第二話
「っつ、なんだよもう……うえ……気持ち悪い……」
ひどい耳鳴り、そして霞む視界。
頭もぐるぐると回りどうにも気持ちが悪いったらない。
何かが起きた、それだけはわかった。
教室から出ようとしたところまでは、なんとなくぼんやりと覚えている。
塾に行く章弘と挨拶を交わして、今日発売の本を思い出して買いに行こうとした、はずだ。
なのに、そのすぐ後のことがまったく思い出せない。
何かが起きた、直後のこと。
戸口は開いたっけ? 何か声が聞こえたような気もした。
これが何かの拍子で転んだ結果なのだとしても、性質が悪いと言わざるを得ない。
ぐらぐらとする頭と思考の中、手を伸ばして何かに触れたところで、霞んでいた視界は一気に開けた。
「(な、なんじゃこりゃああああああああああ!?)」
叫びそうになって慌てて自分の口を手で塞ぎ、代わりに心の中で叫んだ。
あぶねえ!
まさに間一髪。
或いはこの場所に誰もいなければ、叫んでも問題なかったのかもしれない。
でもそうじゃない。そうじゃなかった。人がいる。それも何人も。しかも剣呑な雰囲気で。
ここは見上げるほどに高い天井があり、
長大な柱が何本も並び立ち、
真っ赤な絨毯が敷き詰められた広間で。
そして、先ほどから自分が触れている、玉座と呼ぶに相応しい巨大で絢爛な椅子。
少なくとも日本の建築構造物からは大きくかけ離れていることだけは間違いなく、同時に圧倒されたことも間違いなかった。
「(もう意味がわかんない! どうしたらこうなるのさ!?)」
一瞬、異世界召喚という言葉が脳裏を過ぎる。
マジか?
でも章弘が言っていた幻想的な召喚要請なんてどこにもなかったぞ!?
「――――黙れ!」
ひいいい、すいません!!
凛とした女性の言葉にびくりとしながら、巨大な椅子の背に隠れて、俺はそっと何人もの人たちを覗き込んだ。
「すげえ……ファンタジーな鎧着てるよ……」
こんな緊急事態でありながら、感想のひとつやふたつ漏れるあたり、自分はファンタジーに訓練されているんだなと自覚する。異世界の自伝さまさまである。
ようやく少しだけ冷静になれて、なんとなく状況が見えてきた。
視界の人達はどうやら対峙しているらしいということ。それも1対8だ。
1人の方は漆黒の鎧を身に着けて、剣を構えるブロンドの女の子。
そして彼女を取り囲むように、白銀の鎧を身に着けた禿頭男の一派、といった感じだろうか。
「このような非道な行い、いつまでも許されると思うな!」
漆黒の少女が叫び、吠える。
怒りの形相は綺麗なはずの彼女の顔を歪めていた。
「非道? 我らの行いが非道と申しますか? 何を馬鹿な。我らの行いは魔道に堕ちたお前たちを掃討する正義の裁きですよ。魔王を戴冠した貴様が我が国を侵略する前に、その芽を摘んでおくにすぎませぬ」
少女に引き換え、禿頭の男は冷静に見えた。というよりは冷たい印象だ。
「ふざけるなっ! 何が戴冠だ! 何が魔道に堕ちただっ! そんなものは貴様らが勝手に押し付けた迫害の御印以外のなにものでもないではないか! いったいどれだけ私たちが苦しめられてきたと……!」
「貴女がどう考えようと、我々には関係ありません。我々には旗印があるのです。かつて魔王の一味を薙ぎ払った勇者より賜った旗印が」
そう言って禿頭の男は腰から剣を引き抜いた、のだが。
「(柄、だけ……? 剣身がないぞ)」
だがそれは突如、炎を生み出し、何もなかったはずの剣身を形作る。
「これが我らの旗印。お前たちを縛る、聖剣だ」
「それこそ魔道に堕ちた魔剣だろう! そんなものがあるからこの世界は……!」
「うるさいぞ、下賤の者」
「くうっ……!」
男が僅かに剣先を持ち上げた途端、剣身を形作った炎が少女の元へと伸びた。
そして、少女の持つ剣ごと胸元の鎧が断ち切られた。
がしゃん、と断たれた鎧が落ち、白い布で覆われた少女の胸元が露わになる。
漆黒の鎧に包まれた全身から覗く肌の色は、禿頭の男をも唸らせた。
「……ふむ。ならば提案いたしましょう。魔王よ、その身を差し出しなさい」
「なに、を……?」
「魔王たる貴女の身柄を、殺さずとも我々が拘束すれば、反乱を起こす気も失うでしょう」
「そもそも反乱などッ」
「はて、無駄な言葉を交わしている暇がそうありますかな? こうしている間にも、近隣の集落では正義の裁きが続いているのです。あなたが、魔王を、戴冠したことによって!」
「お前たちが……お前たちさえ来なければ……!」
少女の顔は怒りの表情から、悲しみの表情に移り変わっていた。
それはまるで、心が折れてしまった、そう言うかのように。
その様子を見て俺は言い知れない焦りを覚える。
「(まさか自分の身を差し出せば、とか思ってるんじゃないだろうな……)」
そんな展開は正直読み飽きていた。それは異世界の自伝でも、完全創作のファンタジーでも。共通して言えることはそのどちらも、覚悟した人間の前に差し伸べられる救いの手あってこそ、であると。
だって、そうでなければ……。
「(助けがなかったら、この展開に未来なんてあるわけがない……)」
「覚悟は決まりましたか? 決まったのなら装備をすべて外して、こちらに来なさい。すべてですよ、すべて。なにひとつ、身に着けることは許されない」
禿頭男の周囲からは下卑た笑いがこぼれた。
きっとあの女の子は、男の言うことに従うのだろう。
自分が犠牲になれば、他の人たちは救われるのだと、なんの根拠もない言葉を信じて。
ガチャリと、金属の擦れあう音が、響いた。
だから俺は、少し目を瞑りゆっくりと深呼吸をする。
異世界に召喚されて活躍だなんて、とてもじゃないけど考えられないし考えたくもない。
誰かの活躍劇を、英雄譚を読んで浸かれていれば、俺はそれだけで満足なのだから。
だから。だからこそ。
これからの行動は自分のためのものではない。
これまで読んできた、勇者や英雄と呼ばれた人達の足跡を、ずっと本を通して辿ってきただけの自分が、彼らに恥じないために行う行動なのだと。
だからもう一度、もう一度だけ俺は深く、ゆっくりと息を吐いた。
「――よし!」
そして俺は隠していた身をゆっくりと起こす。
白銀の集団からも、漆黒の少女からも見える位置に、ゆっくりと立ち上がった。
「ちょ、ちょっと冷静になって話し合いません?」
自らの言葉のセンスは呪わざるを得ない。
異世界です。が、いきなりピンチです。