第36話《訓練、訓練》
最初の訓練から数週間が経とうとしていた。
水が朝日を反射しなら川を流れる縦穴の洞窟の中で、金属同士の硬いものがぶつかり合う音が響いていた。
「フォティア。そんな攻撃じゃ、わしの防御は破れないぞ!」
音の正体はフォティアとコミロフが持つ剣が鍔迫り合いをしている音だ。
コミロフは持っている剣でフォティアの攻撃を余裕を持って防ぎ続ける。
「何のために両手で持っているんだ!もっと力を入れろ」
そう言われても、フォティアは中々力を込められない。理由は簡単。自分がいる場所のせいだ。
「そんなこと言ったって。怖くて力なんかでないよ」
訓練から数週間。毎日のように高さ数メートルにある手摺のない橋の上で訓練を行っていたが、中々恐怖を克服する事ができない。
落ちたら死ぬ。そう思っただけで、簡単に身体が震えてしまうのだ。
因みにフォティアは高所恐怖症ではない。しかしここで激しく動く事などとてもできそうにない。
それでもフォティアは両手でショートソードを持ち、自分からコミロフに攻撃を仕掛けるが、簡単に弾かれてしまう。
「まだまだ恐怖を克服出きていないみたいだな」
コミロフはいきなり剣を捨てると、反応できないフォティアの足を引っ掛けて転ばす。
「ちょっと、嘘――」
フォティアの身体が前のめりに倒れ、視界いっぱいに川と石の床が拡がっていく。
橋から落ちる直前、襟首を掴まれて止まる。
「どうじゃ。少しは恐怖も薄まったかの?」
「少しは慣れた! 慣れたからこの体勢元に戻して!」
フォティアは宙づりに近い状態で涙を浮かべながら絶叫した。
★★★★★★★
フォティアの一日はこうだ。
太陽が昇ると同時に目覚め、コミロフが獲って来た朝食を食べる。
食べたらすぐに武術の訓練。
それを昼まで続けていると、下からラトスーアが二人に声をかける事で昼休憩になる。
昼餉は彼女が作った少し苦いキノコと薬草のスープ。これを飲むと身体の疲れが嘘みたいに取れる。更に食後に出るハチの巣――最初見た時は美味しそうに見えなかった――の甘さが、疲れた身体全身に心地よく拡がっていくのが堪らない。
月が空を統べた時、フォティアとコミロフの一日の訓練は終わりを告げる。
疲労と打ち身と筋肉痛で、身体中が悲鳴を上げて動けなくなっても、肉の焼けるいい匂いを鼻が感じ取ると、すぐさまお腹の虫が早く動けと急かす。
もちろん匂いの正体はコミロフが狩ってきた獲物が調理されて焼ける香ばしい匂いだ。
たくさん動いて身体にエネルギーが欲しいフォティアは軋む身体で這いずりながらかぶりつく。
そして完食すると同時に、周りが死んだのではないかと錯覚するほど、イビキもかかずにすぐ眠りに落ちる。
そんな毎日を十歳の少年は送っているのだ。だからたまにはこんな事もあった。
コミロフが例のごとく食べ終えて眠ってしまったフォティアを抱え、寝床に寝かせる。
「おやすみなさい」
ラトスーアがスヤスヤと眠る彼に布の掛け布団――コミロフが獲った動物の毛皮――を、かけた途端手を掴まれる。
「母さん……」
コミロフは夢を見ているような眼でラトスーアを見つめ続ける。
フォティアが寝ぼけているのはラトスーアには分かっている。だからそのまま否定せずに受け入れた。
「どうしたの?」
ラトスーアは演技ではなく、本心で彼に語りかける。
「何か怖い夢でも見たのかしら?」
「その、母さんや父さんが僕の前からいなくなっちゃう夢を見たんだ。だから……」
ラトスーアを見つめるフォティアの目には大粒の涙が溜まっていた。
「大丈夫。大丈夫よ。お母さんはどこにも行きませんよ」
ギュッと抱きしめられて、暗かったフォティアの表情が一転して明るくなる。
「ほら。母さんのココにおいで」
「うん!」
フォティアはためらう事なく笑顔で彼女の太ももの上に頭を埋めた。
「母さんの膝枕柔らかくてあったか〜い」
「喜んでくれてよかった。さあ、おやすみフォティア」
「うん。おやすみなさい。かあ……さん」
ラトスーアに抱きついたまま、フォティアは再び深い眠りに落ちていく。その顔はとても安らいでいた。
★★★★★★★
「失礼します」
ラトスーアは自分の太ももの上で健やかな寝息を立てる少年の黒髪を撫でていると後ろからくぐもった声が掛けられる。
「どうしました。見ての通り私はここを動けませんが、それとも火急の用事ですか?」
コミロフはよく眠るフォティアをチラリと確認して、少し声の音量を落として口を開く。
「はい。彼には真実を伝えないのですか?」
「来たるべき時が来たら勿論伝えます。それまでは、彼には武術を極めることに集中してもらいたいのです」
「それなら良いのです」
「話はこれで終わりですか? それならフォティアを起こしたくないので、もう下がりなさい……そうだ。この子の成長具合はどうですか?」
ラトスーアはまるで実の息子を見るような慈愛に満ちた眼差しを向けて、彼の黒髪を梳く。
「はい。少し優しすぎるところとあり、まだまだ恐怖心も克服するのは遠そうですが、確実に成長しています。
このまま努力を怠らなければ、いずれこの老いぼれを追い抜くのも、そう遠くないかと思われます」
「そうですか……ではそのタイミングに彼には全てを話そうと思います。誰が彼の魂をここに導いたのかを」
そう話すラトスーアの瞳はとても悲しげで、見るものすべての涙を誘うものだった。
コミロフは頭を下げてその場を後にする。ラトスーアは彼の鉄靴が立てる金属音を聞きながら、フォティアの髪を飽きる事なく撫で続けていた。




