俳句の良さを殺しちゃってませんか、俳句甲子園
NHKで俳句甲子園のドキュメンタリーをやっていた。俳句に情熱を燃やす高校生たちのキラキラした瞳や、自分の句に対する思いを熱弁する姿は素直にカッコいいと思った。また、ちょっとオタ臭い男女がテーブルを囲み、やいのやいのしている様子は実に羨ましかった。僕自身高校時代はオタ臭い男子だったが、あんな青春はあっただろうか。
甲子園球場ではクラスカースト上位達の青春模様(野球部×野球部マネージャー)が透けて見えるようだが、俳句甲子園で見られる青春模様は、また一味違うのだ。
僕は多少小説の執筆経験があるが、俳句に関しては全くの素人である。そんな門外漢が、NHKの俳句甲子園を見てこう感じたというのを、このエッセイで書こうと思う。
平たく言うと、あまりスマートではないと思った。
絵にしろ詩にしろ小説にしろ、創作というのは読み手がどう受け取るかが全てではないかと思う。
要するに、一つの作品をどう解釈するかは読み手の自由であり、解釈の仕方を作者が強制してしまうのは、作者のエゴでしかないんじゃなかろうかと。
むしろ、小説と違って俳句は5、7、5という限られた枠で世界を表現することに意味がある。17字の制限の中ではどうしても表現しきれない部分がある。そこを読み手一人一人が、一人一人違った感受性で受け取ることこそ、俳句の楽しみ方ではないのだろうか。それこそ、読み手の数だけ答えがあるじゃないけれど。
そこに作者が登場して「この句はこういう意味で、ああいうことで」と説明してしまうのは、ナンセンスではなかろうか。と僕は思った。
こう解釈して欲しいという明確な思いが作者にあるならば、違った解釈のしようがないくらい具体的な描写をすべきだが、それは小説の仕事である。
俳句の腕を高校生達が競い合うことには大きな意味があると思う。だが、他にやり方は無かったのだろうか。
とにかく「俳句」と「ディベート」この二つの相性は、プリンに味噌汁だと思う。味噌汁をぶっかけられたプリンが台無しになってしまうのと同じように、赴きや風流といった俳句の良さを、ディベートの論理的な部分が殺してしまっていた。少なくとも僕はそう感じた。
……愛光高校の地味子ちゃんにハァハァしながら、そんなことを考えていた僕の青春は、一体誰がどこに隠してしまったのだろうか。僕の心情を誰か17字で詠んでくれませんか。




