8.契約の刻〈上〉
今回は短め。
王女としての権利と義務の中で生かされて来た。
何時も我慢していた。我慢していれば、奪われることはなかったから。
王宮の庭園が好きだった。湖に揺れる月に心惹かれた。匂い薫る花の風に鳥達が飛ぶ空が私の心を癒やした。海が好きだった。暖かな海に包まれて差し込む太陽の輝きに溶けたかった。白波を立て走る漁船、群をなす色鮮やかな魚。強い生命の力に羨望した。本が好きだった。古知識の集大成、知識の宇宙に身を浸し過ごす図書塔の空気。静かで柔らかな時間の流れが私の日々を満たしてくれた。紅茶が好きだった。想像するだけでも、私の口が湿ってしまう渋みと甘み。芳香と共に喉を流れる深紅は私の心に温かな満足感を与えてくれた。
ミランダ、アリエル、アラン。大切な人達。私の幸せ。一緒にいるだけで、幸せだった。アリエルのお菓子。紅茶がいっそう美味しくなった。本を読んだ感想を物知りなアランと話し合った。何時も、それが楽しみで本を読んだ。ミランダと一緒に海を泳いだ。泳ぐ彼女は、他の何よりも美しかった。お気に入りの庭園で、4人一緒に花鳥風月を愛でた。何物にも代え難い幸せがそこにあった。
あんなに優しい人々に、これから先も出逢えるだろうか?
きっと無理。生まれ変わっても、何度人生をやり直しても、きっと出逢えない。あんなに、あんなにも優しい人々に、もう出逢える訳ない。
だから、奪わないで下さい。私からあの人達を奪わないで下さい。全部我慢します。どんなに辛いことも、どんな屈辱も、どんな痛みも、全部我慢します。だから、だから奪わないで‥‥
☆
祭殿の扉にかけられた封印が解かれた。
石の螺旋階段を、ゾロゾロと大人数の男達が下り始める。
祭壇の最下層が、魔道式ランプの光で照らされた。
ウンブリエルがコーデリアを見て何事か罵っていたが、彼女はブツブツと譫言を呟くだけだ。
全く反応しないコーデリアに呆れたウンブリエルが、彼女の頬を叩いた。 祭殿内に、乾いた音が鳴り響いたが、相変わらずコーデリアは無反応であった。
正気を失った様子のコーデリアを見て、ウンブリエルは心底興醒めした様子で、部下の一人に斧で鎖を断ち切るよう指示した。
両腕を鎖で縛られたままだが、柱に張り付けていたそれから解放されたコーデリアは、ゴトリと床に倒れ臥した。
「‥‥ぁぐ‥‥ぁ‥‥ぅ‥‥」
落下の衝撃で呻き声を上げるコーデリアを無視して、ウンブリエルの部下達は鎖の端を持ち、彼女を地べたに引きずりながら、祭壇へ向かった。 石段で彼女を持ち上げるのも面倒とばかりに、ウンブリエルは鎖を握り、その怪力をもってして、彼女を祭壇の石畳に叩きつけるかように投げ捨てた。
「まさか3日でぶっ壊れるとな‥‥メンタル弱過ぎだろ、糞が」
仰向けになり、焦点を結ばない視線を空に漂わせながら、何事か延々とつぶやき続けるコーデリア。彼女に、悪態を付いた彼は、そのまま儀式の準備に取り掛かった。
☆
『目を閉ざし、耳を塞ぎ、現実に背を向けて、縮こまって震えていれば、何とかなるのか? ただ、我慢さえしていれば、大切な何かを守れるとでも思うのか?』
白い部屋に一人の男と、一人の女がいた。
男の方が、コーデリアに対してした問い掛けに、彼女はすぐさま応えることは出来なかった。
『‥‥五月蝿い。お願いだから、黙ってよ。私はもう厭なの。無理よ。これ以上はどうしようもないの。ただ我慢すること以外に何が出来ると言うの?』
『そうだな。今の君は死んだも同然だ。だが、まだ生きている。お前には、生きるか死ぬかを選択する権利が残されている』
コーデリアは唐突に怒りに駆られた。
『だったら、もう死ぬしかないじゃない‥‥!!』と、彼女は叫んだ。
『そうやって諦めた時点で、君は死体と同じだ。漫然と生体活動を続けることを生きているとは言わない。可能性を開き続ける存在だけが、この世に生きる権利を持つんだ。今の君は限りなく死体に近い』
『か、可能性‥‥? ふっ、ふふっ、‥‥わ、笑わせないでよ‥‥!! 可能性ですって‥‥!? 私に、私にどんな可能性が残されていると思うの?‥‥知ったような口を利くなよ、下郎‥‥ッ!!』
『‥‥君が生きることを醜く諦めても、君の生存を諦めない人達がいる。その限りにおいて、可能性は潰えない。まだ、君はギリギリ死体じゃない‥‥』
『‥‥私が生きる可能性‥‥?』
男は、否、青年と言うべきか、彼は後ろを振り返って、背後にいた女性と言葉を交わす。女の姿は彼に隠れて見えなかった。
此方に視線を戻した青年は口を開いた。
『‥‥アランと言う男を知っているか?』
『‥‥!!』
『知っているようだな。彼がそばにいる。機を伺っているようだ』
『嘘‥‥』
『嘘ではない。まだ、動くなよ。タイミングを逃す訳にはいかない』
不思議なことに、先程まで空気のように消えていたハズの体の感覚が、元に戻り始めるのをコーデリアは感じた。
ピクリと身を震わせたコーデリアに気がついた者はいない。
確かに体を動かすことは出来る。祭殿の天井にあるステンドグラスも見ることが出来た。しかし、何故か白い部屋と男女の姿までも同時に認識することが可能だった。まるで、2つの世界の両方に彼女が存在するかのようであった。
『あなた達はいったい誰なの‥‥?』と、コーデリアはもう一方の世界で尋ねた。
『俺は五条司。異教の神とやらが、魂の依り代にするために、異世界から呼び寄せたらしい』
『えっ』と、コーデリア。
『あー‥‥まぁ、そうなるよな』と、彼は苦笑いした。
彼が表情を作るのをコーデリアは初めて見た。顔立ちは平民にしては整っていた。背はスラリと高く、姿勢が良いためか、実際以上に力強い印象を受ける。もしかしたら武人かも知れない。
『君は躯の依り代にされる。異世界人の魂と王族の身体を犠牲にして、神は完成する。必要のなくなった俺の体は、元の世界で、俺の存在ごと無かったことにされる。君の魂は現世で永久にさ迷うことになる‥‥彼女のように』
司は身を退かした。
女の顔を見て、コーデリアは驚愕に目を見開いた。
『私‥‥?』
司が頷いた。
『彼女の名もまた、コーデリアと言うらしい。君の先祖であり、海神ソルの依り代だった』
残念だが、彼女は君と話すことは出来ないらしいと司は続ける。
『と言っても、水魔法の使い手は間違いなく彼女の子孫らしいから、君は寧ろ先祖返りと言った方が良い‥‥ん? そろそろ頃合みたいだな。コーデリア、意識をあちらに集中して。大丈夫、タイミングはこちらが指示するから』
そこで、司は一呼吸置いて、コーデリアの目を真剣に見据えた。
『コーデリア、落ち着いて聴いてくれよ。君はガルザームから破魔の剣を奪い、それを自分の心臓に突き立てなければならない‥‥それが君が生き残るための唯一の手段だ‥‥俺を信じろ、コーデリア』