10.脱出〈上〉
無限たる暁の世界。天は紫煙。煌々たる紅が荒野を染める。これが神の箱庭。鋼鉄の楔が一面に埋め尽くされ、そこから縦横無尽に鎖が伸びる。そして、一振りの剣が赤い大地に突き立てられている‥‥見間違える筈もない、それは自らの心臓を刺し貫いた『破魔の剣』であった。
紛れもない、ここが異教の戦神の座。しかし、この場にいるのは、コーデリアただ一人‥‥
否。
コーデリアの背後に女が居た。
だが、驚くほど存在が希薄であった。
コーデリアに瓜二つの顔に微笑を湛えて佇んでいる。
コーデリアは声を掛けようとした。
しかし、その瞬間に女の姿は霞み、そのままコーデリアの影に溶け込んだ。
夢のような光景にコーデリアは首を傾げた時だった。
『コーデリア』
誰かに名前を呼ばれた気がした。
『ツカサ‥‥?』
コーデリアは周囲を見渡す。
地平線の果てまで、世界は一様に広がっていた。
『コーデリア。契約の時だ、俺に代償を求めるんだ』
ハッと、彼女は夢見心地の気分から意識を明らかにした。ここで、何を成すべきか思い出したのだ。
「そなたの魂と肉体を我に捧げよ」
武装さし姫神。世界に現前せよ。
コーデリアは、剣を引き抜く。
蒼穹が世界に満ちた。
☆
巨大な魔力の球体が一瞬で収縮して消失した。 ただ、先ほどの急激な変化と異なり、周囲に強烈なソニックブームを撒き散らしながらである。
祭殿にいた誰もが頭を庇って伏せた。
そして、顔を上げた時、初めて少女の異様な姿に気がついたのだ。
黒真珠のような漆黒の髪、青紫と言うには余りにも濃く暗い瞳、そして、胸元にはまるでブローチのように鮮やかな青い石が埋め込まれていた。
「姫様‥‥!?」
サーダ帝国兵の形をしたアランが驚愕の声を上げた。
その声に反応して、バッとコーデリアが彼に顔を向けた。
腰まで届く黒髪は驚くほど軽く、身の素振りに合わせて優雅に宙を舞った。
その瞳は麗々たる輝きを内包している。彼女の凛とした瞳が鋭くアランを捉えた。
アランは確信した。
姿形は同じでも、この少女はコーデリアではないことを‥‥
しかし、少女は力強く叫んだのだ。コーデリアと全く同じ声で。
「アラン!!」
その瞬間に、アランは少女に目掛けて疾風の如く駆け出していた。
彼女はアランに向けて腕を伸ばし、彼の首に両腕を絡ませた。
アランは少女の腰をしっかりと抱き寄せながら、地を駆け抜ける速度はそのままに風魔法を行使した。
彼は出口ではなく、破られた天井を目指し飛翔したのだ。
一連の動きは無駄なく素早かった。見事な逃走に追撃の魔法を放つことが出来た者すらも少なく、ましてや直ぐに追走できた者はいなかった。
こうして、コーデリア達は窮地を脱したのだ。
☆
ある程度の魔力を保持する者は不死に近いとされる。だが、肉体の強靭さだけではないのだ。身体の老化すらも魔力は許さない。常に在るべき姿に保つよう働き続けるのだ。
ウンブリエルは治療を受け、切り落とされた右腕を肩に癒着させていた。勿論、治療は魔法で行われているが、人体に働きかける魔法と言えば水魔法が有利であり、当然ウンブリエルの部隊にも治療を専門にする水魔法使いがいた。
「おい、おっさん。何でコーデリア王女の護衛に『変身魔法』の使い手がいる‥‥?」
ウンブリエルが掘りの深い顔に一層影を浮かべて、ガルザームに問いかけた。
「‥‥王族を護衛する者達の情報は厳重に秘匿されていますからね。いやはや、驚かされました」
ガンっと座り込んだままのウンブリエルが拳を叩きつけ、怒りを露わにした。
「何で‘準王族級’の魔法使いが末姫の護衛なんかしてんだよ‥‥!? あの糞野郎、どう考えても公族だろうがっ!!」
「ウンブリエル様!!傷に響きます。どうか御乱心なさらないで下さい‥‥!!」
「糞っ‥‥!!」
ウンブリエル隊の水魔法使いであり、唯一の女性隊員である衛生兵の諫言に、彼は腹立たしげに悪態を吐いた。
掘りの浅い顔立ちと白い肌を持つ女は、明らかにガリア人である。
ガルザームは女の出生に一抹の興味を抱きながらも、ウンブリエルに声をかけた。
「不完全ではありますが、一応儀式はなされました。王族は魔力を失い、王国の滅亡は確実。リア海沿岸部の貴族隊も続々と反旗を翻すことになります。大目に見て、我々の戦略的目標はほぼ達成されたと言っていいでしょう」
異教の神の召還は、次の機会を待って、別の王族を用いれば済む。
この場においての最重要事項は、海神ソルとリア王家の契約を断ち、彼らを弱体化させることであった。
「王女は捕らえ、男は殺す。後はおっさんに任すわぁ‥‥」とウンブリエルは言いながら立ち上がった。
「来い、ミーシャ。儀式は終わりだ‥‥俺は明日の朝まで休ませて貰う」
ミーシャと呼ばれたガリア人の女が、ウンブリエルの後を追った。青い髪が肩の辺りで揺れていた。
ふむ、と何かを納得したかのように頷いたガルザームは、ウンブリエルや手勢の部下に幾つかの指示を伝えた。
『捕まるかどうかは五分五分でしょうね。あのアランと言う男は正直手に余る。ウンブリエル殿も若干諦め気味のようですし‥‥まぁ、憤然やるかたなしと言ったところですが、ご不満は女にぶつけるつもりのようですね』
結局、ガルザームは追っ手を冒険者や傭兵達に任せ、万が一、コーデリアが捕虜の救出などと馬鹿げた真似をした時のため、ウンブリエルや自身の手勢を神殿に配置させることにした。
☆
「もう良いでしょう。離してくれませんか?」
嵐の中、少女を抱えながらも、木々の合間を飛び抜けるアランに、司はそう言った。
多少の雨を防ぐことの出来る比較的大きな木の枝に着地した彼は、脇に抱えていた彼女を下ろした。
同時に素早くコーデリアの身体にマントを被せた。
「風を引く恐れがあります。今の姫様は魔力をほとんど持たないのですから、以前以上に体調には気をつけねばなりません」
そう言われると、少女は無邪気に微笑んだ。アランは少し狼狽えた。
「ふふっ。いえ、申し訳ありません。アナタような父親を持てたら、きっと幸せ者だろうな、と思って‥‥」
『やはり、この方は姫様ではない』
魔力が失われた結果、容姿が変化したのではないかとアランは思っていた。しかし、少なくとも、コーデリアはこの様な無邪気でありながら蠱惑的な笑みを浮かべることはない。
『このような状況でも、よくそんな気遣いを言葉に出来るもんだ。日頃からコーデリアの身を気にかけている証拠だろう。彼は尊敬に値する良い大人だよ、コーデリア‥‥?』
心中で司が問いかけた声に、答えは返らない。
「お察しの通り、私はコーデリアではありません」
司は事のあらまし、そしてこれから起こるであろう事を隠すことなくアランに伝えることにした。
荒唐無稽な話だと思うが、何も包み隠さず正面から向き合った方が、かえって上手くいくと思ったからだ。
簡略に大体の事情を話した。
「依り代の存在は知っていましたが、まさか異世界から人の魂を呼び寄せていたとは‥‥。ツカサ殿も大変な災難に巻き込まれてしまった。では、コーデリア様はただ眠っていらっしゃるだけなのか?」
「えぇ‥‥」
『偉く物分かりが良くて逆に戸惑うかも‥‥【風魔法の使い手の中には感情の感知に優れた者がいる】‥‥この情報はコーデリア、海神ソルの依り代さんか?つまり、嘘発見器ってことか。便利だなぁ』
「これからどうしますか?」と司が尋ねた。
「島から脱出する。と言っても、この嵐では魔法船でも危うい。しかし、足止めの為に作り出されたものならば、明日は弱まっている可能性が高い。このような大魔法をそう何日も続けることは出来まい」
‥‥それまでは潜伏するしかない。逆にこの嵐が助けてくれる、と続けてアランは言った。
「確かに、明日には晴れるでしょう‥‥何しろ今日中に王族は皆殺しになり、サーダ帝国は早急に軍勢を送り込む必要がありますから‥‥脱出の手段は?」
「アナタを抱えて飛びます」 司は思わず吹いてしまった。
「凄いな、魔法は‥‥」
アランが怪訝な顔をした。
司が、自分の世界に魔法が存在しないことを話すと彼は唖然としていたが、やがて得心したとばかりに頷いた。
「流石、異世界。常識ハズレも甚だしい」
「あれ?それはこっちの台詞なんですが」
くくっ、と2人で笑った後、アランはフッと息を吐いて言った。
「リア王国の滅亡はもはや免れ得ない。よもや、私が生きている内に乱世の時代が来るとはな‥‥。騎士としての忠誠を貫くのならば、王家の血の存続に一身を賭けるべきだろう。やはり我が命、コーデリア様をお守りする以外の使い道はないということか」
『何という忠臣』
司が感嘆した時であった。
『う‥‥?‥‥ここは‥‥どこ‥‥? ツカサ? あぁ‥‥!? アランだわ!! ねぇ、ミランダとアリエルはどこ!? ねぇ!?』
コーデリアが目覚めた。