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あるものの生き様  作者: 柊秋人
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6.灰色の季節

 自分は人間であったときのことをよく覚えていない。

 むしろ、人であることすら忘れていたくらいだ。



 桜が意識を持っている時点で気付くべきだったのかもしれない。

 ただ、かつて自分は人間で、そのあと桜へと生まれ変わったのだ。



 どうして自分は桜となったのだろう。



 答えなど期待していない問いに、薄れゆく意識はその片鱗を見せた。

 なんだ、これは。自分は何をしている。



 そうだ、物語を綴っていた。消え去る前の最後の抵抗。生きた証。

 それを示すための語りで、けれど、自分が語る物語は決定的に欠けている。

 自分という、最後の物語が。



 意識は混濁しているのに、まるで枷が外れたかのように思いだされる。

 死に際に浮かぶ記憶。走馬灯とも呼ぶべきものだ。

 死の間際に自分のことを思い出すというのだから、これは皮肉が利いている。

 ともあれ、自分の最後の語りは、予期せずして巡ることとなった。



                 *



 自分は、人間だった。

 


 きっと男だ。自分のことだというのに、どこか他人事のように感じられる。

 つまびらかにその人生を語ることはできないけれど、おそらく平々凡々で可もなく不可もなくなものだったはずだ。記憶に残らないのだから、そういうことだろう。

 


 ただ、唯一はっきりと覚えているのが、自分が生きることに特別な執着を持たなかったことだ。



「おい、お前さんなにをしている」



 唐突に、はっきりとしたビジョンが浮かび上がった。

 焦ったような表情を浮かべる男。下には勢いよく流れる水。よくみれば雨が降っている。薄汚れた綿織物でできた服地が、水を吸って重い。まあいいか。汚れも落ちるし、すぐにまた汚れるから。



「こんなところにいたら危ねえ。さっさと下りろ」



 その言葉で、初めて自分が橋の欄干に立っていることに気がついた。



「用水路を伝ってきたら、ここにたどり着いた。ならここが終着地よ」

「わけわかんねえ。いいから戻れ」



 必死さを伴う表情で。けれど風の音がそれすらもかき消すように、自分には届かない。



「お達者で」



 自分の足が離れた。水面までたいした距離もないのに、風に乗って流されながら落ちていく。その先には、もっと力強い流れが待ち受けている。きっとこの激流に身を任せたくて、自分は身投げをしたのだ。

 頭上には男が手を差し伸ばしている。届きはしないし、摑む気もない。無心に見つめて、泥水の世界へと没入した。



                 *



 そうか。思い出した。



 自分は自殺したのだ。

 生きることに何も見出せず、死を享受することを選んだ。非積極的な生。

 そんな自分が生きている。人間ではなく、別の命として。


 

 一体なぜ。



 鐘の音の力。自分に備わっていた人の行く末を左右する奇跡。

 もう衰えて、自分の命と比例するように、弱まってしまったけれど。

 結局あれを使うことはほとんどとなかった。



 いや、正確には使う機会がさほど訪れなかったのだ。

 人間はあきれるほどに自己解決する。困難に立ち会っても、いつのまにか克服し、自らの幸福を追求しようとする。

 だから自分に出番は回ってこなかった。



 そうだ。だからこそ、自分は「観察」という行為を始めた。見た景色を語ることに決めた。

 この力は誰かを救うために与えられたものだと思っていた。しかしそうではないとしたら。本当はこれらの光景を見せるために、自分はここにいるのか。



 ……あきれてしまう。そんなのは強引な理屈だ。希望的観測。

 それでも。自分が見てきた景色、語ってきた物語。それらはいつも美しく、希望にあふれるものだった。



 自分はすでに死んだ。それでも、もし死なずにいれば、ああした物語のひとつを奏でることができたのだろうか。不意に考えてしまう。

 考えても、無駄なことだけど。



 ただひとつ確かなことは、自分が見てきた人間たちは、どいつもこいつもいい顔をしていたということだ。まるで生きていて良かったと思っているかのような。

 そんな景色を前にすると、自分も少しだけ、生きることに前向きになれる気がした。

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