第21話《異変》
「泊まる場所なんですが、うちの村は宿がなくてね。あの教会に泊まってもらってもいいですかな?」
「ええ。構いませんよ。私の方から押しかけておいて贅沢など言いません」
村長は額、正確には村の長になってから苦労続きの所為で後退した頭の汗を吹きながら、村の中央にある教会に、来訪者アディヒラスを案内する。
ゼルトは口を開かず一挙手一投足を見逃さないように来訪者の背後についていた。
村長が教会の両開きの扉を押しあける。すると、中にある一人の女性が三人に優しい眼差しを向けた。
「あの像は炎の女神アストラですね。他の村でも見ましたが、この国では彼女を信奉しているのですね」
彼ら三人に眼差しを向けたのは、正確に言えば女神アストラの姿を模した木彫りの像だ。
村人達は毎朝その前に置かれたベンチに座り、この像に祈りを捧げるのが日課になっている。
「ところでアディヒラス殿。どれくらいこの村に滞在されますかな。ここには毎朝村の者達が祈りに来るところです。あまり長居されると……その……」
村長の歯切れが悪い言葉が、教会の中に響き渡る。
そんな村長の態度にも、アディヒラスは笑みを崩すことはない。
「分かっています。用が終わればすぐに出て行きますよ。あなた達の邪魔などしません」
「ひとつ聞いてもいいですかな。アディヒラス殿」
ここまで一言も喋らなかったゼルトが口を開く。
「何でしょう。ゼルトさん」
「あなたの言う《可能性のカケラ》とは何なのですか? 」
「はい。それはある神の力を持つ可能性を持つ者の事です」
「? 申し訳ないが何を言っているのかさっぱり分からないのだが……」
村長は絶句して意味が分からず顔をしかめ、ゼルトも理解に苦しみ、頭痛がするほどだった。
「いいのですよ。分からなくて」
ニヤリとアディヒラスは口元の笑みを深める。それを見てゼルトの中でこの男はどこかおかしいと警鐘を鳴らす。
アディヒラスの笑顔は目の前にいるゼルトと村長を、いや人間全てを見下しているかのような笑顔だったからだ。
そしてアディヒラスが次に発した言葉でゼルトは目の前の男を敵とみなした。
「あなた達のような下等な人間には何もわかりはしませんよ!」
アディヒラスの激しい言葉の風圧に押されるように扉がひとりでに閉まる。教会の中は鎧窓が閉まっている為に、蝋燭の弱々しい灯りだけが室内を薄暗く照らす。
「村長! 俺の後ろに隠れろ!」
ゼルトは素早く動き、腰の剣の柄に手をかけるが一歩遅かった。
アディヒラスはまるで突風のように素早く移動し、伸ばした右手で、何が起きたかついていけずに動けない村長の首をガッシリと掴んでいた。
「全く人間という生き物はノロすぎますね。さあ、剣から手を離してください。さもないと……」
「そんな事はできるはずがないだろう!」
目の前の敵に対抗できる武器を自ら捨てる事は命を差し出すと同じ事。ゼルトは構わずに鞘から剣を抜こうとするが……。
「ぐあぁぁぁっ」
重苦しいうめき声が村長の口から漏れ、ゼルトの手が止まる。アディヒラスが村長の首をほんの少しだけ強く締めたからだ。
「村長から手を離せ!」
アディヒラスは口元に笑みを浮かべたまま、ゼルトの方を見ながら首をかしげる。
「うん〜? ゼルトさんでしたっけ。あなた、私に命令できる立場ですかね? 村長さんはどう思われます」
「がひっがあぁぁっ」
アディヒラスが村長の方を見たと同時に、先程よりも大きいうめき声が村長の口から漏れる。首を絞めている右手が、さらに強く力を込めたようだ。
「ほら、村長さんもこう言っています。さあ、剣から手を放しなさい」
アディヒラスはゼルトに見せつけるように村長の身体を片手で持ち上げる。その所為で、さらに首がしまったのか、村長の顔は青ざめ全身が痙攣しだす。
「分かった。手を離す。お前には何もしないから村長を離してくれ。頼む」
ゼルトは剣から手を離し、抵抗する意思はないという意思表示で両掌を相手に見せる。
「宜しい。最初から素直にそうしてくれればいいのですよ。ところでひとつ質問なのですが……」
アディヒラスは村長の身体を持ち上げたまま問い掛ける。
「何だ。何でも答えるから、まず村長を離してくれ。本当に死んでしまう!」
ゼルトが言う通り、村長の顔は醜く青ざめ、白目はぐるりと回転し白目を剥き、全身の痙攣が止まらなくなっていた。
「あなたが答えてくれればすぐ解放しますよ。村長さんに家族はおられますか?」
「いや、いない。彼は独り身だ」
ゼルトは嘘をつかずに正直に話す。村長は結婚する事もなく、村の為に尽くしていたのを知っているからだ。
「そうですか。ゼルトさん。あなたにご家族は?」
ゼルトは自分の妻と息子の姿を頭に思い浮かべる。目の前の魔物に話せば、二人に危害が加わるかもしれない。そう思うと、答えるのを躊躇ってしまう。
「早く答えてくださいよぉ。村長の首、握り潰してしまいますよぉ!」
アディヒラスが掴んでいる首からミシミシと骨が軋むような音が聞こえてくる。村長の口からはすでに悲鳴さえも聞こえなくなっていた。
「……妻と息子がいる。頼む正直に話した。彼を解放……」
「教えてくれてありがとう。ゼルトさん。お望み通り村長さんは解放して差し上げますよぉ!」
ゼルトがが言い終わる前に、アディヒラスは村長の首を潰した。胴体は首から血を噴き出しながら床に落ち、頭はクルクルと回転しながら少し遅れて落ちる。
その顔はゼルトを呪うかのように、苦悶の表情を浮かべていた。
「なっ……何故……?」
「ん? 解放して差し上げたではないですか。醜い肉体から魂をね」
「貴様ァァァァァッ!」
その言葉を理解すると同時にゼルトは動いた。この時、家族や村の人々が危険に晒される可能性は頭から吹き飛んでいた。
目の前の魔物を倒す。その為だけに全神経を集中させる。
一気に間合いを詰めて、笑う魔物の首切断しようと、剣を横薙ぎに振るう。
アディヒラスは残像を残すような速さで避けるが、ゼルトは確かに肉を斬る手応えを感じていた。
彼の持つ刀身に黒い液体、魔物の血が付着している。
「おやおや……」
ゼルトの必殺の一撃を避けたアディヒラスが、自分の首を触れて黒い血がついた指を見ていた。
「やりますねぇ。避けたつもりだったんですが……人間のくせに、なかなか疾い」
「次は確実に貴様のニヤケ顔を斬り裂く」
ゼルトは再び、踏み込んで距離を詰め、鋭い切っ先をアディヒラスに向ける。
ニヤケ顔を斬り裂く、と言っておきながら、そこに意識を向けさせておいて、胸部にある心臓を狙って不意打ちした。
アディヒラスの笑顔は凍りつき、体は反応できずに棒立ちのままだった。
(殺った!)
ゼルトの目には、持っている剣の切っ先が相手の胸に吸い込まれていくように見えていた。
「私が死ねば……」
しかしアディヒラスの一言で、ゼルトの動きが止まる。切っ先はチェニックの布を突き通し、皮膚に軽く突き刺さって止まる。
「なんと言った?」
怒りの眼差しで睨みつけるゼルトにアディヒラスはニヤニヤと笑いかける。
「いえ、大したことではありません。私が死ねば、潜んでいる魔物達が村を襲います。と言いたかっただけです」
笑顔のアディヒラスと対照的に、ゼルトは折れるほど歯を噛み締めて、目の前の魔物を睨みつける。
「どうしたのです。ほら胸を貫いていいのですよ。私はあなたの天敵ですよ。ゼルトさんの腕なら、一人で魔物どもを殲滅できるでしょう……」
アディヒラスが胸に切っ先が食い込むのを構わずに、ゼルトの耳に顔を近づける。
「まあ、あなた一人は生き抜けても、奥さんと息子さんは無事でしょうか?」
ゼルトの頭の中で、何物にも変えがたい宝であるホルルとフォティアが魔物達に蹂躙されている光景が再生される。
「……お願いだ。家族には手を出さないでくれれ」
ゼルトは目線を合わせずに剣を捨てて目の前の魔物に懇願する。
「ふふふ。いいですよ。取り敢えずあなたの家族には手を出さないであげましょう。ただし……私の提案を聞いてください」
アディヒラスは落ちた剣を拾い、ゼルトの鞘に収めながら、ある提案を話す。
それを聞いたゼルトの目から涙が溢れるとともに、全身の力が抜けていくようだった。




