EX.夏の日〈上〉
上中下の予定です。
「おーす、夏樹ぃ。お疲様ー!」
「‥‥別に疲れてない」
「じゃ、お元気様です?」
「なにそれ」
「だって疲れてないんやろ? だからお元気様」
綾音がなぜかどや顔で言う。無駄どや。ウザいことこの上ない。
私は稽古の後、水飲み場で小休憩を取っているところだった。夏の稽古は厳しい。暑さよりも湿度が辛いのだ。今も道着もアンダーも汗でびっしょりだ。懐から手拭いを出して顔を拭う。この水飲み場は学校にあるような給水機と手洗いが備え付けられている。風通しの良い日陰で、私はいつも休憩時にはここに来る。ていうか自宅に大型浄水機や給水機があるって半端ないな、我が家ながら‥‥
綾音は手にペットボトルのスポーツ飲料を持っていた。家の冷蔵庫には無かった筈。わざわざ近くまで走って買いに行ったのだろうか? ご苦労なことだ。
「フフン、物欲しそうな目」
彼女はそう言うとグビグビとラッパ飲みし始めた。
「‥‥うひぃー」
そしてビール飲んだオッサンのようなリアクションをした。まだ高校生の癖にその仕草が妙に様になっていた。私はその一部始終を白けた目で見ていた。どうせこの人はツッコミ待ちだ。基本的に我が姉は構ってちゃんである。構って貰えないと死んでしまうのだ。勝手に死んでおけと切に思うので私はスルーした。
「‥‥うっ、夏樹ちゃんの目が怖い。‥‥これ飲む?」
怖いとか言いながら綾音の口調は嬉しそうだ。‥‥どMに違いないのだ。この人は。心底殴ってやりたいと思うが殴ったら殴ったで負けとか理不尽である。そして無視しても喜ぶとか不条理過ぎて泣ける。取りあえず私は綾音からペットボトルを受け取ってグイッと飲んだ。
「‥‥ぷはぁー」
「うわっ!? 夏樹オッサン!!」
クソうぜぇ‥‥
☆
道場に戻ると6人ほど(女性は2人)の門下生が扇風機の前に群がっていた。みんなで子供みたいにアーとかやってる。皆さん大学生&社会人ですよね? 中三の私が言うのは失礼かも知れませんが、子供っぽいと思います。成人してもこんなものですか。幻滅しますよ、本当に。
この道場で私は下から二番目に若い。綾音は三番。そして最年少は‥‥
「‥‥若い子は元気やなぁ」
高校生の綾音が言うべきセリフではないが、ツッコまない。私のスルースキルは天下一。
「チャンと休憩してないんちゃう? 司君」
「いやいや、流石に父上が許さんやろ。根性論で何とかするタイプちゃうし‥‥」
父上って何だよ。まぁいいか。
五条司
1ヶ月前からうちの道場に通っている。中一の男の子。
道場の真ん中でお父さんと組んでいる。成長期前の小さな彼が長身なお父さんの前に立つと非常にアンバランスだ。司君の手では丸太のようなお父さんの腕を掴むのも一苦労だ。まぁ、私や綾音も苦労するけど‥‥お父さんの腕は同じ人類とは思えないほどデカいから。
「司君さぁ‥‥今日の稽古終わってから乱取りやるんやって」
綾音が唐突にそう言った。私はちょっとだけ驚いた。
「司君ってまだ1ヶ月やろ‥‥早すぎひん?」
「でもさぁ。あの子、教えた型一回やるだけで全部覚えちゃうやん。今覚えてる技だけでも正面、横面、突きには十分対応できるし、乱取り言うても二対一やし、大丈夫やろ」
確かにそうだ。初めて道場に来た日。私が彼の指導をした。指導と言っても受け身を教えただけだが、彼は一度私が実践したやり方を見ただけで次の瞬間には完璧にマスターしていた。私のやった通りに、私のやった受け身をマスターしていたのだ。あれは完璧なコピーだ。だって次の日、彼の前回り受け身はほんの少しだけ変わっていたから‥‥あれはお父さんの形だった。
武道の経験がないと言う話を聞いて私は唖然とした。天才と言う単語が安易に頭に浮かんだ。そして私の心には純粋な恐怖が芽生えた。余りの才能を前にした時、人は恐れを抱くと言うが正にそれだ。もともと稽古に熱心では無かった私は、彼が来てからは毎日稽古をするようになった。追いつかれるのは年上としてのプライドが許さなかったのだ。
「‥‥型だけ覚えても仕方ないやろ、合気道は」
だからつい憎まれ口が出てしまう。
「まぁ、確かにそうやけど。何だかんだ型からやで‥‥それに司君の感じ取る能力は凄いやん。ホンマ良いもん持ってんなぁ、あの子」
感じ取る能力
気の流れを感じ取るのが上手いと綾音やお父さんは言うが、そんな生易しいものでは決してないと私は思う。あれはもっと無機質なものだ。
司と組んだ時、私は彼の視線に不気味さを感じる。彼は技をかけられる際に異様なまでの集中を見せる。そして表面的に見える動作ではなく筋肉の動きを感じ取ろうとするのだ。その瞬間、私はまるで自分が肉と骨の塊になったかのような気分になる。人間ではなくモノとして扱われていることを強く意識してしまうのだ。
非人間的
天才が疎まれる所以。
私は確信している、彼は割と簡単に人を壊すことの出来る種の人間であると。人を人として思わないのだから、きっと何の忌避もなくやってのけるだろう。だから怖いのだ。
はっきり言って私は五条司のことが苦手だし嫌いだった。
☆
稽古後、門下生の方々や私も含め皆で道場の掃除をした。これからは武器練習をしたい人や居残り練習をしたい人以外は帰ることになっている。
私は道場の隅から司の乱取りを見ていた。私以外にも見物人は2、3人いる。彼らもうちの期待の新人には興味深々なのだろう。
司と向かい合っているのは綾音ともう一人は黒帯の男性だ。流石にお父さんは参加しないらしい。
いくつかの手順を踏んで、お父さんが始めのかけ声を上げた。座したまま礼をした三人のうち、二人が立ち上がる。まずは司が取り(技をかける側)、綾音が受け(技を受ける側)をするようだ。黒帯の人は三十秒後に受けとして参加する。
司の技は正確だ。形だけ覚えていても仕方ないと言ったものの、ほとんど初心者にここまで出来るのは正直凄い。何より彼はとても落ち着いていた。けれど‥‥
お父さんがまたかけ声を上げると、黒帯の人が一礼して立ち上がった。これで二対一だ。乱取りは四対一から真価を発揮しるなんて言われるが、二対一でも初心者には厳しい。この状況でも落ち着いて対処出来るのか見物だ。
驚くべきことに司は見事に捌き切って見せた。受けの動きがどんどん加速していく。正面や横面目掛けて切りかかって来る手刀や腹に突き刺さって来る拳。それらに対して技をかけること自体は簡単だ。問題は一人に技かけている隙をもう一人に突かれないようにすることだ。そのためには位置関係に応じて多種多様な技の中から適切なものを選択しなければならない。思考が追いつけないような一瞬の状況判断。反応は身体に染み付いた動き。それは身体による思考とも言うべきものだ。そして司は賢く対処し続けた。
結局、一撃も食らうことなく司は乱取りを終えた。途中から受けの二人は手加減無しで本気でやっていたように見えたにも関わらずだ。隣で見ていた人達はやっぱり司が才能があるとか何とか言っていた。
三人で再び掃除を始めたので私も手伝うことにした。
箒を手に遠目から司を伺う。司の容姿は整っている。はっきり言って少女的だ。女装しても普通にボーイッシュな美少女で通る容姿なのだ。髪の長さも男の子にしては長いし、体つきも線が細いし、本人曰わく母親似の顔は目鼻唇耳、どこを取っても可愛く整っている。綾音は子犬のようだと言う雰囲気が司にはある。確かにこの容姿は相手の庇護欲をくすぐるだろう。また誰に対しても物腰は柔かで礼儀正しい。オマケに賢くてスポーツ万能。人に嫌われる要素など皆無。学校ではさぞかしモテるに違いない。
けれど瞳の奥だけは相変わらず不気味だと私は思う。昆虫系の目だ。別に複眼とかそう言う話じゃなくて、直感的にそう感じさせる色がある。
初めて会った時からずっと彼に感じていた違和感を私は拭い去れることが出来ないでいた。
私が初めて司に出会ったのは、まだ夏休みが始まる前のこと。
そう、あの頃はちょうど私の人生を変えた大事件から一年が経った時くらいで、私は当時の出来事を思い出して暗い気持ちになっていた。だから彼の瞳の底暗さに気がつくことが出来たのかも知れない。‥‥否、元々知っていた、あの瞳と似た色を。当時の私はそういう目をした子達と出会う機会は多かった。みんな家庭に問題のある子達ばかりで、不安定で刹那的虚無的で攻撃的で脆くて‥‥寂しがり屋だった。
司もそうなのだろうか。綾音と談笑する彼を見て思う。
彼の顔を眺めていると偶然視線がぶつかった。私は慌てて目線をズラす。やはり私は司のことが苦手で嫌いらしかった。