掌編――トンネル
新車の慣らし運転も兼ねて海が見える高台のホテルに行ったときの話だ。
ナビによると、見晴らしのいい一本道を上がってトンネルを抜ければすぐらしい。
時々車を止めながら、背後に広がる海を楽しんでいた彼女は、トンネルが見えた途端、もう帰らない? と言い出した。
今日のために海の見えるホテルを予約したのに、キャンセルするなんてもったいない。それに、車は急に止まれない。
トンネルは壁も天井もできたばかりのように白く、赤い照明も明るかった。トンネルというと何かいるとか何か起こるとか怪談によく登場するけどそんな雰囲気は微塵もない。道幅も広いし快適だ。
ちらりと横を見ると、彼女は手を組んで目を閉じ、何か唱えていた。そんなに彼女が怪談嫌いだとは知らなかった。今度ホラーハウスに連れて行ってみよう。そんなことを考えながら、アクセルを踏み込んだ。
「ほら、何も怖いことないだろ?」
笑いながらそう言った瞬間だった。つけていないはずのカーステレオから不意に何かが聞こえた気がしたのだ。
「え? 何か言った?」
彼女は首を振りながら、声を出さずに口を動かし続けている。さすがに気味が悪くなって声をかけるのをやめた。スピードを上げてトンネルを抜けた瞬間、胸が苦しくなった。まるで誰かにつかまれたかのように締め付けられる。目の前が真っ白になって、ブレーキを踏んだところまでは覚えている。
次に目覚めたのは病院のベッドの上で、見舞いに来ていた彼女はすまなそうに言った。
「あのトンネル、有名なのよね。事故死したドライバーを調べてみたら、全員心臓がなくなってて」
その瞬間、あの時聞こえた声がくっきりと脳裏によみがえった。
『私の心臓を返して……』と。