カラス
ゴミ捨て場でカラスが生ゴミを漁っている。今日は卒業するのに丁度いい日だ。
卒業アルバムをゴミの山に捨てて、不法に投棄してある粗大ごみの山から木椅子を拝借すると、隣の原っぱの真ん中に据えた。木椅子には灰が山程積もっていて、ハンカチで拭うと一拭きで真っ黒になる。それも捨てた。時計を見るとまだ時間がある。僕は少し窮屈になった制服を整え直し、未だ傷跡残る右手で、長くなった髪を梳いた。ざあっと原っぱの雑草に風が吹き抜け、カラスが興奮して鳴く。塀の向こうでチャイムが鳴る。その時が来たのだ。僕は起立をして紙を出す。
答辞
苦く苦しい灰に囲まれて、僕は二年と九か月をあの学び舎で過ごしました。先生からの恫喝や同級生の悪乗りを見過ごして、教室から窓の外を眺めながらいつも考えていました。この校舎を取り囲む塀の中こそ不自由で、この塀の外こそが自由なのだと。辞めてしまった今となっては思うのです。この塀の外こそが不自由で、塀の中こそが自由なのだと。
あなた方先生は私の両親を泣かせたけれど、思えば確かに先生の言うとおり、私は不勉強でした。五年間習った英語が未だに喋れません。二次以上の因数分解は未だに間違えます。教えて頂いていることの意味は分かっても、意義が見出せずに投げ出してしまったことも山ほどあります。従順に学んでいる生徒達に混じって、一匹だけぼんやりとしているのはさぞご不満だったことでしょう。
行事においても部活動においても、たいした協力はせず、ただ灰の降る空を見上げては溜息ばかりを漏らす生徒を気味悪く思うのも無理がないかもしれません。
ほとんどにおいて先生は正しく、また、ほとんどにおいて私が間違っていたのは認めます。しかし、先生。私が唯一大事にしていた正義までも否定なさるのは今でも納得がいきません。私があの時振るった暴力は、今でも間違いでないと確信しているのです。
お隣の家で同じクラスの美代ちゃんに過度な性的要求をぶつけていた、あの田所という不良をどうして殴らずにいられるでしょうか。全てあいつが悪いんです。
私は彼女を守らなければという思いから、今でも私はこうして塀を隔てて近くに居続けるしかないのです。
しかし、それも今日で終わります。幸いにもこの三か月は何事もなく、彼女はこうして卒業を迎えられるのですから。
二〇一六年 三月 岸川大輔
答辞の紙を封筒に入れて、胸のポケットに大事にしまう。学校に向けて一礼をすると、向こう側から学校へと向かう一人の坊主頭の学生がいた。髪型が変わっていたので一瞬分からなかったが、あの不良である。これはいけない。僕は身構えて校門の方に先回りをした。
校門には既に先生達が待ち構えていた。それはそうだ。あんな性的な欲求に忠実な男、卒業式に出られる訳がない。それに今日は美代ちゃんの、生徒会長としての晴れ舞台。もうすぐ彼女は在校生に向かって答辞を読まなくてはいけないんだ。それを邪魔する奴は許さない。僕は電柱の陰に隠れ、不良が前を通るのを待ち構えた。段々と距離を詰めてくる。彼は油断しているようだ。今だ!
僕が電柱の陰から飛び出そうとした瞬間、後方で歓喜の声が上がった。皆が応援してくれているのだろう。僕の姿を見て、先生が誉めてくれるかも知れない。やる気と若干の興奮を覚え、不良の前に躍り出たその時、誰かが背中にぶつかった。丸みを帯びた筋肉が僕の顔をアスファルトに打ち付ける。
「田所君。今日が謹慎明けだったのね。おめでとう!」
「おう。」
「坊主姿もかっこいいよ。」
「そうか。」
田所と美代ちゃんは僕の目の前で抱き合ってキスをした。
「っていうか、美代。お前今誰かを突き飛ばさなかった?」
田所は彼女にきつく抱きしめられてこちらを見ることが出来ない。代わりに美代ちゃんが僕の方をしっかり見据えて冷たく一言こう言った。
「誰ともぶつからなかったよ。」
その言葉をきいた瞬間、僕の全身の力は脱力し、体は灰にまみれた。神様。こんな仕打ちをなさるなんて。僕の右目から熱い涙がこぼれ落ちたが、顔じゅうにまみれた灰が僕の涙を汚していく。ああ、僕の涙は綺麗に流れることも許されないのか。力の入らなくなった体は空を向き、灰のなすがままに汚された。
「行こう。田所君。灰が降ってきちゃったよ。それから私、これから答辞を読むんだ。」
「そうか。」
美代ちゃんは田所の手を引いて、自由な塀の中へと入っていく。楽しそうに笑いながら。
彼女達二人が校門の中に入っていくと、歓声や冷やかし。同級生の悪乗りが灰色の世界にこだました。
このままでは納得のいかない僕は、力の入らない体をアスファルトで削りながら校門へと近づいて行く。歩けば数秒のところを数分かけて辿り着くと、体育館では卒業式が始まっていて、元担任の先生が一人で佇んでいた。小さくなった僕は彼を見上げるようにして泣いて懇願する。
「どうか、僕をあの輪の中に入れてもらえませんでしょうか。そもそもおかしくありませんか?僕は頑張った結果退学で、田所は謹慎ですか?こんなの不公平です!」
先生は僕を見下げてこう吐き捨てる。
「誰だ。君は。」
衝撃を受けた僕の心に更に追い打ちをかける。
「少なくとも、彼は自分自身で考えて自分で責任をとった。彼は頭を丸め、休みの間も心を入れて勉学に励み、卒業前の試験を受けさせてくれと頭を下げた。自分の正義ばかりを振りかざし、責任を取らない者に居場所は無い。そもそも、塀の中は嫌じゃなかったのかね。そうは言うものの、私も教育者だ。一つだけ君に言葉を送ってやろう。……ここからどこに行くのも自由だ。ただし、今度は自分の責任でどこにでも行きなさい。」
それだけ言うと、先生は体育館の中へと入っていってしまった。
取り残された灰の中で、身が削れて小さくなった僕は空を見上げる。どこにでもって、どこへ。僕は退学してからの三か月を美代ちゃんに費やしてきたけれど、僕は、僕自身はどこへ行きたいのだろう。そんなことを考えていると、削れて無くなってしまった両腕から黒い翼が生えてきた。口も尖って鋭くなり、目は炯々としてまるでカラスである。体育館では翼が欲しいと合唱をしているが、僕は一足早く翼を授かった。体中の灰を羽ばたいて落とし、呼吸を楽にする。
この翼なら、どこへだっていけるかもしれないな。僕は小さな翼を大きく広げた。これだけ体が黒ければ、この灰色の世界の中でだれか真っ黒に染まった僕を見つけてくれるかもしれない。どこへ行こうかな。まあ、どこだっていいさ。少なくとも、少しでも空気の良い場所へ。
行こう。