3.秋色空
自分には人と関わりを持つ機会があまりない。
ただ、じっと眺めて、それでおしまいだった。
傍観するという立ち位置を守り続けているのは、誰かに言われてしているわけではない。また干渉する術を持たないわけでもない。ただの気まぐれだ。格好をつけて言えば、それが自分の生き様だった。そんな自分がこうして語りを始めることもまた、ほんの気まぐれにすぎない。
そして、そんな自分を訪れる人間も、きっとそういった些細な気まぐれからやってきたのだろう。
「輪郭があるって、どういうことだと思う?」
そいつは頭にニット帽を深く被っていた。季節や薄手の格好から、防寒の一種でないことは明らかだった。
「それは何かと違って別々ってことだよね。逆に言えば、輪郭があって初めてなにかでない自分だってわかるんだ。だからそれは道標なんだ。ここからはお前じゃないって示す行き止まりなんだ」
今まで多くの人間を眺めてきたが、その一人一人すべてを把握できているわけではなかった。自分にとって人は所詮「人」という最小単位の認識でしかなく、あとは男とか女とか、そういった大雑把な違いを覚えることが、この「観察」という行為の正体だった。
それでもいつからか、自分はそれ以上の「接近」を試みるようになった。
その習慣を始めて以来、一人一人に割り振られる記銘の情報量は格段に増えたように思う。
もちろん、覚えようと努めても叶わないことは多々あった。しかしそいつのことをこうして鮮明に思い出せるのは、やはりそいつが眺めてきた人間たちの中でも一風変わったやつだったからだろう。
そいつはそれから毎日やってきて、ただ脈絡のない話をしては帰るという繰り返しだった。今思い返してみてもその内容に一貫性はなく、なんの意味もないように思えた。しかしそいつは意味もない話をするためだけに何度も自分を訪れ、いつも同じように満足げに帰っていくのだった。
ただ、少し違っていたのは、日をまたぐ度にそいつの体がやせ細っていくということだけだった。
そんなある日、そいつの様子はいつもと少し違っていた。
「前に輪郭のことについて話したよね」
初めて話題が繋がって、ひたすら聞き役だった自分にとってはかなり新鮮に感じられた。
「私にはそれがわからない。絵の具の違う色を混ぜたみたいに、最初は違いがわかってたのに、いつの間にかその境界線が消えている。それどころかそもそも色が変わって、もう元の色が思い出せなくなるんだ」
いつもの他愛のない話ではなかった。少なくともそこには、普段の話にはない「なにか」が込められていた。
「その『異物』みたいな感覚は、抜け落ちた髪とか、はがれたかさぶたを見るときと似ていると思う。くっついてたときは『自分』だったのに、離れた瞬間に輪郭が引かれて、もう『自分』ではない『異物』になっちゃうんだ。でも、もっと極端な例だとね……」
そいつは口許を不安定に歪めて続ける。笑っている、ようにも見えた。
「足を、切り落としたとして、それはもう『自分』ではない『残骸』なんだろうけど、もしかしたら、それは、『自分』を切り捨てた『本体』なのかなって……」
そいつはニット帽を沈めながら、体の震えを鎮めるように、自身の心を静めていた。
「私にはそれがわからない。外側から脅かされる輪郭も、内側の中身が自分なのかどうかも」
自分には、そいつの話など分からない。どういった境遇に置かれているのか知る由もない。
だが、助けてやることはできる。そのための術と力を、自分は持ち合わせている。
そいつの未見の過程をすっ飛ばして、幸せという結果を強引に導き出すことができる。
その反則技を、使うべきか否か迷っていた。正しく言えば、そいつのためなら使ってもいいと思った。
「………だからさ、」
その言葉を聞くまでは。
「私は、空になりたいんだ」
その日以来、そいつが訪れることはなかった。
どうして空になりたいのか、その理由をそいつは語っていたけれど、自分にとっては取り留めもないただの無駄話に過ぎない。
肝要なのは、そいつがここに来る必要がなくなったということだ。
それには確証もなければ根拠もない。しかし、最後に見せたそいつの表情には、その確信を持たせるだけの「なにか」があった。
そして、自分は人間という生き物が、本当に嫌いだ。
やつらは助ける術も力もないくせに、助けられるほど弱くもないからだ。
さぁ、これが二つ目の物語だ。この物語がどこまで続くはわからない。
しかし意識があるうちは、自分の知る物語を語り続けたい。
意識が朦朧としている。
視界がどんどん曇っていく。
世界が真っ白だ。
そうだ。冬にまったく雪が降らないはずのこの町で、雪が降った時の不思議な物語を語ろう。




