新:背筋を伸ばせ
きっかけは、何だっただろう。関東の言葉をしきりに教えてほしいと囲まれていたことか。それとも、かっこいいあの男の子とあの男の子、どっちが好きなのと呼び出されたことか。
いつの間にか少女はそのかっこいい男に「あいつ気持ち悪いよな、ヘビみたい」と面と向かって言われるようになり、道を歩けば転ばそうと足を出される存在になっていた。
首謀者はころころ変わった。昨日の敵が今日の仲間になったりその逆だったりした。
家庭訪問では「金魚が餌をつつくようなものですよ、お嬢さんは転校生ですし、勉強も運動もできますからね」と担任が母親に告げた。納得できるような腑に落ちないような。しかし教師は似たような光景を何度も見てきたのだろう。
そして今ひとみは、ジリジリと照りつける夏休みの8月の太陽の下で途方に暮れていた。
絶望の中縋るようにこの人ならと話した相手が、実は自分をいじめている首謀者の親友だったのだ。何てこと。最後の希望が途絶えた。
ひとみは一人、塾から帰って机から小さな機械を取り出し手元に目を落とす。たまごっちは売り切れていたから、彼女は違う育成ゲームで、恐竜の世話をしていた。
ピーッピーッと音がする。世話をしてやると喜ぶが、ちょっと怠ると糞を溜めて死んでしまう。暇つぶしには良いのだが、勝手な生き物である。いや、生き物か?
世話をしているがペットという感覚はなかった。同時に彼女はポケモンもやっている。ピカチュウカイリュー、と彼女はその歌詞を暗記することに集中した。今手元にあるのはその流行りの歌詞のコピー。昔彼女がクラス全員に配ってやったものだ。
去年は電車の中で百人一首を覚えていた。なんと口に出して。勿論小さな声でだが。
人一倍負けず嫌いな少女は、十一歳の記憶力を遺憾なく発揮し、百人一首大会で三位になった。
毎年百人一首大会をやっている学校に転入して三位だから、まずまずと言えよう。
あの頃は良かったと、十二歳の少女は思いもしない。ただ、現状は四面楚歌で、目の前は真夏の昼間だというのに真っ暗だった。
毎朝、教室のドアをガラリと開けておはようと大きな声で挨拶するのが彼女の習慣だった。
そう、人気者だった頃からの。
だから彼女は今日もつとめて明るく顔を作って言う。
「おはよう!」
「うるせえ黙れ」
即座に吐き捨てるように、教室の後ろから少女の声が飛ぶ。
彼女は黙って席についた。途端に奴はシャーペンを落とした。拾ってやると
「さわんじゃねえよ」
やれやれ。やることなすことこの調子だ。
クラスどころか学年全員敵である。
その日張り出された修学旅行の写真には、彼女の顔に爪で×が深く刻み込まれていた。誰がやったか知らないが、暗い気持ちが重く増えていく。
体育の時間に女子が何人かに分けられることになった。誰かが一人になることになる。じゃんけんで、とのことだったが、ヒソヒソと談合が行われ、その中には新しいマンションに一緒に引っ越してきて仲良くしてきた女生徒もいた。お前もそっちの仲間か。気弱そうに裏切られた結果として、彼女は一人ぼっちになった。もう慣れたつもりでも、心の痛みは麻痺しない。
それから暫く経ったある日、転機は訪れた。彼女はいじめの主犯格の側近に呼び出されたのだ。
そして相手は絞り出すように、申し訳なさそうな顔と声で
「……ごめんね、逆らえなくて」
光明は差した。良心のない人間などいないのだ。この子は本当は優しい子だ。そう、転入したその日に親しく話してくれたのはこの子だった。今この子が逆らえないのは見ている自分がよく分かっている。ただ、勇気を出して言ってくれたことが何よりも嬉しかった。
後で担任に聞いた話によると、金髪にピアスでクラスから浮いていた同級生も、担任に「あれは良くないと思う」と進言していたらしい。
見ている人はいる。見かけによらずいい奴は、いる。あいつと仲良くしていて良かった。とまで利己的には思わないが。
どうやら担任は犯人を呼び出したらしい。こうした行動は裏目に出ることが多いと聞くが、ベテランの女教師は、ヘマはしなかったようだ。
だが、母から聞いたところによると、隣人の女生徒も自分の親に「こんなことがあってね」と話していたという。隣人の母親は自分の娘が正義感に溢れていると信じ自慢気だったのだろうが、それを聞いたひとみはじゃんけんを忘れていなかった。お前もグルだっただろ、と二枚舌を軽蔑した。
その内、受験が終わると嘘のようにいじめはなくなり、主犯格だった女生徒は親しげに笑顔で彼女に接した。卒業時に渡された手紙には、最初に彼女をいじめた別の主犯格から行動を細かに謝罪され小さく「ごめんね」と書かれていた。彼女はそれを大切に保管してしみじみと時々読み返した。
そして今日は成人式。
素敵な指輪だね、と彼女はかつての首謀者に言う。
満足げに相手が自慢話を始める。
そう、いじめなどなかったかのようにあの日教室で楽しく恋バナをする相手に調子を合わせたのと同じように。
夜、彼女はマンションの隣に住んでいた同級生と、顔立ちの良いやはり同級生と飲んでいた。
意外にも、今日は彼奴が不愉快だった、邪魔だったと話が盛り上がっている。
さっきはそんな気配毛ほども示していなかったのに。
ああ、人のいないところでそんなに悪口を言うもんじゃないわよ。
嫌な女ども。今度はあいつなのね。性格が悪いのはあなたたちよ。と心であいつを哀れむ。
彼女はついでのようにさり気なく自分がいじめられていた話をしたが、二人は
「そんなことあった?」
という顔をして、さっぱり覚えがないという期待外れの反応をした。
そういうものなのである。彼女は呆れて二の句が継げず、改めて二人を嫌悪した。いや、諦めた。
そんなことがありながら、女は隣人との友人関係を続けている。親友と言われて信用のできない女だとせせら笑いながら。
そう、今除け者にされているのはあの、自分をいじめていた女だ。
今奴に優しく接しているのは自分だけ。
そのことが、彼女の秘かな誇りであった。