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7.とある男の決意

 ここ2日間ほど、五条司ごじょう つかさは奇妙な夢を見る。


 初日は、大学の合気道部の新歓コンパのあった夜だ。


 まともな話もほとんどせずに、焼き肉を食って酒を飲むだけの色気のない呑み会。

 先輩がよってたかって酒を飲ませてくれた。奢りだから、遠慮するなと言われればかえって断り難いし、なにより絡んできた先輩が部内でも特に美人な女性部員とあれば、その酒を断ることも出来ず‥‥

 店を出た直後、彼女の目の前で吐くと言う人生最大の屈辱を晒してしまった訳だ。


 その後、義理堅い彼女が責任を持って、今年の犠牲者となった新入生を家まで送り届けることとなった。彼女に背中を押されながら、無事に家まで帰れたのだが、道中の記憶がかなり欠落しており、何とか粗相をせずに済んでいたことを願うしかない。

 後ほど聞いた話だが、彼女は相当な酒豪で、一回生(一浪したので二十歳だった)にしては飲める奴がいたので、つい嬉しくなってヤっちゃったらしい。逆に、何十種類もの酒を飲まされて歩けて帰れた司に驚いていたとも‥‥吐いたことに関しては何も言っていなかったと聞いて彼は安心した。

 家に帰ってから司は、二十歳にもなっても満足に自己管理も出来ない自分を嫌悪しながら、眠りについたのだ。





 ふと、気がつけば、五条司は夢の世界にいた。


『夢にしてはやたらと五感が働くな』


 だが、そこが夢の世界であると、司はかつてないほどハッキリ認識していた。

 なぜならば、‘体感’している筈の世界に、五条司の肉体は存在せず、また、動くことも出来なかったからだ。

 ただ空気のようにその世界に存在していた。


 そして、司は、暗闇の中に1人の少女がいることに気がつく。


 顔を伏せた少女の表情は見えないが、すすり泣く声と震える肩を見れば、言わずもがな哀しんでいるのがわかる。

 しかも、少女の儚げな雰囲気も相まって司は彼女に酷く同情した。


『ヤバいな。色んな意味でヤバい。 てか、何でこの子全裸なんだよ‥‥? これが、俺の深層意識の現れなのか? だとしたら、正直かなり落ち込むぞ』


 むむむ、と司が自分の内面的な真実と向かい合うべく唸っていると、少女がゆっくりと顔を上げた。

 淡い蝋燭の光が彼女の顔を照らし出した。

 闇の中で、彼女の細く柔らかそうな銀髪が不思議な輝きを放つのを司は信じられない思いで見つめた。怖気が走るほど美しい。


 また、暗くてよく見えなかったが、頭上で腕を拘束され、その小さな体は鎖か何かで柱に縛りつけられていたことも知った。


 何よりも、首に着けられた黄金の装具が異様だった。


 まさに、捕らわれのお姫様と言うところか。



『どうみても、ファンタジーだよな‥‥?』


 彼女の顔立ちは恐ろしいまでに整っていた。現実離れも甚だしい美しさだ。東洋人でも西洋人でもない。司が見てきた顔のどれにも一致しないのだ。

 例えば、CG加工された人間の顔と言うべきか。美しく仕上げると言う明確な意図を持って、見事に完成させてみせたような顔だった。

 しかし、美少女には変わりないが、キツくなく、寧ろ柔和で大人しめな、可愛いらしい感じは和風で親しみが持てる。


『こんな状況ではな‥‥』


 夢であってもジロジロ見て良いものではないだろう。そう思い、視線を逸らそうとしたのだが‥‥


 たすけて


 震える少女がそう呟いたような気がした。そこに含まれていた感情は、諦念か? 絶望? 微かに空気を揺らす程度のあまりにも小さな声だった。


 これは夢の世界であって、この少女は現実にはいない。それをハッキリ認識していたからこそ、ある程度は割り切って見ていられた。


 だが、無視できないほどの焦燥感が心中をジリジリと焼き始めたのを、司は感じていた。


「これは、悪夢だな」


 司は独り言を呟いた。そう、間違い無く独り言の筈だった‥‥


 バッと少女が彼のいる方に顔を向けた。 全くの不意打ちで、彼は驚きのあまり、アッと声を上げてしまった。


「‥‥だ、誰か‥‥其処にいるの‥‥!?」と、少女は暗闇に向かって問い掛けた。


 司は何と応えるべきか、と迷っていた。夢の中の少女であるが、彼女の必死な様子に心が痛むのを感じた。‥‥まずは、安心させるべきだろうか。いや、そもそも肉体が無いのだから、返事したらかえって不安にさせるだけだろう。


 彼女の顔が一瞬で絶望に染まり、力尽きたかのように頭を垂らすと、先程より一層激しいすすり泣きを始めた。


『罪悪感がハンパない‥‥ 落ち着けよ。俺。これは夢だ。夢なんだ。夢なら、さっさと終われよ‥‥』


 すすり泣いていた少女は、急に幼い子供のように声を上げて泣き出した。鎖から逃れようと必死に暴れ始める。時折、悲痛な叫び声で何者かの名を呼び、助けを求めるが、誰も応えない。


 随分長い間、狂ったかのように少女は叫んでいた。しかし、彼女は今度こそ精魂尽き果てたようだ。


「‥‥ひっ‥‥ぐずっ‥‥神様‥‥ぅぐっ‥‥助けて‥‥神様ぁ‥‥ひくっ‥‥お願い、します‥‥助けて、‥‥」


 遂に、泣き疲れた彼女は、嗚咽混じりに神に祈りだした。


『‥‥悪夢だ』


 いつ終わるとも知れぬ悪夢を、五条司は沈鬱な思いで眺め続けた。





 幸いにも、二日酔いは大して酷く無かったため、翌日、土曜日の朝の稽古には参加する事が出来た。 司は中学の時から合気道を始めていたため、一回生にして黒帯である。そして、何故か、司が胴着もまだ持っていない新入部員相手の指導役をする羽目になっていた。先輩達が言うには、一回生が担当した方が、気楽でいいとのことだ。同じく一回生での経験者は居たのだが、自然と彼にその役目が押し付けられていた。


 部内でのキャラ付けが自分の意図しない方向に傾き始めていたことに、司は戦々恐々とするのであった。


 だが、一回生の指導役と言っても稽古中の直接的な指導は黒帯の先輩が行うので、司の役目はあくまでそのサポート、稽古が始まる前や終わってからの指導だ。当然、稽古中のような緊張感はなく、一回生同士ワイワイしながらやるのは純粋に楽しかった。そもそも、試合の無い合気道部は、他の体育会系に比べれば、緩いサークルだったのだ。


「五条君‥‥大丈夫‥‥? 昨日はゴメン‥‥!?」と、件の先輩に手を合わせて謝られてしまった。

 司としては、自己管理の出来なかった自分の不手際であると思っていたので、逆に、世話をかけさせてしまったことを謝罪するとともに、きちんと送り届けてくれたことに感謝を述べたのだが、結局、お詫びとして昼食を奢られてしまった。勿論、司は恐縮する一方だったのだが、彼女に押し切られた形だ。


『ちゃんと自己主張できるようにならないといけないな‥‥人の話を聞くのは得意なんだけど』


 司は、独り反省した。入部して2ケ月、彼は人が良すぎる、というキャラをしっかり確立していた。


 昼食後も暫くは彼女と他愛もない話(司の母校での失敗談とか馬鹿話が中心だった)をしていたが、彼女が掛け持ちしている茶道部の用事で席を外した後、司は夜まで大学の図書館で本を漁って過ごした。

 彼は本が好きだった。その日は、薄い社会人向けのビジネス本を、読書用の大学ノートを片手に何10冊も読んだ。自分でもソフィスト的だと思うが、こういう知識こそ自分が求めるものだった。書店でも出費は惜しまず買い込んでいる。



『国立だけあって、設備が整ってる。居心地が最高に良い。余裕で1日過ごせるぞ‥‥単位を取る必要さえ無ければ、図書館で生活してやりたい』


 親不孝者にはなりたくないので、必要な単位は絶対に取るが、大学には、合気道と図書館の為に来ているようなものだ。


 昨夜の影響か、頭痛はなくとも、体はダルい。だから、何時もより早い時刻に切り上げることにした。

 疲労感はあるものの充実した1日。この時点で、彼は昨夜の悪夢のことなど、記憶の彼方に追いやっていた‥‥






『‥‥またか』


 司は、2日目となる悪夢を見ていた。


 大理石の広間と柱、そして鎖に縛られた一人の美少女。詳細は記憶していないが、この夢が昨日見たものと同じであるに違いなかった。


 轟々と、どこか遠くから風の音が聞こえていた。


 少女は静かだ。ぴくりとも動かないで、ヒドく憔悴したようであった。


『‥‥おかしい』


 ここに来て、司はこの夢の異常性を明確に意識した。


 肉体がないのに、感覚が現実的過ぎるというだけではない。この夢が明らかに昨日の夢の続きであったからだ。まるで、夢の世界の時間も現実と同じように流れているかのような‥‥


 これは夢でありながら、現実であるのだと、司の直感は告げた。或いは、この世界こそが現実であり、肉体のない彼こそが夢、幻のようなものだと、彼の理性が皮肉気に呟いた。


 司は困惑した。


 彼はぐるりと周囲を見渡した。蝋燭が灯されているのは、少女のいる一角のみで、月明かりすら入り込まない部屋の全貌を明らかにする事はかなわない。


 いや、すぐ近くにあった祭壇の上に何か‥‥


 司はその正体を知ってギョッとした。


『人が居る‥‥!?』


 一人の女が祭壇に腰掛けていた。


 気がつくと司は引き寄せられるかのように、女に近づいていた。


 暗闇の中でも、女の病的に白い顔は見て取れる。そこにあったのは、あの少女をそのまま成長させたかのような美貌。幼げな印象は失われ、妙齢の女性が醸し出す艶やかさがある。しかし、表情と言うものがまったく欠落していた。いや、顔に微笑をたたえていたことには違いない。ただ、それがそうあることが当然で、感情や意図と言うものが入り込む余地のない、完全で不可侵なものであったのだ。


 スレンダーな体躯と女性らしい柔らかさを兼ね揃えた女は、ゆったりとした白いワンピースを着ていた。


 唐突に、女は柳のようにたおやかな細い腕を持ち上げた。


 スッと言う衣擦れの音と共に、肩に掛かっていた彼女の髪が絹糸のようにパラパラと流れ落ちた。

 動きに合わせて、水のように清らかでスッキリとした爽やかな芳香がさらりと漂うのを司は感じた。


 彼は訳も分からないまま、伸ばされた彼女の手を掴もうとしていた。


 存在しないはずの彼の指先が、女の儚げな手にツッと添わされたように錯覚した瞬間。


 司の意識を失った。






『俺は欠落している』



『父親を殺したかった。父親を殺して、自分の体を半分に切り裂いて死にたかった』



『母親を愛した。母親を愛して、父親を殺して、母と同じ存在になりたかった』



『姉を×××した。姉を×××して、母親を愛して、父親を殺して、俺は大人になりたかった』



『まだ幼い頃はいつか父に母と姉が殺されてしまうと思っていた』



『だが気がつけば、肉体的にも精神的にも、俺が父親を凌駕していた。もう、父の存在が俺にとっての驚異ではなくなっていた』



『きっかけは何だったか。だが、唐突に気がついた‥‥父が憐れな人間であったことに。父は子供だった。子供のまま大人になり、子供のまま父親になってしまっていたのだ。それは悲劇だった』



『きっと彼は子供の時から、自分の存在を他者に承認される経験がなかったのだろう。だから何時も自信がなく、それを隠すため、攻撃的だった』



『たくさんの人と関わる中で、やがて俺の視野が拓けていった』



『そして、驚愕した。俺が父から受け継いだ性質を必死に隠し、それを無視するように振る舞ってきたこと、それはつまり、自分自身の半分を成長させないことだったと知ったから』



『父親が人間として未熟であるように、俺の父から受け継いだ部分は‥‥否、部分もクソもない、俺の人間性もまた未熟なままであったのだ‥‥表面には成熟した精神をもつかのように振る舞っていた分、ある意味、父より根深い部分で』



『俺は父と正反対の存在になろうとして、まさしく同じ存在になろうとしていた』



『変わろうと思った。自分の全てを受け入れようと思った。もちろん父親のことも』



『あの人が俺の父親であると言うことと、俺が俺として生きることに何の関連もない。あの人は確かに俺にとって憎む値する存在だった。だが、俺の中にある、あの人から受け継いだ性質まで憎むべきではなかった』



『俺は欠落した人間だ。歪な存在だ。だからこそ、俺は成長しなければいけない』



『そしていつか良い父親になろう。そして子供の中に生きるあの人の存在を愛し、育てよう』



『それが父親を愛することの出来なかった俺への、せめてもの贖罪になる』





 司は、ベッドの上で目を覚ました。


 動悸がひどく、何故だか、目元が熱い。触れた指先が涙で濡れた。


 身を起こして、胸を押さえた。


 彼はまだ解放されてはいない。彼は自分を愛することにした。しかし、まだ許されてはならない、まだ救われてはならないのだ。それは、一種の脅迫観念であり、彼にとっての最後の心の拠り所だった。


 はぁ、と深く息を吐いて、彼は立ち上がった。


 彼の小さな部屋はキレイに片付けられてはいたが、妙に殺風景だった。所謂、自分らしさに欠ける部屋であった。そういう所にお金を使う趣味も余裕もなかったとしても、この部屋に住んでもう3年近く経っていたのに関わらずだ。


 今の生活を始めたのは高校2年生の頃。ちょうど両親が離婚した後のことだ。


 それは、司の中で成長への飢餓感が最も高まっていた時期でもあった。


『自立しなければならない』


 そう思って当時通っていた道場に住み着くようになった。


 元々は、弟子が住み込みで稽古するための離れ屋に下宿して、高校も大学もそこから通うことにした。


『本気で勉強できる環境がほしい』


 離婚直後の解放感か? 異様にウキウキして、妙に若返って見えた母にそう言うのは辛かった。

 母は3人で暮らすことをとても楽しみにしていた。夢のようだとも言っていたのだ。その母を司は裏切った。

 困惑してオロオロする母に、司は泣きながら頼み込んだ。当時大学生だった姉は司を本気で殴った。ボコボコにされたが、結局、姉は彼が家を出て行けるよう母を説得してくれた。


『あの父親を愛してしまうほど、母は優し過ぎる』


 もし、司がダメになってしまっても、母は司を受け入れてしまう。それでは、意味がないのだ。

 ワガママだと思う。親不孝者だとも思う。それでも、仕送りを貰わないと言うのが、最低限のケジメだった。


 まったく持っての無計画さで始まった下宿生活は、道場の師匠一家の支えが無ければ成り立つことは有り得なかった。もっと考えるべきだったと、当時の自分の甘さを今でも苦々しく思う。

 本当にあの人達には、頭が上がらない。一生の恩人であり、第二の家族だった。


 司はカーテンを開けた。朝焼けの光が部屋に差し込む。


 彼はウンッと伸びをすると、道着に着替えて道場へ向かった。





 4時間ほどの朝稽古が終わり、司は師匠一家、長谷川家の面々(父と2人の娘。母は既に他界)と食卓を囲んでいた。今日の当番は司だ。白米に味噌汁、白菜のお浸し、鯖、だし巻き卵と数種類の漬け物。和風な朝食だ。


 

「今日はこのまま、実家に帰るのか?」と、長谷川勝正はせがわ かつまさが司に声をかけた。

 50歳に近い筈だが、鍛え上げられた体は年齢を感じさせない迫力がある。威風堂々とした恰幅ある男性だが、物腰は柔らかで紳士的だ。 そして、司の師匠であり、彼が最も尊敬する人物であった。


 はい、と司が答えると勝正はうんと頷いて、優しげに微笑んだ。


「確か今週の水曜日が、君の母上の誕生日だったろう? 少し早いが、誕生日の贈り物を用意したんだ。洋菓子は詳しくないんだが、このマカロンは美味しいらしい。どうだろう‥‥?」


「母も喜ぶと思います。いつも親切にして頂いてありがとうございます」


「いや、何。大切な息子さんを預からせて頂いているんだ。親御さんも並々ならない思いだろうしね。これくらいは寧ろ当然だよ」


 司は咄嗟に気の利いた返事を思いつかなかった。


「‥‥ありがとうございます」


 代わりに、偽りのない真っ直ぐな感情を一言に込めて言った。


 勝正は目を細め、うんと頷いた。





「あのマカロン、私がこの前食べたいわ〜って、ネット見ながら言ってた奴なんやけど‥‥ホント、とー様はちゃっかりしてるわ」


 朝食後の皿洗いをする司の横で、そう言っておどけて見せたのは長谷川夏樹なつき、今年で22歳になる長谷川家の次女だ。女子大生で合気道部の主将である彼女は、明るく社交的だ。一応、司の姉は彼女より2個上の学年で同じ大学の合気道部の先輩だった。

 2人とも、今時珍しい黒髪長髪の美人で姉妹のようによく似ていたが、司の姉、りつは自制心に優れたお姉さん肌、夏樹は行動力のある姉御肌であったらしい。


「それだけ、夏樹さんが信頼されているってことですよ」


「相変わらず司は口が達者だねぇ‥‥」


「そんなことないですよ‥‥まぁ、実際、俺も夏樹さんのこと信頼してますし」


 えーっ、と疑わしげな声を上げた夏樹がせっせと洗い終わった食器を片付け始めた。


「ところで夏樹さん‥‥最近妙な夢を見るんですが」


 ん?と顔を傾ける夏樹に司は、この2日間に見た夢のことを話した。


「それはまた‥‥何と言うか、変んな夢やね‥‥ね、お父さん?」と、困った夏樹は勝正に話を振った。


 うん、と頷いてから、勝正は司を見据えて口を開けた。


「ところで、司君はその少女を助けようとはしなかったのかね?」


 司は言葉に詰まった。


「俺に体は無かったので‥‥それに、夢の話ですから」


 言い訳がましいな、と司は思った。


「けれど、何とかしてやりたいとは思ったのだろう?」と、勝正。


 はい、と司は素直に頷く。


 勝正は穏やかな表情のまま、司のことを見つめていた。


「司君はね。僕が見てきた中でも一番賢い若者だよ‥‥勿論、僕なんかよりね。 ‥‥あぁ、そんなに謙遜しなさんな。‥‥うん。けれど、君は少し理性に捕らわれ過ぎているようだ。合理性は君らしさを奪ってしまうような気がしてね。もう少し、直感や情動に身を任せても良いと思うんだよ」


「はい‥‥」と、司は応えた。


「勿論、君に限っての話だけどね」と、勝正は夏樹をチラリと見て笑う。夏樹は不満そうに唇を尖らせた‥‥


 司に視線を戻した勝正は続けて言う。


「君の思いは察するよ。でも、君はもっとあるがままの自分に自信を持っても良い」


 自己主張、自分らしさ、衝動や直感、感情的行動。理性によって隠される司の本質的な部分。


 司自身も、今の自分に不足しているものとして反省している点だ。それらをさらけ出した途端に、化けの皮が剥がれ落ちてしまうかも知れないと言う恐怖があった。

 けれど、人間性を培う上で、それらの要素がとても大切になると、司の理性は客観的に判断していた。

 結局、未熟さ故に避けていたに過ぎない。


「君が思う以上に、僕達は君の人間性を好いている。信頼している。君を弟子に持てたことを、僕は誇りに思う」と、勝正が真摯な口調で続ける。


 司は言葉に困った。自分のような若造が何と応えるべきか、司は知らない。ただ、ありがとうございます、とだけしか言えなかった。

 司が父と同じ存在にならずに居られたのは、こうして彼の存在を肯定してくれる他者がいたからだ。母と姉、そして、長谷川家の人々が居たから、今の司が在るのだ。

 この恩に、一生を賭けて報いなければならないと、司は思っていたが、何時も彼の方が助けられてばかりだ。


「いや、すまない。何だか妙に説教臭くなってしまったな‥‥気に病まないでくれ。つまり、君はもう十分立派だと言いたくてね」


「‥‥それも、師匠のおかげです。夏樹さんも‥‥この家があったから、俺は生きて来れたんです」


「それは長谷川の誇りでもある‥‥‥‥しかし、そうまで言ってくれるとは嬉しいね。どうだろう? 夏樹を貰ってうちに婿入りしないか?」


 ちょっ、と夏樹があたふたして「何、言ってるの父さん!!」と叫んだ。司は、ピシリと硬直していた。


「おっ、そりゃ名案名案。跡継ぎ問題も解決やし、別に好きな人おらんやろ、あんた。てか、ぶっちゃけ、司のこと好きやろ?」と、夏樹の姉が台所の暖簾をくぐって言ってのけた。


絢音姉あやねえがサッサと結婚せーやっ‥‥!!」と、夏樹が吠える。


 姉妹2人で喧嘩し始めるのを、司は気まずい思いをしながら眺めた。

 勝正は笑い声を上げながら退散し、結局、仲裁を買って出たのは司だった。





「さっきは、ごめんね」


 長谷川家の玄関先で、司は夏樹から見送りを受けていた。


「いえ‥‥」


 何というか、気まずい空気が漂う。


「‥‥がっ、学生結婚とか今時あり得へんよなっ!?‥‥不況やし‥‥」


 夏樹の言葉は尻すぼみになる。


「‥‥あの、夏樹さん?」


 えっ、いやっ、そのぉ、と夏樹は一人で慌てふためく。

 ひとしきり、ワタワタした夏樹は、急に「がぁー!もぉー‥‥!!」と叫び声を上げ、ガシリと苛立たしげに司の両肩を掴んだ。


 身長差が大きく、自然と夏樹は司を見上げる形になる。

 そのまま、彼の肩は引っ張り落とされ、不意を打たれた司は姿勢を崩す。夏樹がくいっと背伸びをした。目を閉じた彼女の顔が自分の視界を覆い隠すのを、司が認識した瞬間。


 むせかえるような、生命力溢れる緑と風の香り、颯爽としていながら情熱的な夏の匂いが司の鼻孔をついた。

 そして、唇に触れた柔らかな感触と口内に広がった女性独特の甘い息の‥‥


 ぷはっと、息を吐いた夏樹がシュタッと彼から距離を取った。


「私好きやから‥‥!! 中学生の時から好きやったから‥‥!! でもなんか、君は男子校やったから安心してたら、大学生なって急に女の子と仲ようしだして、昨日も美人さんに連れてくるし! あの人絶対肉食系や! あからさまに私のこと値踏みして、睨んで、めっちゃ怖かってんからな!」


 早口で、そうまくし立てると、彼女は脱兎の如き勢いで、家の奥に逃げ込んでしまった。



「いや、返事聞かへんのかい‥‥20過ぎてんのに、まるで中学生やな‥‥チューだけにっ‥‥!?」


 絢音がどこからともなく現れた。驚く余裕さえない司に、彼女は思いつきのギャグを言うが、当然反応はない。


「‥‥んー? で、感想は?」


「‥‥10点。本当は50点あげたいですが、どや顔で減点です」


「どや顔で40点減点っ‥‥!? どんだけ嫌われてんねんや、うちのどや顔!!‥‥ちゃう、告白の感想や‥‥!?」


 絢音のおかげで再起した司は、その質問に対する答えを思案しようとして‥‥止めた。


「好きですよ」


 衝動かも知れない。いや、逆に何がその純粋で疑いようもない気持ちを抑えてきたのか、今の司には分からない。司の自己犠牲的な独善は、夏樹によって吹き飛ばされたのだ。


 妙に開き直った心地で、司は大きく深呼吸した。


 と、そのとき母家の奥でガタガタと音が鳴り、後はしん‥‥と静かになった。まるで、小動物が警戒して様子見しているかのようなイメージを司は感じた。


「ありゃ〜、夏樹は案外意気地なしやからなぁ。勢いなかったら、奥手やで? ちゃんとリードしたりや」


 で、どうする? と、目で問いかけて来た絢音に司は軽く肩をすくめた。


「明日、ちゃんと話します。今は混乱するだけでしょうし」


「ぉー!青春って良いねぇ‥‥頑張りや、家族一同応援してるからね? 」


 司は絢音に頭を下げると、長谷川家を後にした。




 自宅に帰ると、姉がいた。絢音と同じく教職を目指す彼女は、今は非常勤講師として私立高校に務めている。今日は朝までだったらしい。


 母がパート先から帰って来る前に、2人で夕食の支度をした。


 長谷川家での出来事を語ると、姉は「やっとか‥‥あんたは運がいいよ。あの子が一途で助かったな」と呆れ顔で言った。


 帰宅した母も交えて、3人で夕飯を食べた。


 父と離婚してから、五条家の家庭状況はいっそう悲惨になった。昔ほどではないが、今も、質素で豊かとは言い難い生活だ。


 授業料免除と奨学金がなければ、迷わず司は就職していただろう。実際、一浪中も塾に通うことはなかったのだ。


『金を稼いで、家族に不自由のない生活をさせる。必ず家族を幸せにする』


 それが、司の夢だった。

 

 彼は、その為にあらゆる努力を惜しむつもりはない。その夢を諦めるのは、死ぬ時だけだ、と司は覚悟していた。





 夕食後、久しぶりの家族団欒を終えた司は、自室のベッドにうつ伏せに寝そべった。


『明日は帰ってから夏樹さんに会うか‥‥いや、あの人、逃げたりしそうだからなぁ‥‥家に帰らない可能性もある。朝から会おう‥‥』


 彼は体を転がし、天井を向いた。


『3日目も、あの夢を見るだろうか‥‥?』


 脳裏に打ちひしがれた一人の少女が浮かんだ。


 司は拳を天井に向け、照明に翳した。


『何とかしてみよう。夢とか関係ない。心のままに、何とかしてみよう』


 司は静かに決意した。




 この後の想像を絶する苦難の数々を司はまだ知らない。

 だが、その運命を知っていたとしても、彼の決意が変わることは決してなかったであろう。

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