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第30話《逃亡》

「君のような子供が霧を蹴散らしたのかな?」


  金髪で細目の黒チェニックの男が優雅な足取りでフォティアに近づいてくる。


「誰ですか?」


「うん? 会った事なかったかな。私の名前はアディヒラス。それでこちらの質問に答えてくれないかな?」


「質問?」


「霧を払ったのは君ですかと尋ねたのだが?」


「うん。僕が霧を消しました」


  アディヒラスはチラリとフォティアの右手に持つ短剣を見て「そうですか」と呟いた。


「クククッ。《可能性のカケラ》本当にいたのですね」


「? 何を言っているんですか?」


「いえいえ。こちらの事ですよ。それで少年は何処に行こうとしているのですか?」


「ぼくは村にいる父さんに用があるんです。そこを退いてください」


「父さん? それは三人組の武装した人間達のことですか?」


  フォティアは父と共に魔物に立ち向かったラースとジョイの事だと思って頷く。


「そうです。父さんは傭兵をしています。どこにいるか知っているのですか? 知っていたら教えてください」


「分かりました。私が知っている事でよかったら話しましょう」


  アディヒラスは人の良い笑みを浮かべながらフォティアに自分の知っている事を話し始める。


「教会で私に襲いかかってきた三人がいたので、全て返り討ちにしました」


「えっ?」


「まず弓を使う男が私に矢を放ったので、それをそっくりそのまま、お返してやりましたよ。彼は首から矢を生やしたまま落ちて死にました」


「ちょっと待って一体何を……」


「次に仮面をつけた醜い大男がいましたので、そいつの身体をバラバラにして頭を踏み潰してあげました」


  黒チェニックの男は楽しそうに笑いながら、ラースとジョイを殺した事を饒舌に話す。


「そして最後、剣と盾を持った男の……」


「言うな! 聞きたくない」


「聞いてくださいよぉ。恐らく、あなたのお父さんの最期ですよ。そう。私は彼の腹に両手を突っ込み――上半身と下半身を引きちぎってやったのです!」


 黒チェニックの男は楽しそうに話しながら、両手を大きく広げた。


「彼は、下半身を失い血を流しながら、私に必死に命乞いしてましたよ。助けて助けて、と泣きながら死んでいきました」


  アディヒラスの言葉には嘘があったが、フォティアにそれを確かめるすべはない。


「父さんを殺した……?お前が、お前が殺したのか?」


「ええ、そうですよ。私が殺しましたよ。そして村を霧で覆い、その中に魔物を放ったのも私です。そして霧の中で獲物が引っかかったようなので見にきてみれば……君を見つけたのです」


「お前が、あの魔物を呼び寄せたのか、母さんもお姉ちゃんもお前のせいで……」


  フォティアは唇から血が出るほど強く噛みしめる。


「そう。私がこの村の人間を絶望という谷底に蹴落としてやったのです。さあさあさあ!両親の仇を前にして君はどうしますかぁ?」

 

「決まってる。これで倒……うぶっ」


  短剣をの切っ先をアディヒラスに向けようとしたその時だった。フォティアの身体の奥底から一気に何かが口まで込み上げてきて、慌てて左手で口に栓をする。


  立っていられず、地面に膝をついて込み上げるものを耐えていたがそれも短い間だった。


  左手の堤防は決壊し、アディヒラスが見ている前で盛大に嘔吐する。


  胃の中のものがなくなっても、げぇげぇ、とフォティアは吐き続ける。


  アディヒラスの所まで異臭が届く頃。やっとフォティアの嘔吐が止まった。


  立ち上がろうとしたがそれも上手くいかず、自分が吐いた反吐の中に再び崩れ落ちる。


  「ゲホゲホッ。からだが……言うこと聞かない」


「フォティアはもう一度起き上がろうとして右手を地面についた時、ぐにゃりと嫌な感触を感じた。


  それの正体を確かめるために、右手に目を遣った時、ありえない事が起きていた。


「な、何? これ……ぼくの腕?」


  フォティアの手は肉が無残に潰れ中から砕けた骨が突き出している。よく見ると、親指と小指も無くなっていた。


  一体自分に何が起きたか分からなくなるが、心当たりを一つだけ。それはフォグネークを倒した時だった。


(あの時、口に手を突っ込んだから……?)


  「うっ……」


  フォティアは自分の変わり果てた腕を見てまた吐き気がこみ上げて来たのでそれを必死に我慢する。今吐けば身体に残された全ての力も失ってしまう気がしたからだ。


  アディヒラスは顎に手をやってそんなフォティアの姿を観察していた。


「成る程。君はまだその力を使いこなせていないようですね。なら私が相手するまでもないでしょう」


  アディヒラスが指を一つ鳴らすと、何処からともなく二匹の犬の魔物が走って来た。


  全長は二メートルはありそうで、体毛はなくツルッとした黒い肌。


  鋭い牙が生えた大きく裂けた口から赤黒い舌を伸ばし、ギラギラとした黄色い目でフォティアを凝視していた。


  地面にうずくまる獲物を見て、我慢がきかないのか、口から涎を垂らしながら、今にも飛びかかろうとしている。


「よしよしお前達。あの肉を……喰え」


  アディヒラスの命令を受けて、犬の魔物マドッグ達は――前足は人間の腕にそっくりだ――いたぶるようにゆっくりとフォティアに近づいていく。


 フォティアは逃げたくても身体が動かず、反吐に顔をつけたまま、近づいてくる犬の魔物をただ見ていることしかできない。


 その時またあの声が聞こえて来る。


『そのまま食べられるのを待つ気ですか?』


(もう逃げたくても、身体が動かないんだ)


  すでに口も上手く動かないので、心の中で反論したら、なんと相手から返事が返ってきた。


『……生きたいですか? 死にたくないですか?』


(死にたくない!)


『なら、私の言うことを聞いてください。今のあなたでは逃げるという手しかありません。できますね?』


  こちらを見てニヤつく仇を前に逃げたくはなかった。けれど身体が使い物にならないことも自分がよく分かっていた。


(……あなたのいうことを聞きます)


『分かりました。では、ここから逃げる手助けをしてあげましょう。フォティア。大丈夫いずれあなたは誰よりも強くなれます。私を信じて』


「……さて私も、そろそろ夕食にしますか……ん?」


  フォティアの最後を見ずに、その場から立ち去ろうとしたアディヒラスの視界に光るものが飛び込んで来た。


  それはまるで蛍のようなかよわい光で、それがマドッグ達の行く手を遮るようにフォティアの前に現れる。


「何だ? あの光は……虫か何かか?」


  マドッグ達も一瞬警戒していたが、その光が何もして来ず、弱々しい光しか発していないので、無害と考えそのまま歩を進める。


  突然、光の球が太陽のような強い光を発した。


「「ギャン!」」


「ぐわっ!」


  そのまま近づいて来た魔物の目を灼き、アディヒラスもとっさに目を瞑るが、瞼の裏に光が灼き付き視界を奪われる。


  「くそっ! やってくれる……いない?」


  数秒で視力を回復させたアディヒラスの前から光の球とフォティアの姿が煙のように掻き消えていた。


「チッ。何処に行った」


  アディヒラスに遅れてマドッグ達も視力が回復したのか、いなくなった獲物の姿を探し求める。

 

  犬の魔物達は目視で探すのをやめ、鼻を動かし始める。そして何かを嗅ぎ取ったのか、そのまま近くの森の中に全速力で走って行く。


「ふむ。目を絡ませたのは良かったですが、鼻が効くことを考慮してなかったようですね。まあ、遠くには逃げられないでしょうから、あとは任せておきましょう」


  アディヒラスは自分の食欲を満たす事を優先するために、村の教会に戻って行った。

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