「ねえ梨佳、今日すごい変だよ。どうかしちゃったの?」
友達がそう訊いてくるが、うまく答えられない。
「うううん、何か忘れてる気がして……でも何も忘れてないんだよ。でもなんか気分がおかしいんだ……」
「あーそりゃ疲れてんだよ。そういう時は早く帰って寝ちゃうんだな」
「そうだねー」
今日は友達にもつき合わず、一人で帰ることにした。気分が落ちつかないまま、ため息をつきながら帰り道を歩く。いつもは注意していない町並みに、何かないのかと探す。ふと、一つの店を見つけた。いや、看板は出ているがそれは店ではなかった。
「ロスト アンド ファウンド(遺失物預かり所)」
なくしたものを、預かっておくところ。でも、町の中になぜこんなものがあるのか分からない。看板と、簡素な木のドアが一つあるだけで、窓もないコンクリートの建物。いや、昨日までこんな建物はなかったような気がする。でも、できたばかりにも見えない。
遺失物……ここに何かがあるかもしれないと思った。アルファベットが書かれた木の重いドアを開けて、中に入った。並んだ蛍光灯が点いているが、薄暗く、ひんやりした空間で、たくさんの棚があって、たくさんのものが並んでいた。落とし物だろうか。でも、よくある傘や財布なんかではない。扇風機や、ストーブ、木のおもちゃ、皿やグラス、コートのような着るものまである。どれも古そうなので、まるで思い出の品物のようだ。
ふと、人の気配がした。後ろを向くと、背の高い紳士が立っていた。目を見開いていて、まるで人形のようだった。
「いらっしゃい」
「は、はい……」
私はやや怖がりながら答えたが、紳士は優しく微笑した。
「なくしたと思ったものが、ここで見つかるかもしれません。ここは、遺失物預かり所ですから。何をなくしたのか忘れていても、見れば思い出すかもしれませんよ」
私はうなずいた。紳士はそれだけで後ろを向いて去っていった。そして人の気配が消える。まるで棚のどこかに消えたかのようだ。
忘れたと思った何かがあるのだろうか。私は、たくさんの棚を見て歩いた。大事そうなものから、ゴミのようなものまである。そして私はふと、あるものに目を止めた。それは一本の、立って置かれている口紅のケースだった。白地に青の、つる草のような模様、何だろう……見たことある。これ何だっけ。ただこれが、私が探している何かだと思った。
その時、扉が開いて、誰かが入ってきた。外が明るく、逆光で見えない。でも扉を閉めて、顔が分かると、知ってる人だと分かった。あの頃よりずっと大きくなっている。でも間違いない。
「嶺奈ちゃん……」
私が声をかけると、彼女も気がついて私の方を見た。
「梨佳ちゃん、こんなところで会うなんて……」
彼女は近づいてきた。幼稚園時代の一番仲のいい友達。でも小学校で離ればなれになって、会うことはなかった。
「嶺奈ちゃん、ひさしぶりだね。元気だった?」
「うん、梨佳ちゃんも、大きくなったね」
「うん、まあおかげさまで」
私は笑った。彼女は私の前にある口紅のケースに目を止めていた。
「それだ……思い出したよ……」
「え? 何?」
「覚えてない? ちょうど十年前だよ」
嶺奈のその言葉で、私は思い出す。二人だけの公園。私と嶺奈は、ベンチでこの口紅を拾った。きっと誰かの落とし物だ。あの時の会話を思い出す。
―嶺奈ちゃん、これ、どうしよう
―分かんない
―もらっちゃおうか
―そうだね。でも、子供が使っちゃダメだよ
―大人になったら使おうよ
―十年たったら使えるよ
―じゃあ嶺奈ちゃん、これ預かっておいて
―いやだよ。なくしちゃうよ。梨佳ちゃん持っていてよ
―私もなくしちゃうよ
―どうしよう
その時だ。あの紳士が立っていた。そう、さっき会ったのと同じ紳士だ。
―私が預かっておきましょう
そして十年目の私達は思い出した。私は口紅を手に取った。
「預かっておいてくれたんだ。ここで……」
「不思議な話だね」
私と嶺奈の目が合う。私が思い出したのは、それだけではなかった。あの頃、私は嶺奈のことを何度も何度も好きだと言った。もちろん小さかったから、それは恋愛感情とかではなくて、本当に仲がいいから好きだという意味でしかない。
「私達二人とも、ちょうど十年を思い出したんだね」
嶺奈が微笑しながら言う。昔と変わらない。ただ、まるで特別な関係のように、何か胸の高まりのような気持ちを覚える。
「せっかくだからこの口紅、塗ってみる?」
私はそう言って、ケースのふたを抜いて、回して中を出してみたが、部分的に透明な脂のようになっていて、どう見ても変質していた。
「ありゃ……」
「これは使えないね」
私達は笑い合った。部屋の中を見回すが誰もいない。私は口紅のケースを手に、嶺奈と一緒に建物を出た。
「梨佳ちゃん、口紅使ったことある?」
「ないよ。別に使う気なんてないし」
「私もない……でもせっかくだから一度買って使ってみない?」
私は賛成したが、コスメショップに行くお金もない。私達が行ったのは商店街にある百円ショップだった。いろんな色がある。ただ、私が使いたい色は決まっていた。あの日、拾った口紅と同じ色。ケースから出してみて、変質していない部分で色を合わせて選んだ。割と鮮やかな赤い色だ。
「私はこれ。拾ったものと同じ色」
「うん、私もそれがいい。一緒に使わない?」
「別に、いいけど」
それから嶺奈の家に行くことにした。学区が違うので少し歩く。家に入ると誰もいない。一人っ子だし、両親とも働きに出ているという。
「嶺奈ちゃん、あの建物どうやって見つけたの? 私は学校の帰り道、たまたま見つけたんだけど」
「朝から何だか落ちつかなくてね……学校が終わったら、ずっと歩いていた。それで見つけたんだ……何か忘れているような気がして」
「私と同じだ」
買った口紅を塗ってみることにした。リップクリームと同じ要領かと思い、出して無造作に塗ったら嶺奈に笑われた。
「せめて鏡ぐらい見なよ」
「それもそうだね」
鏡を見たら悪趣味なほどはみ出している。私は慌ててティッシュでふき取ると、今度は鏡を見ながら割と慎重に塗っていった。
「どう?」
嶺奈は私の口をじっと見る。
「イーってしてみて」
私は言われた通りにした。
「あ、やっぱり歯についてるよ」
「ええっ?」
歯についた分を落とそうと思い、ティッシュを手にしたが、結局うまく落ちない上に唇の方まで落ちてしまい、結局また全部ふき取ってしまった。
「うーん……慣れないなあ」
「そうかな……多分、直に塗るからやりにくいんだよ。ちょっと貸して。指で塗るといいって聞いたことある」
そう言って、嶺奈は口紅を取ると、指先につけて私の唇に塗っていった。
「ほら……いい感じになってる……」
嶺奈の指先が私の唇を這うに連れ、何だか触られてはいけないところを触られている気がして、思わずスカートの裾をつかんだ。
「嶺奈ちゃん……」
「何?」
「私ね、あの頃、何度も嶺奈ちゃんに好きだって言ったこと覚えている?」
「ええっ? それ私が言ったんだよ。梨佳ちゃんのこと好きだって」
今でも好きかもしれない。嶺奈の指が動くたび、体の奥から、何かが沸き上がってくる。私は目を閉じた。口が半開きのまま、嶺奈の指先を感じている。
「梨佳ちゃん、その顔、かわいいよ」
「ええっ……そうなの?」
自分でも気恥ずかしいほど、声がうわずっていた。
「ほら、指を動かすと体が反応する」
「ああ……ち、ちょっと……そういうやめなさい」
「さて、もういいかな」
嶺奈はそう言って、指を離した。解放されたような、残念なような気分になって、私はため息をつき鏡を見る、唇が赤く、きれいな形で、自分がずいぶん大人っぽくなったかのようだ。
「嶺奈ちゃん、上手だね」
「私にも塗って」
「うまくいくかな……」
私は嶺奈がしたように、口紅を指先につけると、嶺奈の唇に塗っていった。嶺奈の唇は割と薄い。でも触ると柔らかくて、指先で撫でていると可愛らしい。ずっと触っていたいので、私はゆっくりと指先で唇を撫でる。嶺奈はやや上を向いて目を閉じていたが、体が少し震えていて、呼吸が少し乱れている。
「り……梨佳ちゃん……ちゃんと塗ってる?」
喘ぐような小さい声で言う。
「塗ってるよ」
「まだ終わらない?」
「もう少しだよ……嶺奈ちゃんもかわいいな」
口紅はきれいに塗られていた。でも、私はまだ嶺奈の唇を指先で撫で続けている。嶺奈の頬が、わずかに赤く染まっている。
「あっ……」
嶺奈の口からそんな声が漏れて、私は指を離した。嶺奈は慌てて鏡を手にして、自分を写した。
「う、うん、うまく塗れたね……」
嶺奈は鏡を置く。私達は見つめ合った。あの頃と変わらないと思った。無邪気で可愛らしく、大好きな嶺奈。
「……嶺奈ちゃん……もし……もし嫌じゃなかったら……キスしてみない?」
「えっ?」
「せっかく口紅も塗っているし」
それが理由とは思えないが、赤くなった嶺奈の唇を見ていると、そのままにしておきたくない。私の唇を押しつけてしまいたい。
「いいよ……」
私達はお互いに手を伸ばし、体を抱き寄せた。
「嶺奈ちゃん……私、今でも大好き」
それを聞いて、嶺奈はうなずく。
「うん、私も梨佳ちゃんのこと、大好きだよ」
ゆっくりと顔を寄せ、赤い唇同士を触れ合わせた。その瞬間に、体が熱くなった。唇を押しつけては離し、夢中になって何度もキスをした。嶺奈の呼吸はさらに乱れて、私も普通に呼吸ができない。私達はベッドに倒れ込んで、横になったまま何度もキスをする。嶺奈のややふくらんだ胸を撫でると、甘く鳴くような声を上げた。嶺奈の手も、私の体じゅうを優しく撫で続け、私も声を上げる。
そしてどれくらい時間が経ったか、私達はただ横たわっていた。外が薄暗くなっている。
「もう帰らなきゃ……何時だろう」
私は机の上に乗っている時計を見た。
読めなかった。
「え? ……どうして?」
私は時計をじっと見る。短い針は五と六の間で、長い針は十のところ。それは分かる。でも、それの意味するところが分からない。
「なんで? なんで分からないの?」
「どうしたの?」
嶺奈が不思議そうに訊く。
「時計が読めなくなった……今何時?」
嶺奈は笑った。
「冗談でしょ。今はねえ……」
そう言いつつ、嶺奈もあとが続かない。
「嘘……私も読めない」
「どういうこと?」
「どういうことって……分からないよ」
私はパニックになりかける。そして、今まで忘れてたことを一つ、思い出した。口紅を預かってもらう時、あの奇妙な紳士に言われたこと。
―預かり料は、お返しした後で払っていただきます。
「もしかして、預かり料として能力を持って行かれたのかも……」
「ええっ? そういうことなの? そんなことできるの?」
「分からない……でも、どうしよう……」
すると、嶺奈が古い口紅を手にして立ち上がった。
「これ、返そう……あの場所に」
「それで大丈夫かな」
「分からないけど……」
私達は慌てて支度をし、部屋を出ようとした。
「ちょっと待って……せめて顔、何とかしない?」
「顔?」
私達は二人とも、口紅を塗っているだけでなく、キスの跡が顔じゅうについていた。慌ててハンカチを濡らして、顔を拭きながら外に出て、あの建物へと急いだ。途中、店先などに時計があったがやっぱり読めない。急がないと、あの建物が消えてしまう気がした。もう消えているかもしれない。走ってたどり着くと、建物はまだあった。
「ロスト アンド ファウンド」
中に入り、口紅を元の棚に立てて置く。そして私達は外に出た。
ふと気がつくと、あたりが暗くなっていた。まるで夕刻だ。
そして私の目の前に、いきなり知っている人が現れたので驚く。幼稚園の頃、とても仲がよくて、でも小学校で別々になってしまった。
「嶺奈ちゃん……でしょ? すごいひさしぶり……」
それを聞いて、彼女も少し驚いたらしい。
「えっ……梨佳ちゃん? どうしてここに……でもひさしぶり……幼稚園出て以来かな……」
そういって嶺奈は笑った。私は、朝からずっと何かを忘れている気がしていたけれど、今はその気がしない。不思議な話、嶺奈と再会することを忘れていたから落ちつかなかった……そんな気がする。そして嶺奈も、何か忘れたようで落ちつかず、歩き回っていたという。
二人でしばらく歩いて、ある店先の時計を見ると、夕方六時過ぎ。また会う約束をして、私達は別れた。