2.とあるメイドの憂鬱partA
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春先の柔らかな風が眠るコーデリアの頬を撫でた。ベッドの上で目覚めた彼女はカーテン越しにうっすらと差し込む朝日に目を細めながら、こてりと陽光に背を向け寝返りを打つ。寝床の心地良さに彼女の心身はすっかり籠絡されていた。
寝台を覆う天蓋の隙間から部屋の扉が見えた。薄い絹の向こう側にひっそり控える一人のメイドが、此方に背を向けないまま器用に扉を開けるのをコーデリアはぼんやりした眼差しで眺めていた。
2人目のメイドが部屋に入る。カラカラと言うワゴン車を押す音。そして漂う美味しそうな紅茶の香り。ごくり。と、コーデリアが思わず喉を鳴らしたところで、ワゴン車はぴたりと止まった。いよいよポットから紅茶が注がれた時には、コーデリアの目はスッカリ覚めていた。
「おはよう御座います。姫様」
天蓋の外から2人のメイドが声を揃えて挨拶をする。朝の挨拶はメイドから先に声をかけるのがコーデリアの部屋での決まり事だ。
「おはよう。ミランダ。アリエル」
既に身を起こしていたコーデリアも2人に挨拶を返す。
失礼します、と小さく声をかけてから絹の天蓋に手をかけスッと開けた女性はミランダ。魔力で飲みやすい温度に調節された紅茶を差し出したのがアリエルだ。
コーデリアは2人に礼を言い、受け取った紅茶のカップを口元に近づける。色濃く赤い紫紅黒色の紅茶から立ち上る新鮮な芳香。鼻の奥を柔らかくついた香りが、寝起きの乾燥した口内をしっとり湿らせる。彼女はまだ幼くぷっくりとした唇にカップの縁をつけ、舌の上に紅茶を流し込んだ。たちまち広がる適度なバランスの甘味と渋味。
自然とコーデリアの顔には笑みを浮かぶ。彼女は読書と同じくらい紅茶が好きだった。白く滑らかな頬に色艶が宿る。
カップを左手に持ったソーサーの上に置いて、ゆるゆると息を吐き出したところで、今度はアリエルが差し出した小皿からクッキーを摘み取る。空腹時の紅茶は良くない。ミルクが苦手なコーデリアは砂糖も入れずにストレートで飲むのが朝の習慣だった。寝起きの糖分補給と紅茶による胃の負担を抑えるためにクッキーを食べる。
「すごく美味しいわ。アリエル、ありがとう」
口に広がった柑橘系フルーツの風味とハッキリとした甘味は、コクがあって味わい深い紅茶にもピッタリだ。今までに食べたことのない、新鮮な味。そのことに余程驚いたか。アリエルの小さな主人は暖かみを感じさせる海色の瞳を大きくして此方を見上げてくる。その素直で可愛らしい仕草に彼女は堪らず笑みを零した。
「今朝作った新作のクッキーです。お気に召して下さったようで大変嬉しいですわ」
そう応えていっそう笑みを深くしたメイド、アリエルはコーデリアより4歳年上であり、170cmを余裕で超える長身にスラッとした四肢を持つ美少女だ。簡素であるが品のあるエプロンドレスの袖口から白くしなやかな腕が伸びており、彼女の美しい指はこの王宮の中でも1番器用であるとコーデリアは確信していた。草木が芽吹くような深みがありながらも明るい黄緑の髪。それよりもやや濃い、静かで落ち着きのある緑色の瞳。若い娘の瑞々しさの中に、齢以上に落ち着いた女性としての優しさと知性を印象付けさせる端正でありながらどこか柔らかな顔立ち。
その美しさは、彼女の持つ魔力の強大さを物語る。アリエルの魔力適性は風と水であり、特にこの2種類の混成魔法の扱いに長けていた。
コーデリアとアリエルの微笑み合う仲睦まじい様子に、もう一人のメイド、ミランダが一瞬ムッと眉を寄せる(勿論、コーデリアに見せるような粗相はしないが)
ミランダはアリエルと同い年であったが、彼女とは対照的に小柄な娘だ。と言っても、アリエルが長身なだけでミランダの身長は160㎝程度ある。彼女の持つ活溌な雰囲気が見る者に子供のような印象を抱かせるため、よりいっそう小さく見られてしまうというのが真相のかもしれない。猫のようにしなやかな体躯は、彼女の動作に一切の無駄を許さず、身体の動きの美しさには意表を突くものがある。彼女の髪色は、赤みを持った暖かい感じのする黄色、金色に輝く秋の黄葉を思い起こさせる自然な色合いだ。首の半分ほどに届くまで伸ばされた髪は、その柔らかだが癖のある髪質故か、動く度にピョンピョンと躍動する。鮮やかで生命力溢れる明るい橙色の瞳は、彼女の健康的な血色の小顔において際立って大きく見え、やはり彼女の何処か子供っぽく見える印象に一役買っていた。
「ミランダにも食べて貰いたいわ。アリエル、良いでしょう?」と、コーデリアは帝国の皇族や他国の王族にはあり得ない(許されないと言うべきか)気安さで提案する。
勿論断る気はないアリエルがミランダにクッキーが入った小皿を差し出す。ミランダは寝台の上で座る己の主人をチラリと見て、怖ず怖ずと言った様子で小皿のクッキーに手を伸ばした。
パクッと一口で収まったクッキーの甘味が口内に広がる。夜明けから寝ずに控えていた体の疲れが癒されるようであった。
ミランダはコーデリアの気遣いをありがたく思うと同時に複雑な思いに駆られた。ありたい体な言葉を使えば、彼女はアリエルに嫉妬していた。
ミランダの魔力特性は火であるが、実際に魔法を顕現化するよりも魔力を体内に留めることで身体能力を爆発的に上昇させるという、かなり高度かつ器用な魔力制御が必要となる技を得意とする。
その技能を生かし、主人を守る最後の砦として側に控えていることの多い彼女であったが、実際的な手先の器用さではアリエルには適わない。
幾重にも張り巡らされた王族の警護網を突破して来るような猛者など1人もおらず、結果的にコーデリアからお褒めの言葉を頂くのは何時もアリエルばかりだ(実際は、比較しても多少多いだけであるが)
敬愛と言うよりもある種の独占欲に近い感情を主人に持つミランダは、昔から何かとアリエルに対抗心を燃やしてきた。
一方のアリエルと言えば、そんなミランダの苛烈な対抗心をぶつけられてもどこ吹く風。飄々とした態度で受け流してしまうし、彼女との付き合いも十数年となる。今ではアリエルの有能さを見習いたいと思えるようになっていた。
だが、アリエルのことを内心でいくら尊敬していようとも、姫様から一番の寵愛を頂けのはこの私だ!と意気込むミランダは日々の努力を怠らない。
今日まで秘密裏に(コーデリアは兎も角、アリエルには速攻でバレているが)お菓子作りを練習してきたのだ。最近はアリエルの腕前に随分肉薄してきたように思っていたのだが‥‥、敵もまた上達するようである。アリエルの新作クッキーを食べ、その技量の差を改めて見せつけられることとなり、意気消沈した次第だ。
とは言え、それらの心の動きを主人に悟らせるようなヘマはしない。心からの言葉でコーデリアとアリエルに礼を告げ、無言でお代わりを尋ねるアリエルに控えめな視線で断る。この有能な同僚が、ミランダの分のクッキーをキチンと取ってあることを彼女は知っていた。
穏やかな朝日が差し込む室で紅茶好きの主人が、時々アリエルと他愛もない話をして優雅にお茶をするのをただ無言で見守る。こうした心暖かで優しい空間を守ることが、ミランダにとっての幸せであり生きる意味そのものであった。
『けれど、昨日は』
ミランダが気遣わしげな視線をソッとコーデリアに向ける。
昨日の夜、コーデリアは泣き疲れて眠ってしまった。彼女を起こすことなく部屋まで運んだのはミランダだ(起こすことなく夜着を着替えさせたのはアリエルであるが、器用とかそういうレベルではなく神業である)
『やはり、結婚はお辛いか』
まだ14歳である。王族としての責任があると言っても、国内の貴族に下ろすだけにしては少し時機が早い気もする(普通は16歳くらいだ)
ミランダやアリエルも貴族の末娘であるが、コーデリア付きのメイドである限りまだまだ結婚するつもりはない。父親もそれを認めてくれている。
『何であれ、私の義務は変わらない。この平穏を守る』
彼女は固く決意する。アリエルの落ち着いた容姿と比べられて溌剌とした子供のような印象を持たれるミランダであったが、実は相当な堅物であり、普段から武人然とした態度で礼儀正しく非常に口数の少ない娘だった。
日常。幸せな朝の時間は、少女達の思いと共に、ただ流れて行く。これが最後の平穏であることを彼女達はまだ知らない。