EX.夏の日〈中〉
草木の合間に見える陰には深い緑の光が溢れている。
ゴツゴツとした岩の表面には我が家を得たりと苔が生い茂り、どこもかしこも瑞々しい水っ気に満ちていた。
この自然の生気に満ち満ちた森の中で、一心不乱に剣を振る少年がいた。司である。ちょっと年上の女性からは独り善がりな慈愛と密かな好奇の視線とともに子犬と称される容姿、それと相反するように両手に握られている片刃の木剣。
「でえい!」
振り下ろしと同時に響く気合いの声。まだ声変わり前であるが腹から力強く発せられていた。
清爽とした森の中で少女のような少年がひたすら剣を振る光景を私、長谷川夏樹は眺めていた。
「妙に絵になるのが何かムカつく」
私ではあんな風にはならない。こちとら先輩なのだ。一時期はサボりまくったとはいえ、武術の家に生まれて物心つく頃から剣やら棒やら振ってきたのである。それなのに合気道を始めて2、3ヵ月(その他武術は未経験らしい)の少年に劣等感を抱くとは‥‥
「才能って理不尽」
勉強などではこうもハッキリしないだろう。あれは努力(というより犠牲にする時間)に依るところが大きい(比較的にね。人外じみた例外は除く)。だが武術となれば才能の差ってやつは歴然としてくる。生まれもっての性格、体格、性別。残念ながらそれらによる差異は武術とは切っても切り離せない。とはいえ違いの数だけ戦い方があるのだ。個々人の差異が即ち優劣に繋がるわけではない。それは理解している。それでもこの不平等を多少なリとも嫉ましく思うことは致し方ないことだと思う。
『って‥‥あー、もう。ちゃうちゃう!! ちゃうやろ!? 私が休憩している間にも司君は努力してんねんや。全部生まれもっての才能のせいにして、司君の努力を否定するとか根性悪過ぎや!!』
糞がっと自分自身に舌打ちして、私は腰掛けていた石から立ち上がると自分の木剣に手を伸ばした。
初の乱取りから数週間が経った今、私が司君に持つ感情は大きく変化した。
それを一言で言うならば敵意だ。
司君は私が知る限りどんな人よりも努力家である。常に成長しようと必死なように見える。そんな人に嫌悪感を抱くのは‥‥何というか、そう。エレガントではない。『エレガントとかお前みたいな粗暴な女が何言ってんの(笑)』とか人におもわれそうだけど(ソイツはシメ殺す)、我が長谷川家の教えに『真の力とは荒々しいものではなく、優雅な美しさである』とか何とかがあるので、文句があるならご先祖に言ってほしい。だから私は司君に敵意を抱くことにした。つまりライバル認定だ。
尊敬に値する者を敵とせよ(その他は敵ではなく獲物らしいです)。とご先祖様も仰っていることだし、実際そうやって司君に敵意を抱いてから私の心根に染み込み始めていた何ともいえないドロドロした感情が随分マシになって、実に気分が晴れ渡ったのだ。
ご先祖様マジ偉大。
☆
私たち、つまり長谷川家とその門下生は夏休みを利用して長野まで合宿に来ていた。毎年恒例の行事であるが、今年は司君が初参加、私が2年ぶりの参加だ。
8月上旬の初日からお盆休みまでの期間に参加出来たのは学生身分の者たちに限られている。
私と司君は中学生なので勿論全日程を消化するつもりだ。
四方八方見渡す限りの空を山脈が切り取った風景。いずれの山々に白い雲が掛かり、殆どの山が雲より高いときている。山、雲、山のミルフィーユ(?)。そして圧巻なのは空の近さ。とにかく近い。昼の青さと夜の星は何時見ても凄まじい迫力だ。青々とした水田が山の裾から裾まで一面に広がっていて、日本人の魂の原風景とでもいうのか? 不思議と安らかな気持ちになる。
おまけに盆地であり高地でもあるこの場所は夏真っ只中というのにとても涼しい。さすが避暑地である。夜寝る時に油断していると簡単に風邪を引いてしまうほどだ。
暖かな日差しと涼やかな風。夜はクーラー要らずで暖かな布団に潜り込める。そして蚊がいない(ここ重要)。奴らに献血する義務から逃れられるのは夏の間ならこの場所だけ。
下宿所は森の緑に埋没するかのようにひっそり存在する。小さな神社に隣接する道場だ。ここの道場主であり神主である人物の名を『潟無賢治』という。うちの父の恩師に当たるとか。合気道なのに古武術なのかとかそこら辺のややこしい話は割愛させてもらう。太古からの世界と繋がりがあるとだけ言っておこう。
まぁ、そんなことは割とどうでも良くて、問題はこの道場兼民宿場が合宿所として最高ということだ。ご飯は美味しくて量が多く(食事制限とかしたら死にます)、お風呂は広くて清潔、寝床は綺麗に整った趣味の良い和室である。素晴らしい。
全く素晴らしいこと尽くめだ。
「電波が届かないこと以外はね」
使いものにならないアイフォンを握りしめながら私はボヤいた。
☆
「‥‥お使い?」
「そうそう、今日は休息日だから稽古は無しっ‥‥てことで今晩は宴会です」
「‥‥ぅわ」
門下生が盛大に羽目を外してしまう予感に私は頭痛がした。
「私達未成年組みはジュースとお菓子。成人組みは酒とお摘み。てなわけで街へ繰り出すぜぇ‥‥ふひひ、午前中から午後四時まで自由時間だってさ、ふひひひ」
「きもい」
「遊ぶで♪遊ぶで♪」と謎の踊りを無駄に洗練された(合気道的な意味で)動きでキレやかに舞う絢音がウザいことこの上ないが、街に出るのは純粋に嬉しい。
田舎での修行暮らしに満足しているといっても、4日も経てば少し飽きる。街に出るのはきっと良い気分転換になるだろう。
「未成年ってことは司君も一緒?」
「当たり前やん?」
うむ、そうだろうな。
絢音は訝しげな顔でこちらを見た。
「夏樹って司君のこと、好きなん?」
「いや、それはない」
何言ってんのこの馬鹿は?って素で思った。
「じゃ、嫌いなん?」
「嫌いやったけど、今はそうでもない」
頭の中に疑問符を一杯浮かべて混乱する絢音は我が姉ながら残念な奴である。
「司君は敵やで、ライバルって感じ」
「‥‥チュウニ病乙!!」
「‥‥?」
チュウニ病って何だ? てか病ってことは悪口だな! と決めてかかって絢音に蹴りを入れた。
絢音は犬のようにキャンキャン吠えながら避けようとするが、私の右足は許しはしない。鋭く突き出したつま先がドスドスと絢音の太ももに突き刺さった。
ギャオとか悲鳴を上げて「何ライバルって? 年下相手に独り相撲やってんのぉ!? 馬鹿なのぉ!?」とか絢音がほざくから思わず手刀でドスドスとわき腹を攻め立てた。
ギャーとか五月蝿く吠える絢音はこの期に及んで反撃するという暴挙に出た。手刀が私の喉を掠める。絢音のくせに実に生意気でいけない。私のサンドバックになることくらいしか取り柄はないだろうに‥‥これは許し難い。
仲良く熾烈なキャットファイトを繰り広げる長谷川姉妹を見て道場の門下生たちは恐れおののいたとか何とか。
☆
車で30分近くかけて街に着いてからも私と絢音は険悪なままであった。
「司くーん、夏樹なんて放って置いてお姉さんと一緒に遊ぼうぜぇ」とか馬鹿が言ってきたので追い払った。
「いいんですか?」と司君は心配していたけど、問題ない。誰が何を揃えるか事前に決めておいて良かった。
「‥‥女性一人を知らない土地で歩かせるの良くないのでは?」
何か的外れなこと言ってるなー
「仮にも黒帯やで? それに絢音は毎年ここに来ているし、大丈夫やって。まずこんな田舎でそんな危ないこと起きひんやろ?」
熊とか出たら絢音でもヤバいかも知れへんなーというと司君は曖昧に笑ってみせた。
ところがこの後私は思い知らされることになる。私の楽観的な偏見が間違っていたことを。
☆
「ヒッタクリー!!」
買い物帰りに司君と街を歩いている時、背後から唐突に悲鳴が聞こえた。
初めその叫び声を聞いても音声と意味を即座に結びつけることが出来なかった。
ヒッタクリ?ヒッタクリって何だ。
振り向く。
路上。
座り込む女性。
同じく振り返る通行人。
猛然と加速する二人乗りのバイク。
引ったくり!?
体が勝手に動いた。
車道向かって走り出す。
バイクは十分加速している。正面は無理だ。二人ともフルフェイスのヘルメットを被り、身を屈めている。ならば側面。
考えが纏まった時には私の体は宙に浮いていた。
時間の流れがスローモーションとなる中で明確な未来のイメージが脳裏に閃いた。
「オラァ!!」
完璧なタイミングで突き出された私の跳び蹴りが運転手の男の腹部にえぐり込まれる。
一応言っておくが合気道に蹴り技はない(片足立とか不安定な姿勢をした時点で負け、跳んだ時点でアウト)。
目論見通り運転手は両手放しになり、体が浮く。バランスを崩した男は横転したバイクに引きずられるようにして身を車道に投げ出した。
「‥‥え?」
車道?
何で?
私はスポーツ全般が得意だ。体を動かした結果が直感的に分かるのだ。バスケではシュートフォームをした段階で入るか入らないか分かるし、ソフトボールではピッチャーの投球フォームを見た段階で打てるか打てないか分かる(調子が良いとバッターボックスに入った段階で分かる)。不思議な感覚だけど、日頃から私はそれを頼りにしていた。
今日もそうなるはずだった。
蹴り落とした男たちは歩道に落ちるはずだったのに、目の前にはバイクに引きずられるままに車道に投げ出された男たちの光景があった。
こんな結果は予想が出来なかった。
生まれて初めて私は私自身に裏切られた。
そして豆知識
長野の交通量は意外と多い。
甲高いブレーキ音。
一台の乗用車が男たちに迫る。
後ろに座っていた一人は這々の体で逃げ出していたが、運転していた男はうずくまったまま動かない。
鉄の塊が十分な殺傷力を秘めたまま男に迫り来る光景を私はただ眺めていた。
恐怖で身が竦んだ。
その時
小さな、とても小さな黒い影が疾風の如く現れ、倒れた男のジャケットスーツを掴み取って引っ張り上げた。
司君。脳裏に浮かぶ未来のイメージ。駄目だ。そのタイミングじゃ、二人とも間に合わない!!
けれど司君は引き上げた男をそのままの勢いで反対側に引き倒した。自分の体を支点にして‥‥つまり、衝突コースに自分の体を残したのだ。
一瞬の出来事だった。
すり抜けるようにして男の体が放り投げられた瞬間、残酷なくらい重々しい衝突が響き、司君の体が宙を舞った。
「‥‥ぁ‥‥え?」
何で?
道路に打ち据えられて動かない司君を、私は呆然と見ていた。