第7話:起動a
同日 オウルハーバー 地下 詳細位置不明
薄暗く手狭なコクピットの中には、補助動力装置が奏でる低い作動音だけが響いていた。
正面には、保護フィルタが貼られたままの縦長の曲面モニタが据えられ、その左右には安物のサブモニタ、さらに手元には物理キーボードが半ば無理矢理に接続されていた。
キーボードはかなり使い込まれていた様子で、表面はタバコのヤニと手垢で黄ばみ、キートップの文字は掠れ油性マジックで文字が書き直されていた。
控えめに言っても年季の入ったそれは、誰かの私物だったのかもしれない
シートに座った少年も、さほど軍事知識があるわけではなかったものの、それが酷くちぐはぐであることはおぼろげに感じ取れた。
胃の中に納まった、昼に食べたハンバーガーとフライドポテトのずっしりとした感覚が、彼に今の状況が昨日や今日と地続きの現実であることを、否応なく実感させてくる。
ややノイズ混じりの通信が入った。
《サクラ、こっちも目当ての物が見つかった。俺たちが着替えてる間に、そっちの主動力装置を立ち上げておいてくれ》
声に含まれた若さが、その主が少年と同年代であることを示していた。
《わかったよ、ロイ。アニカを頼むよ》
そう短く答え、少年――サクラは民間機と同じ要領でシートの位置を微調整した。
コントロールスティックを握った腕が伸びきっていないか、同様にフットペダルに掛けた足が伸びきっていないかを確認する。
そして機体を起動させるべく、キーボードに手を伸ばしたところで、彼は正面モニタに自分の上半身が映り込んでいるのに気づいた。
軽く癖のついたキャラメル色の髪と黒い瞳。
やや中性的で細身な10代半ばの身体が、僅かにサイズの大きい繋ぎ服に包まれている。
まさかこんなことに、と思いながら、サクラはキーボードの荒々しい手書きの文字をどうにか読み解きながら、動力をAPUからMPUに切り替える。
コクピット内に伝わる音と振動の形が、徐々に甲高いものへと変わっていく。
左側のサブモニタにMPUが正常に稼働したことを表すと、サクラはAPUを停止させ、機体の出力をMPUに委ねた。
今度は右側のサブモニタにブート画面が表示され、そこに示された日付を見たサクラは、僅かに目を細めた。
(そうか、あれからちょうど一年経ったんだったっけ)
彼、サクラ・グローブスは一年より前の記憶がすっぱりと抜け落ちていた。
これも何かの因縁なのだろうか。根拠は無いがそう思ってしまうのは、あの時の出来事があったからだ。
彼の脳裏に、その光景がよみがえった――
◇ ◇ ◇
その日、目覚めた直後、彼の眼に最初に映ったのは白い天井――知らない天井だった。
天井に取り付けられたシーリングファンが音も無くゆったりと回るその下で、彼の意識は徐々に目覚めていった。
薄手のカーテンを通した日差しと共に、僅かに潮の香混じった風が窓から運ばれて来た。
海が近いのだろう、かすかに波の音が聞こえてくる。
全身がぼんやりとした温かさに包まれており、同時に鉛の服でも着込んだかのように重たく、起き上がることはおろか、腕を動かすことすらできなかった。
辛うじて動く両目で、周囲を見回した。
清潔感を覚える白を基調とした内装の部屋は、一人用というにはやや広すぎるようにも思えた。
今、彼が寝ているベッドのほかに家具らしいものと言えば、小柄の収納家具が一つ、部屋の隅に置かれている程度だった。
右手には窓があり、青い空と緑に包まれた山が映り、遠くの方には窓の縁に隠れるように、赤いレンガ造りの建物が僅かに見えていた。
窓の外を数羽の鳥が羽を広げ、穏やかに飛んでいた。
白い腹部と上下面で色の違う翼、眼を通って首に達する太い黒褐色の線が走ることから、ミサゴであることとが分かった。
しかし、自分自身のことについては何一つ思い出せず、まるで自分が今、この瞬間に誕生したかのようだ。
「気が付きましたか?よかった」
視界の外で人の声がしたのはその直後だった。おそらくは女性の、幼さが僅かに残った柔らかい声だ。
そして、直前までこの部屋に人の気配が無かったことに気が付いたが、不思議にも不安は抱かなかった。
「貴方は・・・?」
と呟いたつもりだったが、実際には唇も舌も上手く回らず、くぐもったうめき声が僅かに漏れただけだった。
そちらを向こうとするも、その首は僅かに震えるだけでほとんど動いてはくれなかった。
一瞬だけ、視界の隅に白地に黒のラインが入ったパーカーが映ったが、それ以外のことは分からなかった。
「だめです、無理をしないで。しばらくは安静にしていてください」
声の主は優しく諭すように言うと、やや遅れてバラの香りが漂ってきた。
「どうにかここまで連れてこられましたが、まだ後始末が残っています。すぐに戻らないといけません」
「甘いのは分かっています。けれど私には・・・・・・貴方を手に掛けるなんて、やっぱりできません」
声の主の言葉は断片的で、要領を得ない。
それに、彼に語り掛けているというよりは、自らの行いを懺悔しているかのようだった。
「身 分 洗 浄はこちらでやっておきます。そういうの、私得意なんですよ」
声の主はやや自嘲気味に、クスリと笑った。
そして僅かに衣擦れの音がしたのは、声の主が椅子から立ち上がったのだろう。
せめて声の主の顔だけでも見ておきたい、と思い、彼はドアの方に視線を移した。
「それでは、今の私にできるのはここまでです。またお会いしたいですが、私と貴方は合わない方がいいですから。少し寂しいですけど」
しかし声の主はそちらには向かわず、彼の耳元で――寄せられた吐息でそう察した――哀しげに囁いた。
「では、どうかお元気で」
そして再び声が離れた後、
「離脱」
束ねられた鈴が鳴るような音が周囲に広がり、白く淡い光が室内を包んだ。
光が収まると、それきり室内は静寂に包まれ、人の気配と同時に、バラの香りも消え去っていた。
(僕・・・・・・は・・・・・・)
分からないことが多すぎた。
自分は、声の主は、一体何者なのか。
彼は考えることを一時手放し、その意識もまた、まどろみの中へと沈み込んでいった。
このままだと無期更新延期になりそうなので、暫定更新です。